【連載】「視線の病」としての認知症 第9回 スタートラインに立つ text 川村雄次

小澤勲さんとクリスティーンの出会い

「視線の病」としての認知症
第9回 スタートラインに立つ

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この連載の第1回に私は、クリスティーンの言葉との出会いを「希望の光」と捉えた人々がいて、そうした人々と出会いを重ねたことが、私にとっての希望だった、と書き、その筆頭として精神科医 小澤勲さんの名を挙げた。

2003年10月当時、小澤さんは65歳。20数年にわたって精神科病院や介護施設で認知症の人の医療やケアに携わってきたが、クリスティーンと出会い、人生が変わった。そして、この出会いに力を得た小澤さんの発信が、その後の日本の認知症ケアに大きな影響を与えた。

私たちNHKロケチームは、クリスティーンと小澤さんとが初めて出会う瞬間をカメラに収めている。場所は岡山駅に隣接したホテルのロビー。小澤さんは、石橋さんに伴われ、満面の笑顔で近づき、英語で自己紹介しながら、クリスティーン夫妻と固く握手。出版されたばかりの著書を手渡して、「あなたの本について日本に初めて紹介しました。私の考えていたこととクリスティーンさんのおっしゃっていることとは非常によく似ている。」と言い添えた。

小澤さんは、岡山から松江までクリスティーンの講演旅行に同行し、「前座」を務めることになっていた。講演のタイトルは『痴呆を生きるということ クリスティーン・ブライデンさんに学ぶ』。旅行中、小澤さんはいつ会っても上機嫌で布袋様のようにニコニコ笑っていた。松江の講演ではクリスティーンの講演が終わるとすぐ舞台に上がり、「クリスティーンさーん、会いたかったあ。ハゲる前に!」と、薄毛の頭をなでて会場を爆笑させた。だが、この時、小澤さんは命に関わる健康の問題をかかえていた。前の年の4月に肺がんが見つかり、「余命1年」と告げられていたのだ。布袋様のような容貌は、抗がん剤治療のために髪の毛が抜け落ちた結果だった。

小澤さんに前座を頼んだのは、もちろん石橋典子さんである。もともと石橋さんは、クリスティーンの著書の日本語訳を出版するに当たって、旧知の小澤さんに、訳文を見て、直してくれるように監修を依頼していた。その時、小澤さんはがんの告知を受けた直後で、「余命いくばくもないので、仕事を選びたい。全部訳せと言うなら引き受けるが、そうでなければ、全体に目を通してチェックするくらいにしてほしい」と断った。

残された時間を使って小澤さんがやり遂げようと決めたのは、それまでの認知症の人たちとの関わりを通じて自らが学んだことを、一般の人に分かる形で書き残すことだった。

小澤さんの認知症研究は極めてユニークで、おそらく世界に例を見ないものである。そもそも小澤さんは、「研究はしていない」と言うのである。また、「患者」とも言わない。「患者」というのは医療の対象であるが、あくまでも「一人の人」と見て、「彼らは何を見、何を思い、どう感じているのか、彼らはどのような不自由を生きているのだろうか」と、知識と想像力を働かせ、仮説を立てては試し確かめながら、心に添った治療・ケアの道を探ってきた。そうした「臨床」から得た学びのエッセンスを残そうと考えたのである。

それは、当時医学雑誌に発表される論文のほとんどが、認知症になる原因や症状についての生物学的研究や検査法を叙述するのみ、介護書は「問題行動」への対処法を述べるのみで、人としてどう関わるのかに全く触れていないのと対照的だった。いわば、認知症を病みながら人間らしい人生を全う出来るようにすることを目指す「新しい認知症ケア」の可能性を拓く基本理論だった。

小澤さんは、出版するあてもないまま原稿を書きあげた。幸運なことに、その原稿を読んでもらった人が、これは多くの人に読まれるべきだと確信し、その尽力で、岩波新書の1冊として、クリスティーン来日の3ヶ月前に出版された。題名は、『痴呆を生きるということ』。この本では、いわば起承転結の「転」にあたるかなめの一章を、まるまるクリスティーンの未刊行の著書の紹介にあてていた。クリスティーンという「認知症を生きる本人」が書き記す言葉の一つ一つが、小澤さんの20年来の仮説の正しさを裏付け、「ケア理論」に命を通わせていた。そして、クリスティーンの個人的な体験と思索を綴った手記は、小澤さんの読み解きと相まって、日々のケアに役立つヒントを与えるものとなった。

小澤さん、クリスティーン、それぞれが「これだけは書き残そう」と書いた2冊の本は、出版から16年経った今も、認知症の本人やケアに携わる人々のバイブルとして読まれ、版を重ね続けている。まことに幸福な出会いだったというほかない。

もちろん、こんなことは後になって考えてみると、という話であって、当時、小澤さんに講演の前座を頼んだのは、もっぱら石橋さんの直観であり、私たちは訳も分からず巻き込まれていたのである。

二人が初めて対面した日の夜、歓迎会が開かれた。そこで、その後小澤さんが講演で繰り返し語ることになる、印象的な出来事があった。会場は、畳敷きの日本座敷。招聘に関わった人たちが全国から何十人も集まり、ひしめきあうように座っていた。アワビなどごちそうが並び、クリスティーンが「自分たちがこんな歓待を受けていいのか?」と通訳に尋ねるほどだった。乾杯が終わると、ワイワイガヤガヤ話し始める。前回記したように、この時期、認知症ケアに携わる人たちのやる気、熱気は、今では想像しがたいほどで、あちらでもこちらでも名刺交換が行われ、議論に花が咲いていた。

そんな中、クリスティーンが関心を持ったのは、「お酌」だった。ビール瓶を持って、他の人々のコップに少しずつつぎながら歩く、あの慣習である。そして、夫のポールに、お酌をして回ってはどうかと勧める。ポールは、「OK」と軽く返事をして立ち上がり、一人一人にビールを注いで、クリスティーンの横に帰ってきて座布団に座る。ところが座ったとたん、クリスティーンが「行ってきたら」と言う。ポールは、また「OK」と立ち上がり、ニコニコ笑いながらお酌をして回ったのである。どうやらクリスティーンが忘れていたらしい。通訳がポールに尋ねると、「行ったのか行かなかったのか、何回行ったのかとクリスティーンと議論するくらいなら、もう一回行けばいいとぼくは思う。それで彼女がハッピーになるんだったら。彼女はみんなに喜んでもらいたくてそう言っているのだから、その気持ちに添えばいい。」と答えた。

その様子を見ていた小澤さんは、このポールの姿勢に、理想的なケアパートナーの形が体現されていると感じ取った。認知症によって低下した知的機能をケアパートナーが的確に補うならば、認知症が進行しても、最期までその人らしさを保って生きることが可能なのではないか。クリスティーンとポールのあり方に、認知症ケアの進むべき方向や可能性を見出していた。

認知症とともに生きる生身の存在と出会ったことで、小澤さんのケア理論は、さらに生き生きと豊かに花開いていく。講演会で小澤さんはポールの紹介を買って出た

小澤さんはその後、肺から骨や肝臓、脳などに転移したがんの治療を受けながら、講演や著述を続けた。その際、必ずと言っていいほど私たちが作った番組に言及していた。私も、取材しながら疑問や発見があると、何でも小澤さんにお伝えして教えをこうた。

亡くなったのは2008年、70歳。「余命1年」と告げられてから6年が経っていた。余命が5年延びたこととクリスティーンとの出会いとは、無関係ではない気がする。

確かなのは、クリスティーンとの出会いによって勢いを得た小澤さんの「ケア理論」が、認知症と診断された人々がその後の人生を生きるための指針となり、生き方に変化をもたらしたことである。2003年当時、日本ではあり得ないことに思われていた、日本版のクリスティーンとポールたちが次々と現われるのを、私は目撃し、番組を作っていくことになる。

小澤さんは、クリスティーンの著書の日本語版の巻末に寄せた文章で、以下のように記している。日本の私たちとクリスティーンとの出会いについての歴史的位置づけであり、今に続く予言でもあると思うので、やや長文になるが、ここに引用する。

「痴呆を病むということが、人の手を借りて生きざるを得ないということであるとすれば、希望は人と人とのつながりに求めなければなるまい。希望に誘うその手は優しさに加えて痴呆を病むことの困難を知り尽くしていなければならないだろう。例えば、身体障害なら、リハビリテーションの考え方や技術の莫大な積み重ねがあり、理学療法士や作業療法士という専門職もいる。だが、痴呆の場合はまだとうていそこまでいってはいない。私たちはこの書によって、ようやくそのスタートラインに立ったと思う。」
(『私は誰になっていくの?』2003年クリエイツかもがわ刊より)

クリスティーンの前座講演をする小澤勲さん

(つづく。次は6月10日に掲載する予定です。)

【筆者プロフィール】

川村雄次(かわむら・ゆうじ) 
NHKディレクター。主な番組:『16本目の“水俣” 記録映画監督 土本典昭』(1992年)など。認知症については、『クリスティーンとポール 私は私になっていく』(2004年)制作を機に約50本を制作。DVD『認知症ケア』全3巻(2013年、日本ジャーナリスト協会賞 映像部門大賞)は、NHK厚生文化事業団で無料貸出中。