【Review】映画『阿吽』 ただならぬライティングの形態へ text 菊井崇史

20XX年、都内大手電力会社に勤める彼は、ある宵、声を受けとる。ひとつの電話越し「ヒトゴロシ」と声は響く。声の正体はしれない。ただ声が届く。「タイチョウガワルイ、…、ナニカコタエロ、…、ドウスンダヨ、…、ヒトゴロシ」と。彼は黙りこくり、途切れる通話、ここで声は終に声以上のものではない。会話ではない。声にたいし彼は受動をしいられている。この受話を機に以後、身心は変調をきたし日常が非日常へとおいこまれてゆく、彼がそう覚えるかぎり、声はひとつのモメントである。だが、これだけではない。彼はウェブ上の文字を見つめる。書き込みに瞳を落とす。「原発でも原爆でもなんでもやって人類滅びちゃえばいいんだ」「電力料金値上げだと? ほんとクソ。いやクソ以下」「日本中に放射能をバラまいたテロ集団。全役員全社員死刑だろ」これら書き込みのすべては「名無しの日本人」によると表示されている。それを黙読する彼にたいし、見る必要はないと彼の恋人はたしなめるが、彼は見ることをやめないのだから、彼はここで見なくても済むものをあえて見ている、ということになる。しかし、ここでも言葉は、やりとりではなく会話ではなく、匿名の、正体のしれないものからの書き込みを一方的に受けとっている。声とは別のモメントとしてある。

ここから加速的に、彼は自身が狂ってゆくと感じる。聴こえるはずのないもの、視えるはずのないものを幻覚しているのだと。映画『阿吽』での彼の狂い端緒であるモメントは、彼の心身が声によって書き込まれ、文字によって書き込まれることにある、そういえる。彼の日常は揺らいでゆく。自己や友や恋人では、この揺らぎ、振動をとめることができない。彼は職を辞し、茫然と救いをもとめるように彷徨をはじめる。

電話越しの声と文字の書き込み、彼はそれらをすがたなきものからの遠隔の位置に受けとっている。しかし、この遠隔の距離を決定する布置が、地理的なパースペクティヴにのみ還元できるとはおもえない。20XX年という設定からも、それらは時間的な遠隔のもと彼に届いていると見なすこともできるからだ。さらに、彼が大手電力会社に勤務していること、彼が受けとる言説の内実から、それが発せられるにいたる出来事、因果は確固と察することができる。特定の個人にとは決していえないが、先の訴えをむけられうる生活基盤の条件下に彼は生きているとも見なされるし、彼自身がそのように飛びかう言説に苛まれる可能性は充分に考えられる。彼が自身の生活基盤に罪を覚えることも、疑義を深めることもあるだろう。しかし、それだけでは契機の理由にはならない。さらに問うべきは狂いの口火となる経験の質だ。時と場の遠隔によって、声と文字の発信者のすがたは可視化されていない。では、この発信者の特定が、誰からのメッセージなのかという追及が、彼の変調をくいとめるものとなるのだろうか。そうではないというべきだ。発信者のいかんよりも、声と文字を受けとったという事実そのものが決定的に、その物理的な接触が決定的に、その方位が決定的に、彼の日常を非日常へと不気味にスライドさせているからだ。

知覚の変容に苛まれ、衰弱する彼の彷徨は、声や文字の発信者にむかっているかに見えるが、そうであるよりも彼の道ゆきのまどろむ求心は、その発信がなされるにいたる出来事の現場、まさに出来事が書き込まれた地へと向かってゆく。そこには防護服に身をつつんだ人間がいる。だが彼らは彼を呼び寄せるものではない。ついに、その場所に「在る」ものと邂逅した彼は、たすけてくれと告げる。彼は心身の変調を停止させるためにそこにむかったのだとおもっているかもしれない。日常をとりもどすという意味においての救いをかろうじてもとめていたのかもしれない。だが、そうはならない。

彼はこの地においてもっとも苛烈な書き込みを施される。彼は決定的に変貌する。揺らいでいた彼の日常は、完璧に非日常の領域に突入する。人間であることのタガが外れ、狂うことが覚醒であることに一致する。

ここまでが『阿吽』のモメントとして開示されている。この契機を辿れば、彼の経験において声や文字の記述者は、すがたをあらわさないのではなく、その音や文字による書き込み自体が、彼を襲うすがたそのものであり、彼が受けとった全てなのだといいうる。彼は書き込みそのものを経験した。彼は聴覚から、視覚から別々に、書き込みという実意自体を経験し、彼の身心によってその書き込みを束ねている。彼はその経験を外在的に表出させる。ここで、本作が「懐古趣味ではなく、最先端の手段として8mmモノクロフィルムを選択している」と意志されていること、メディアの形態が映画の内実そのものに懸けられていることを確認しておきたい。なぜなら、聴覚的、視覚的書き込みにかかわる彼の経験を一挙に体現しているものこそが映画だ、とおもわれるからだ。映画という書き込みの形態だ、と。

『阿吽』が「阿吽」たるゆえんをぼくは、ここにこそ見定めたい。梵語で字音の初めの「阿」、終りの「吽」、万物の根源の「阿」と帰着「吽」、呼気と吸気という連環をも一体に意味する「阿吽」という言葉の対応を、撮影(書き込まれる)と映写(書き込む)、つまりは「阿吽」を映画(書き込みの連環)だと考えてみたいのだ。レンズ、キャメラに届いた光の感光の濃度が、フィルムという物理の反応として定着する。光が書き込まれる。録音はサウンドの物理として刻まれる。音が書き込まれる。それを束ね編集し映写するという映画というメディアの機構過程が、『阿吽』を生きる彼のうつろいとしてかさなる。映画作品に籠められた彼の経験と、映画の物理的成立とが「阿吽」と同型の連動に展開される。

彼は書き込みを契機として狂い、その狂いをさらなる契機として別のものとなる。彼の変貌は、電話やウェブ上の言説を自身に同一化したわけでも、その言説にエコーチェンバー的に感染したわけでも、その言説への反感を表象したわけでもない。彼の変貌は、そのようなメディア上の言説の効果によるものではない。それらを契機としながらも、彼はラディカルに映画というメディアの機構そのものを体現している。彼は映画を生きる。彼は電話の声、文字の書き込みを受ける。光景の光の物理を浴びる。ライティングに晒され、ライティングを晒す。彼は光の濃度と闇の濃度を高めてゆき、物質である光、物質である闇として放たれる。狂気と正気、ヴァーチャルとリアル、ゆめとうつつといった二元論的認識の区分け等、人為的認識規定を彼は破る。あるいは、それらの識別の決定不能な領野として、そのどちらともいえないといった否定形としての把握するではなく、その決定不能こそがまさに全域なのだと突きつけるゾーンに彼は在る。映画は在る。そして、そのディメンションこそ現実なのだと言い切る位置に彼は在る。映画は在る。彼は既存の人為的な認識規定の尺度を超えた存在に変貌している。

『阿吽』という名のもとに、本作は人間における「破壊と再生」が見極められようとしている。「破壊と再生」を見ることで「破滅と救済」を問おうとしている。そしてその問いの次の段階へ踏みこもうとしている。「破滅と救済」という文化表象は「破壊と再生」にかかわり、同型の視座のもとにとらえられるが、同位相の出来事ではない。「破壊と再生」はことさら非日常的なことではない。日常に隠蔽されてもいない。それは日常の生活基盤に組み込まれた原理でさえある。ありていにいえばすべてのものは「破壊と再生」といった物理におおわれている。現在、多くの人間の暮らしはそれを当然のごとく、しかしいびつに前提としている。例をあげるまでもなく、リサイクルといった話法にさえ人はそれを利用している。

「破壊と再生」が「破滅と救済」と認識されるには、日常が非日常にかわるには、そのための契機がいる。それは「破壊と再生」の物理的な尺度が、人為的な尺度を超えてしまうことである。しかるべき時空間のなかでしかるべき範疇の「破壊と再生」が、その「しかるべき」という人為的認識の尺度を超えてあらわれるとき、それは「破滅と救済」というディメンションで認識される。日常は非日常と呼ばれる。カタストロフ、奇蹟、恩寵のように。これはこの世に生まれた命が、「怪物や亡霊」と呼ばれる原理とひとしい。その存在が人為的な尺度を超えたあらわれであると認識されるとき、「怪物や亡霊」と呼ばれる。つまり「破滅と救済」とは、「破壊と再生」の「怪物」形態である。

そして、『阿吽』を生きる彼は、人為的尺度をはずれたものである。日常ではなく非日常、「破壊と再生」ではなく「破滅と救済」、人間ではなく「怪物や亡霊」の側に名ざされるものである。しかし、この規定は言うまでもなく、あくまでも人為的な尺度による。肉体身体的認識を経ていたとしても、人為的に構成された視座による。彼はそのような視座を実在のただならぬ光度で飛ばす。人為的認識の「破滅と救済」の「怪物や亡霊」のディメンションに息衝く彼は、そのフレーミングを意に介すことはない。映画であるという事実において、狂気や夢や幻覚といった認識の区分けが決定不能なリアルの形態を体現しているように。

「阿吽」である彼は救いをもとめているが、同時に破滅をもとめている。彼には救いと破滅は一体だ。彼は「阿」か「吽」のどちらか一方に加担するものではなく、一体のものとしての「阿吽」である。ならば、彼の瞳にうつるものはひとしく、かけがえがないものであり、同時に壊滅させるべきものなのだ。ゆえに彼は人為的な罪や裁きの審級では、はかることができないものである。ひるがえって、『阿吽』は次の実践を要請している。人為的尺度を超える実体、出来事を狂気と正気、「破滅と救済」、「怪物や亡霊」と人間といった既定のフレーミング論法に落としこむのではなく、はかりがたき「阿吽」を凝視し(書き込まれ)、規定された認識が瓦解するディメンションで認識自体を再認識し、「阿吽」を別なるまなざしでとらえ直す(書き込む)こと、その「阿吽」(書き込みの連環)を留保のない現実の渦中に要請しつづけている。これは映画の実践そのものなのだ。

写真は全て©2018 yukajino

【映画情報】

『阿吽』
(2018年 / 日本 / 74分 / 8mm→DCP / モノクロ / 1:1.33 / ステレオ)
出演:渡邊邦彦 堀井綾香 佐伯美波 篠原寛作 宮内杏子 松竹史桜 上埜すみれ 
            板倉武志 安竜うらら   井神沙恵 岡奈穂子 佐藤晃 國岡伊織 鈴木睦海 
            瑞貴 中信麻衣子 長谷陽一郎 山下輝彦 
いとうたかし ターHELL穴トミヤ 
           新谷寛行 野崎芳史

撮影:宮下浩平
照明:伊東知剛
監督補:植田拓史
記録:仙元浩平
俗音:近藤崇生
音楽:河野英
特殊メイク:土肥良成・鈴木雪香
劇中画:Ullah
脚本・編集・監督・プロデューサー:楫野裕
宣伝:contrail
製作・配給:第七詩社 The 7th Poetry Society

公式サイト→ https://www.aunfilm.com

〈アップリンク吉祥寺〉にて2019年 4月13日(土) ~ 26日(金)レイトショー公開!

【著者プロフィール】
菊井崇史(きくい・たかし)
大阪生まれ。 詩や写真、また映画等の評論を発表。 2018年に『ゆきはての月日をわかつ伝書臨』『遙かなる光郷ヘノ黙示』(書肆子午線)の二冊の詩集を刊行。 neoneo誌のレイアウトにも参加する。