【連載】「視線の病」としての認知症 第15回 ミッシングリンク text 川村雄次

川窪裕さんとみどりさん(2007年 札幌)

「視線の病」としての認知症
第15回 ミッシングリンク

(前回 第14回 はこちら)

 

今回書こうと思うのは、 「ミッシングリンク」についてである。それはもともと生物進化の用語で、AがCになるには間にBがあるはずなのに、それが見つからないことをさし、「失われた環」と訳される。認知症の当事者があげた声についても同様で、2003年にクリスティーンの来日から今日までの間がスッポリ脱けている気がするのだ。その間に何人かの人が声をあげ、彼らが間をつないだから今があるのだが、彼らが言ったことや存在すら忘れ去られているようなのだ。彼らひとり一人に声をあげた理由があり、忘れ去られた理由があった。その2つについて記しておきたいと思う。

まず、声をあげた理由について。

前回私は、当事者が声をあげることを、池に石を投げ入れることにたとえたが、さらに言うならば、それは多くの場合、暗闇の中での行為である。特に最初の1投は、いわば「人知れず」なされるのである。勇気を奮い起こして声をあげたところで何の反響もないかもしれないのだ。そこに池があるのかどうかすら分からない。それでも、投げた石が「ポチャン!」と音を立てるのに自分で驚き、多少の手ごたえを感じて次の石を投げる。そのようにして声をあげたのは、どんな人たちだったか?

 川窪裕(ゆたか)さんは2006年、54歳の時にアルツハイマー型認知症と診断された。

 川窪さんは北海道北見市生まれ。6人兄弟の5番目で、高校時代は新聞配達や牛乳は配達をして家計を助けた。高校卒業後、楽器メーカーに就職。ピアノやエレクトーンを売り、音楽教室を開く営業職だった。転勤のある職場で、診断の半年前までは横浜で妻子と暮らしていた。どうもおかしいと思いはじめたのは、2005年9月に札幌に単身赴任してから。仕事での失敗が目立つようになり、毎日怒られてばかりだったのだ。精神不安定になって精神科を受診。うつ病の薬を処方された。横浜に残った家族とは電話で連絡をとりあっていたが、ある日、朝から何度電話してもつながらなくなった。妻のみどりさんは胸騒ぎがして、飛行機の最終便で札幌に駆けつけた。薬をのみ間違えて、起きられなくなってしまったのだった。

みどりさんに伴われて札幌の大学病院を受診したのは、2006年3月。診察には、職場の上司も同席した。川窪さんは会社から、「病院に行くように」「何の病気かはっきりさせるように」とくり返し言われていたのだ。さらに2か月間検査入院したのち、5月18日に医師から本人に直接「アルツハイマー型認知症」と告知された。この時にも、職場の上司が同席していた。診断が下ると、川窪さんは直ちに休職扱いとされた。必要な手続きは、会社の指示に従ってみどりさんが行った。

川窪さんが診断されたちょうどその頃、若年認知症を題材とする小説がしきりに書かれ、映画やテレビドラマが作られるようになっていた。演じるのは決まって美男美女。姿かたちは変わらないのに、大切な人のことを忘れてしまう残酷さと、それでも変わることのない愛の物語がくり返し語られた。しかし、実際の当事者の多くが直面して悩んでいるのに、ほとんどとりあげられることのない問題があった。「お金」である。

当時、若くして認知症と診断されるということは、仕事を失うことを意味していた。本人だけでなく、家族も本人を置いて働きに行くことが出来ないため、家族の収入がゼロになることも少なくなかった。「ただ生きているだけ」でも、家賃、光熱費、水道代は毎月必ず支払わないといけない。食費もかかる。お金が出ていく一方だから、貯蓄があってもたちまち底をついた。住宅ローンのある人は、その返済もしなければならなかった。ローンには、返済を免除される「高度障害」の規定があるが、当時、認知症はその対象になるとは考えられていなかった。子どもたちの学費の問題もあった。高校をやめたり、大学進学を諦めたりしなければならなくなる子どもたちもいた。また、多感な時期の子どもに親の認知症をどう伝え、親子関係を維持し、一人前の大人に育てていくのかは大きな問題だった。離婚や家庭崩壊も珍しくなかった。診断がつきつける将来予測は、往々にして地獄絵の様相を呈した。

川窪さんの場合、職場が大企業だったこともあり、すぐに退職させられることはなかった。収入は減ったものの、ゼロにはならなかった。また、診断される前に札幌にマンションを購入していたが、ローンの返済をすでに終えていたので、月々の家賃の支払いを心配しなくてよかった。2人の息子がいたが、長男はその年に就職。東京の大学に在学中の次男も、あと1年で卒業できそうだった。

生活動作の面で大きな障害はなかった。歩くこと、食べること、話すことはできたし、入院中から医師に勧められて日記も書いていた。異常な行動をすることもなかった。肉体的にも精神的にもいたって健康で、本人が「病気という気がしない」状態だった。

認知症というと「病識がない」と言う医師がいるが、川窪さんは自分が認知症と診断されたことをよく理解していた。診断された日には、日記に「ニンチショウと診断される。」と書き記していたし、「自分はアルツハイマーだ」と人にも話していた。(クリスティーン来日の頃から多くの医師たちが、「病識の欠如」について疑問を表明するようになっていた。本人が「私はどこもおかしくない」とかたくなに否認するのは、逆に「自覚があるから」だというのである。認知症についての情報が今ほど一般の人に行き渡っていなかった時代に、無知ゆえに恐怖と偏見を募らせた結果であり、「病識がない」という言葉自体に医療側の偏見がまとわりついている、というのである。)

川窪さんは診断後、走っている車の前に身を投げようとしたことがあった。みどりさんがとっさに腕をつかんだので未遂に終わったが、その瞬間には「死のう」と思っていたのだ。心が深く傷ついていると、みどりさんは感じていた。1人にしておくのが心配なので、1日中2人で家の中にいた。買い物などで外出するときには、必ず一緒に出掛けた。みどりさんは深く悩んでいた。だが、人に自分の悩みを話しても、理解してもらえないだろうと思っていた。実際、話してみて傷つくこともあった。息子たちにすら、川窪さんが認知症と診断されたことを話していなかった。どう伝えればいいかわからなかったし、伝えて何になるのかもわからなかった。

 若くして認知症と診断された他の多くの人たちに比べたら、川窪さん夫妻は「恵まれた人」に分類されただろう。だが、苦しかった。その苦しさをどう捉え、どう伝えるのか。そもそも私は本当に分かっているのだろうか?ドキュメンタリー制作者としての自分自身が問われていた。

私が川窪さんに初めて会ったのは、診断から1年半が経った2007年9月である。その時私が抱いた印象は、「サラリーマンらしいサラリーマン」というものだった。白いものがまじりはじめた髪を七三に分け、きちんとした服を着て、姿勢がいい。質問すれば短くても必ず答えを返してくれるが、訊かれないのに「これがしたい」とか「いやだ」とか自分の思いを語る人ではない。つまり「はみだしたところのない人」で、その人が「声をあげる人」になろうとは、全く思いもしなかった。対する妻のみどりさんは明るく行動的で、思っていることを臆せず言うタイプだった。それまでの生活でも、基本的にはみどりさんが「ああしよう」「こうしよう」と立案し、川窪さんがそれを承諾することによって家族は円満に営まれていたのだろうと推測された。当時流行した、たんすの防虫剤のテレビコマーシャルのキャッチフレーズ「亭主元気で留守がいい」が思い浮かんだ。(今原稿を書きながら、それから10数年が経ち、そういう「典型的なサラリーマン夫婦」の像がもはや失われてしまったことに気づく。)みどりさんにしても、世の中に対して何かを訴えたいことがあるようには見えなかった。

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