【Review】 『セノーテ』― 潜り、蘇る古代マヤの両義性 text 長本かな海

はじめてスキューバーダイビングをした時、はじめてモノをモノとしてみたような気がした。海中の生物の知識がない私にとって海の底は混沌への入り口だった。ゴツゴツした岩に張り付いたいびつな物体や、なめらかでヌルヌルしたもの、触ったら危なそうな生きもの、変化する色彩、不思議な模様、全ての輪郭が曖昧で、美しい気もするし危険な気もする未分化で大きなモノの塊。深く潜るにつれて、ものの輪郭はさらに曖昧になる。太陽の光が徐々に届かなくなるため、浅瀬でははっきり見えていた赤や緑、黄色も20mを過ぎると全てが青に侵蝕されてしまう。さらに潜ればそこは完全に輪郭の消滅した暗闇の世界だ。

小田香監督の『セノーテ』は現世と黄泉を繋ぐとされているメキシコの泉、セノーテをテーマにした作品だ。マヤ文明が栄えたユカタン半島に点在するこの泉は陥没穴に地下水が溜まったもので、いくつかのセノーテ同士は地下で繋がり、下層は鍾乳洞になっているという。入り組んだ水路は調査が難しく、未だ全長はつかめていない。小田監督は30から40のセノーテを訪れ、自ら水の中に潜りカメラをまわした。

冒頭、マヤの人々にとってこの泉が唯一の貴重な水源であったこと、水底に住む雨神であるチャークに時には人間の生贄が捧げられられていたことなどが知らされるが、その後に続くキラキラと輝く水しぶき、水中に現れる光の柱など、太陽光と水、カメラの融合によって現れた美しい場面の連続は、私たちを恍惚とさせ、不穏な知らせをどこかへやってしまう。マヤの人々がマヤ語でキンと呼ばれた太陽を崇拝し、その動きを理解することに情熱を傾けていたことは良く知られているが、力強い太陽の光も水と出会うことで輪郭を失う。

全てが溶け合うような水中の世界と、太陽の鋭い光にはっきりと照らされたマヤの人々の顔や営みが交互に映し出されるが、そのうち私たちは徐々に混沌へと誘われていく。人々の口からはセノーテで死んだ人たちの話が語られ、水中のカメラは光の届かない暗闇へと進む。もはや電灯で照らされた範囲でしか輪郭を認識することはできず、規則正しくゆったりとした呼吸、吐き出され上昇する泡の音だけが意識を現実につなぎとめる。一方、地上ではマヤの人々が白地に色鮮やか刺繍の入った服を着て、太陽の下、大勢で踊り、祭りを祝う。供儀として捧げられるのであろう豚の腹は開かれ、深紅の内臓のかたまりが掻き出される。
それを食う犬。男たちは馬に乗り、興奮した雄牛にロープを投げる。地面には血が滴っている。

「命を支配することへの欲求、支配されないために」女の子の声で語られるその言葉は、多くの文化に伝えられている戦いの神話を想起させる。日本のヤマタノオロチ退治や、古代インドのリグ・ヴェーダにおけるインドラとヴリトラの戦いなど、荒ぶる神を倒すことによって世界は平穏を手に入れた。荒ぶる神を歴史が始まる前の混沌だとすれば、それを支配し、分けることによって私たちは秩序や意識を手に入れることができた。しかし混沌は一時的に周縁へ追いやられただけで、消滅したわけではない。私たちは再び混沌に支配されないように戦いを続けながらも、分けられた事物を再び結びつけることを可能にする混沌を敬い、生贄を捧げ、雨乞いをすることもあった。

私たちが暗い水中に潜っているなか、ある女性がこの泉の主であるとされている羽の生えた大蛇の話を語る。古代マヤの人々は伝統的な酒を作って、それをセノーテに供え儀式を行っていた。しかし、人々がそれをしなくなったので、セノーテは意思を持って生贄を連れ込むのだという。現代の人々にとって、セノーテは死を誘う不吉な場所としての側面が強いようだ。文化人類学者の山口昌男は本来両義的であった神が一元化され、悪神が形成される仕組みについてクレマンス・ラムヌーの理論を参照しながら考察している。昼に与えられる象徴が「光明−秩序−知−契約−和」と安定的であるのに対して、夜に与えられる象徴「夜−暴力−霊感−呪術」は不安定であり「夜−恣意性−悪意−不能」にとって替わられやすいと言う。(※)1600年代後半、マヤ圏全域がスペイン領となりキリスト教が広まった。秩序をもたらす昼の神である善神キリストに対して、もともとは呪術的な力を持っていた雨神チャークは恣意的に悪意を持って人を連れ込む悪神になってしまったのだろうか。

ネットで検索してみると、セノーテは透明度の高い水質で人気のダイビングスポットとして認知されているようだ。おすすめランキングや「光のカーテン」がみられる時間帯、入場料、現地までの行き方やバス料金などが、これ以上ないくらい細かく分けられ情報化された世界。セノーテの神秘性も魅力のひとつのようだ。マヤの人たちは、太陽は沈んだあと地面の下にある霊界を通り再び地上に戻ってくると考えていた。混沌に触れようと沈んでいったカメラは夜明けとともに再び輪郭のはっきりした世界へと戻ってくる。まるで一度死んで再び生まれたような感覚が私の中に残る。小田香監督の『セノーテ』は曖昧で両義的で、マヤの人々の存在と密接に関係していたかつてのセノーテの姿を現代に蘇らせている。

※山口昌男『文化と両義性』岩波現代文庫、2000年、p.29

 

【映画情報】

『セノーテ』
(2019年/メキシコ・日本/マヤ語・スペイン語/DCP/75分/原題:TS’ONOT 英題:CENOTE)

監督・撮影・編集:小田香
企画:愛知芸術文化センター、シネ・ヴェンダバル、フィールドレイン
制作:愛知美術館
エグゼクティブ・プロデューサー:越後谷卓司
プロデューサー:マルタ・エルナイズ・ピダル、ホルヘ・ボラド、小田香
現場録音:アウグスト・カスティーリョ・アンコナ
整音:長崎隼人
現地オーガナイザー:マルタ・エルナイズ・ピダル
声の出演:アラセリ・デル・ロサリオ・チュリム・トゥム、フォアン・デ・ラ・ロサ・ミンバイ
配給:スリーピン

写真はすべて(C)Oda kaori

2020年9月中旬〜新宿K’s cinemaにてロードショー予定

 

【執筆者プロフィール】

長本かな海(ながもと かなみ)
多摩美術大学芸術学科卒業、シエナ大学人類学専門課程中退。
日本の夜神楽からヨーロッパの奇祭まで、辺境の祭り女。