【連載】「視線の病」としての認知症 第8回 内側から見た認知症 クリスティーンが語ったこと text 川村雄次

松江での講演

「視線の病」としての認知症
第8回 内側から見た認知症 クリスティーンが語ったこと 

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2003年10月31日朝の関西空港。

私が認知症について作る初めての番組のビデオテープが回り始めた。カメラが捉えたのは、滑走路に着地する緑の翼の飛行機。クリスティーン・ブライデンと夫のポールが来日し11月9日に飛び立つまで、10日間の旅の一部始終に同行。その記録を25分にまとめ、「クローズアップ現代」の枠で放送する計画だった。

飛行場の到着口から出てくるところから、見知らぬ土地を手をつないで歩く道筋、そしてホテルの部屋の中まで、私たちは2人を追いかけた。文字通りの「密着」だった。何が起こるか分からない、何一つ見逃すまいと、意気込んでいた。今となっては、どうしてそんなに気負っていたのか、また、クリスティーンたちがどうしてこんな取材を許してくれたのか、不思議な気がするのだが、私たちも彼らも、世の中に知らせるべきことがあるという使命感に燃えていたのだ。その異様な熱気は、私たちだけでなく、この旅に関わる人たち全員を包んでいた。

日本に到着して一夜明けた11月1日、さっそく岡山での講演が行われた。階段状の客席はギッシリと人で埋まっていて、一つの空席も見当たらない。黒いズボンの上に燃えるように赤い上着を身にまとったクリスティーンが舞台に上がると、クラシック音楽のコンサートのような、細かく分厚い拍手が沸き起こった。マイクに身をかがめて「コンニチハ」と日本語であいさつすると、会場も「こんにちは」と返した。謙虚で親しげだったが、有名なオペラ歌手のように堂々としていた。

その2日後には松江で講演。今度は、青いワンピースの上に、赤やオレンジ、紫、緑に染まる秋の山のように色鮮やかな上着を着ていた。いずれも定員500人だから、2回合わせても1000人超。規模は大きくないが、集まったのは全国からだった。日ごろ認知症の人と接触している医療やケアの専門職や家族が多かった。当時はまだインターネットが今ほど普及していなかったし、大々的に宣伝した訳ではないから、直前に新聞に紹介記事が載ったものの、たいていの人は口コミによって知ったのだろう。そのような情報がやりとりされるネットワークにつながっている、特に関心の高い人たちだったと推測される。

講演会場は、人びとの注目と期待が壇上に押し寄せるようで、実際よりずっと多くの人がひしめいているように感じられた。

全国から集まった聴衆 2003年11月3日 松江

全国からどんな思いをもって集まったのか、松江での講演の後の質疑応答での質問に、その時の気分がよく表れていると思うので、いくつか紹介する。質問者は5人。40代から70代と思われる女性たちだった。


<質問者1(家族)>

母が13年前から認知症になり、5年間施設でお世話していただいています。ものが言えなくなって3年になります。面会に行っても、たまに返事をするものの自分からは何も言わないので、なかなか理解出来ません。クリスティーンさんが一番うれしい時はどういう時で、一番つらい時はどういう時でしょうか。それを聞くと、少しでも母を理解出来るのではないかと思うのです。

<質問者2 (ケアマネジャー)>

私はケアマネジャーとして家族のいない孤独な人に関わっているのですが、限られた時間でどう支えてあげたらいいのか、行き詰まっています。その方はとても頭のいい方なのですが、頭にもやがかかっているようだと訴え、時々、混乱して訳が分からなくなり、パニックに陥ります。本人の思いをかなえてあげたい気持ちと、行動を起こした先にどうなるかが分かっていると、あらかじめ阻止してあげたい気持ちとで、葛藤しています。無理にでもやめてもらったほうがいいのか、混乱を覚悟で突き進んでいったほうがいいのか、教えてください。

<質問者3 (管理栄養士で家族)>

私は母を介護しています。認知症は病気です。でも、周りの私たちが明るく笑顔で過ごすことで、母も笑顔で暮らすことが出来ています。地域の人たちともに生きることが出来ています。もし、母が私をわからなくなっても、顔にはほほえみが残っていてほしい。そんな生活をこれからもしていきたいと心に思っています。私の考えをどう思われますか?


こんな問いにどう答えるのだろう。

どんな場合でも、誰にとっても、「質問に答える」のは難しいことだが、とりわけ答えるのが難しい質問ではないだろうかと、私は思った。人々は、認知機能の衰えたクリスティーンに、その答えを求めていた。

それから16年経って気づくのは、「認知症になると何も分からなくなる」と言われていた当時にあっても、その人の心を知りたい、言葉を聞きたいという思いを持つ人たちが相当数いて、これらの日々、そういう人たちが集まっていた、ということである。

講演会の始まりの主催者あいさつで石橋典子さんが「幸運の女神さまは準備されたところに降りてくる」と語った時、私は「また大げさな」と思ったが、それはこのことを指していたのではなかろうか。声を聞きたいと願う人たちがいるから、声を発する人がやって来たのだ。

あるいは、後に同僚から教えられた「啐啄の機(そったくのき)」という禅語を思い浮かべる。広辞苑によれば、「『啐』は鶏の卵がかえる時、殻の中で雛がつつく音、『啄』は母鶏が外からつつき破ること。」とある。卵の内側と外側でつつき合う時に殻は割れ、新しい何かが誕生する。そのようなことが起きようとしていると、石橋さんは予感していたのかもしれない。

このころ日本でも、認知症の人への見方が静かにゆっくりと変化しつつあったのだ。認知症の人の家族がつくる全国組織「呆け老人をかかえる家族の会(現 認知症の人と家族の会)」の初代代表理事を1980年から37年間務めた髙見国生さんによれば、会が発足したころ、髙見さんたちも「認知症の人は何もできない、何もわからない」と思っていたが、家族同士で集まって話し合ううちに、「必ずしもそうではないかもしれない」と気づくようになり、1997年からは、「ぼけても心は生きている」を合言葉にするようにしていた。

専門職の間でも、「認知症の人の思い」に注目する人たちが現れてきた。1990年代には、小山のおうちのようなデイケアの他、「認知症グループホーム」や「宅老所」などの先駆的な取り組みにより、認知症が進行しても地域の中で「普通に暮らす姿」が少しずつ広がり始めていた。三大介護(食事、排泄、入浴)中心の従来の介護にかわる、「新しいケア」が求められるようになっていた。2000年に介護保険が施行されると、その動きはさらに加速していた。だが、長年、「何も分からない人」として扱っていた認知症の人たちの心にどう関わればいいのか、多くの人たちが戸惑っていた。

言うことなすこと不可解で、心の中で何が起きているのか見通すことが出来ないブラックボックスの蓋が内側から開き、その謎が解き明かされるのではないかという期待が持たれていた。

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