突然ですが、わたしには3歳の時の、鮮烈に自分の中に残っている記憶があります。
それは、保育園の教室でどうしても苦手な食べ物が出てきてしまった時のことです。
私は〈先生〉と呼ばれていた大人に対して、苦手な食べ物を残しても良いかを懸命に尋ねようとしました。しかし、まだ感情をうまく言葉にできなかった私にその人が放ったのは、「何を言っているのかわからない」といった言葉でした。その言葉と共に嘲笑を含む笑みを向けられた私は急に恐ろしくなって、はっとあたりを見渡しました。すると、周りにいる子供たちも、〈先生〉と同じ目をしてこっちを見ていたのでした。
それは、わたしが始めて「他者の視線」を意識した出来事だったと思います。
本作では、こうした「他者の視線」を執拗に感じてしまう光という少年が主人公です。
彼は、見た目にコンプレックスを持っていて、いつも口元を押さえています。
舞台は小学校ですが、教育という面は、全くと言って良いほど描かれていません。あくまでも光と、その周りの人間関係が描かれており、それは大人顔負けの「社会」です。
よく、社会人という言葉を耳にします。その場合の社会とは職場として用いられることが多く、就職の面接などでも「どんな社会人になりたいですか」と聞かれたりもします。
しかし、本当に社会とは仕事をして初めて学ぶものなのでしょうか。私たちはこの作品を見て自分の記憶に立ち戻った時、自身の人格や人生に大きな影響を与えているのは、実は世間一般で言われる「社会」からは取りこぼされてしまっている、しかし間違いなく「社会」の一端である場面での出来事が大半であると気がつくのではないでしょうか。
本作では、光は自分の感情を「言葉」で示すのが苦手な子のように見受けられるシーンがいくつも出てきます。クラスメートの冷やかしやからかいの言葉に対して、暴力を振るってしまうシーンがそれを表しています。
しかし、劇中では光が本を読んでいるシーンも印象的に現れます。彼は、自分の感情を表現するためにふさわしい「言葉」を探していたのではないでしょうか。そして、的確な言葉を見つけるのは、大人にだって難しいことなのです。
光が直面している問題は、何も子供だからという理由で片付くようなものではありません。自身の中で渦巻く感情、それを取り巻く環境と、全てを光は抱え込んでしまって、動けなくなってしまっています。そんな光に対して、真剣に向き合おうとしているのが子供達だけであるというのも印象的です。
先生や親といった大人は出てきますが、誰も光を「1人の人間」として見れていないように思えてなりませんでした。どこかで、「子供だから」と事の重大さを誤魔化してしまっているのです。
しかし、だからといって、いじめに対して暴力を振るってしまう光にも悪い面はあって、本当はそのいじめに加わっている子供たちも「社会の一員」なのであると光は理解しなくてはならないでしょう。
子供たちは子供たちなりに立派な社会を形成しています。その事に、「大人」はどのように関わって行けば良いのかという答えは、残念ながら中々見出せない問題ではあります。
しかし、最後のシーンで光は、クラスメートであったミネギシさんが家族に笑顔を向ける姿を目にします。それは、自分の世界に閉じこもってしまっていた光が、はじめて自分以外の「生活」に触れた瞬間だったのではないでしょうか。
弟のいじめや両親の喧嘩、学校での事件と、全てが自分のせいであって、自分の一部のように感じ、抱え込んでしまっていた光にとって、自分とは関係のない「他者の生活」は、きっと彼にとって救いとなっただけでなく、彼の成長を促したに違いありません。
他人と違うというコンプレックスは、「自分だけ」という世界に心を追い込んでしまいます。
しかし、自分とは違うと思っている人々にも本当は同じように悩みがあり、同じように「生活」があるのです。その事に気がついた時、気持ちがホッと楽になるのは、きっと誰しもそうであると思います。
この「他者の生活」に気がついた時、きっと本当の意味での「思いやり」の気持ちが湧いてくるのでしょう。ですが、これは的確な言葉を見つけることと同様、大人であってもやはり難しいことなのです。
現在、パワハラなどが多数浮上し、学生や就活生に対する大人の態度が問題になる場面も増えてきました。確かに指導する立場、選ぶ立場としては、何かにいつまでも悩んで塞ぎ込んでいる若者に苛立ちを感じてしまうこともあるかと思います。
私自身、今自分の進路に悩み休学を経験しています。父の事故をきっかけに、美術系の大学にいながら私は、“アートに出来ることはあるのか”と塞ぎ込んでしまったのです。さらには、そんな私に対して、休学が就活に不利になることから「これから大丈夫?」と、心配する方も多く存在しました。しかし、なんとか医療系のアルバイトに就き、実際に現場で働く方々からの指導や、利用者様との対話の中で、私は次第に学びの大切さを実感していきます。さらには、ダンスでのボランティアに参加し、アートによって心を癒すワークを目の当たりにした時、身体の傷ついた方々の求めている技術は、医療だけにとどまらないのだということを改めて実感させられました。確かに時間はかかってしまいましたが、私は自身の体験から入学時よりもさらに“アートに出来ること”を信じられるようになったのです。
一見、何をしたいのかわからない若者は、私のように自分自身で課した問いの答えを探しているのかもしれません。
その時、一緒に悩み、一緒に向き合ってみる余裕こそが、大人が持っている唯一の強みだと思います。子供だから、と甘くみないで「仲間」として、まだ言葉になっていない感情にも寄り添ってあげてほしい。
光はきっと誰の心の中にでもいて、『アマノジャク・思春期』は決して、他人事ではないのです。
【上映情報】
『アマノジャク・思春期』
(2016年/31分/カラー)
監督・脚本・編集:岡倉光輝
助監督:太田恭平
撮影・照明:西村洋介・前田大和 殺陣指南:仁尾岳士
プロデューサー:錦山理沙 制作補佐:山口夏志郎・岩堀直輝
美術・メイク:山田笑子 録音:二宮崇・坂上拓也
衣装:吉澤志保
劇伴:Reimer Hilmar Eising・Pachi (Tapioca Hum)・Tobias Wilden
宣伝美術:椙元勇季
写真はすべて©「アマノジャク・思春期」製作委員会
下北沢トリウッドにて8/9まで公開中!
<公式サイト>
https://www.amanojaku-sishunki.com/
【執筆者プロフィール】
柴垣 萌子(しばがき・もえこ)
多摩美術大学芸術学科3年生。小説執筆を趣味とし、現在映画脚本なども勉強中。ダンス・楽器などの経験や、さまざまなアートに触れることで磨いた感性、持ち前の好奇心を武器に精進していきます。