次に彼女が語ったのは、「霧の中で生きているような」日常生活の困難である。そして、認知症について多くの人が思い浮かべる「暴言」「暴力」「妄想」「パニック状態」がなぜ起きるのかを解き明かし、何が助けになるかを説明する。
やがてクリスティーンは、「人生とは10%が実際に起こることで、あとの90%はどう反応するかである」と考えるに至る。そして言う。
「私は認知症のサバイバーとしての新しいアイデンティティを選びました。」
クリスティーンは、死地から生還したサバイバーというアイデンティティを見つけ出したのだった。ただ、認知症は進行するので、生還は一度だけで終わらず、何度も繰り返さねば、死に吸い込まれてしまう。それでも周囲と助け合いながら、一日一日を前向きに生き延びることで、「自分の悲劇を勝利に変えるという、人間独自の可能性の証人になることができる」という目標を語った。
11月3日に松江で行った講演では、さらに踏み込み、診断後、彼女自身が家族とともにどのように生きてきて、今どんな「希望」を持っているのかを具体的に語った。その内容はやはり、日本の私たちにとって、かなり目新しいものだった。
クリスティーンは診断当時46歳で、3人の娘を育てるシングルマザーだった。末娘は当時9歳で、認知症の意味もわからず、自分を壊してしまった。ドラッグに依存し、不登校になってしまったのだ。次女は当時13歳。現実を拒否し、何も起きていないかのように振舞った。彼女が逃げこんだ先は、馬だった。(講演では単に「馬」と語っていたが、乗馬に打ち込み、自宅で飼育して調教するまでになっていた。)
この時、クリスティーン一家の生活の鍵を握ったのは、当時20歳の長女だった。責任感の強い彼女は、母親の介護、妹たちの世話をすべて引き受け、「介護者」の役割に徹することで、ショックや喪失感を押し殺そうとした。
だが、家族が自分を犠牲にして、「介護者」というアイデンティティに立てこもると、認知症の本人は「患者(苦しむ人)」という役割しかなくなるため、「やる気をなくして衰えていき、介護する側はがんばりすぎて燃えつきてしまう。」
家族全員が認知症の犠牲者になっていた、というのである。
そんな状況に変化をもたらしたのが、診断後に結婚したポールだった。
クリスティーンは、ポールの役割について、「介護者(ケアラー)」ではなく「ケアパートナー」と言った。新しい言葉を作ったのだ。その主な役割は、介護ではなく、旅路をともに歩むことである。もちろん介護もするのだが、それが中心ではない。
単なる見方の違いと言えばその通りなのだが、見方が変われば見え方が変わり、生き方までもが変わっていく。クリスティーンは、「介護者」にかわる「ケアパートナー」を得ることによって、再び人生の旅路を踏み出したのだ。
「私たちは生きながらの死に直面しましたが、自分がなくなってしまうという怖れから自分を解放する方法を、いまも見つけようとしています。それには多くの勇気が必要です。私たちの中にある、大切な真珠のネックレスは、糸がほどけ壊れかけています。けれども私たちは、認知症と格闘する中で作られていった新しい真珠を見つけました。それを使って、未来の命と希望のネックレスをつなぎ続けていけるのです。」
「私たちの壊れた声と、つながらない思考と、過去と現在の断片化した記憶に耳を傾ける方法を見つけてください。そうすれば、分かち合えることはたくさんあります。」
クリスティーンが語った言葉は、あまりにも新しいものであったので、どれだけ聴衆の心に届いたかは分からないが、明るく堂々としていて「素敵な夫婦」がそこにいるということが、非常な説得力を持ち、講演は感動的で、大成功だった。
だが、この成功はあくまでも「準備が出来た人びと」について起きたものであり、不特定多数の人々に向けたテレビ番組として伝わる内容になるかどうかはまた別のことだった。うまく伝わらなければ、スキャンダラスに取り沙汰される危険だってあるし、それを怖れて放送されない可能性だってあるのである。
この時点で4日間、私たちは、映像と音によって、クリスティーンが認知症である証拠を示そうと撮り続けていたが、まだ十分ではないと考えていた。
※本稿で紹介した講演の文言は、『認知症とともに生きる私 「絶望」を「希望」に変えた20年』(クリスティーン・ブライデン著 馬籠久美子訳 2017年大月書店)をもとに、2000年の発言内容に即して一部改変したものである。
(つづく。次は5月1日に掲載する予定です。)
【筆者プロフィール】
川村雄次(かわむら・ゆうじ)
NHKディレクター。主な番組:『16本目の“水俣” 記録映画監督 土本典昭』(1992年)など。認知症については、『クリスティーンとポール 私は私になっていく』(2004年)制作を機に約50本を制作。DVD『認知症ケア』全3巻(2013年、日本ジャーナリスト協会賞 映像部門大賞)は、NHK厚生文化事業団で無料貸出中。