【連載】「視線の病」としての認知症 第15回 ミッシングリンク text 川村雄次

サラリーマン時代の川窪さん

 そんな訳で、当初私は、自分が川窪さん夫妻を主な登場人物とする番組を作ることになるとは思いもしなかった。川窪さんもみどりさんも、それまでの人生で身についたつつましく穏やかな笑顔をふり向けてくれていたので、その奥にある「苦しさ」に気づかなかったのだ。おそらく川窪さんたち自身、自分たちが何を苦しんでいるのか、苦しんでいるのかどうかすら、はっきり分からなかったのではないだろうか。それが、この「苦しさ」の一番苦しいところなのではないか。

 だから、以下に記すのは、後で取材するようになってから分かってきたことである。

川窪さんは煙草のみで、みどりさんは煙草が嫌いだった。これも当時のサラリーマン家庭によくある話だった。川窪さんは診断後、毎日1日中マンションの中にいて暇をもてあまし、煙草をすい続けていた。喫煙場所は台所と決まっていた。臭いやヤニが部屋にしみつかないように換気扇を回して、ひとり黙々と煙草をすうのだ。片手には灰皿がわりにガラス瓶を持って。中には、みどりさんが100円ショップで買った煙草の火を消す小さな壺のようなものが入っていた。川窪さんはみどりさんの指示に忠実に従っていたが、本当に1日中すっているので、注意散漫になったときに吸い殻が落ち、火事になるのではないかと、みどりさんは心配していた。

まるで夫婦2人で灯りのないトンネルに入りこみ、お互いに抱きしめ合いながら歩いているような状態だった。奥へ奥へと歩いていくのだが、果たして出口に向かっているのかわからない。出口はないのかもしれないのだ。

 暗闇の中で光を求めて最初に動きはじめたのは、みどりさんだった。川窪さんが検査入院している間に、「北海道若年認知症の人と家族の会(北海道ひまわりの会)」を立ち上げようとする家族や専門職の動きを探り当て、その準備会合に出るようになったのだ。そこで出会ったのが、前回書いた認知症ケアのパイオニア、武田純子さんだった。武田さんは、クリスティーンと自分が同い年であるという偶然に意味を感じて、当時全国で1つか2つしか例のなかった若年認知症専門のグループホームとデイサービスを札幌で始めようと考えており、「うちにおいでよ」と声をかけたのだ。武田さんは、川窪さんより2歳だけ年上なのだが、「みんなのお母さん」のような包容力を感じさせる人で、みどりさんは帰るとすぐ「いいリハビリが見つかった」と川窪さんに言い、通所するよう説き伏せた。

その時、武田さんはもう1人、別の女性にも声をかけていた。女性の夫は、1年前に56歳で認知症と診断され、休職していた。この夫婦の場合、診断された本人以上に妻のほうが毎日泣き続けて暮らしていたのだという。武田さんは「奥さんから先に元気にならなければ」と誘った。「夫婦は合わせ鏡、奥さんが悲しい顔をしていると、ご主人はもっと不安になるんだよ」というのが、武田さんの基本認識だった。

こうして武田さんの認知症グループホームの一角に、若年認知症専門のデイサービス「モア・サロン福寿」が誕生した。サラリーマンとして30年あまりを生きてきた50代の男性2人が最初の利用者として、週2日、通うことになった。

武田さんが目指したのは、単に認知症の人を預かって気晴らしをしてもらい、家族の介護負担を軽減するというようなことではなかった。若くして認知症になった人が、どうすればもう1度、前を向いて歩きだすことが出来るのか。どこまで支えられるのか。そのため考えられることをすべて試そうと考えていた。それは、認知症の中でも特に難しいとされる若年認知症についての「常識」を根本から疑い、挑戦する、海図も羅針盤も持たずに海原に乗り出す航海のようなものだった。

武田さんはこの航海を始めるにあたり、認知症と診断された2人とともにその妻たちにも、ここに通ってもらいたいと考えた。妻たちは2人とも料理が得意だったので、デイサービスとグループホームの食事を作ってもらい、パート職員として賃金を支払うことにしたのだ。ねらいは3つあった。第1に、妻たちに、家にいる時とは違う夫の顔を見てもらうこと。第2に、賃金を支払うことにより、経済的不安を軽減すること。第3に、妻たちと武田さんの3人で話し合う時間をたっぷり持つことだった。家での暮らしの様子や心配事について多くの情報を得る必要があったし、どうやって乗り切るかを一緒に考える時間も必要だった。昼食の時間をその話し合いに当て、「大奥会議」と呼んでいた。夫たちは、妻たちが作った昼食を他の職員と食べた。

この話し合いこそが、海図のない海を渡りきるために、進むべき方向を決め、共有する場だった。

家族が「出来なくなった」と思っていることが、職員と一緒だと出来ることがある。家では見せないような笑顔が出ることもある。施設の中であたためて芽を出した可能性を、家に帰っても冷やさずに育て続けることが出来れば、大きな違いが生まれるだろう。そのためには、まず妻たちが元気になり、男性たちの力や笑顔を引き出すやり方や考え方を身につけてもらう必要があると考えたのだ。

しかし、順風満帆とはほど遠かった。始めてすぐ、壁にぶつかった。「するべきこと」が何もなかったのである。2人とも、つい先日まで30年以上サラリーマンとして働いていた人たちである。認知症と診断されたものの、心身ともに健康で、あり余る体力と時間を持て余していたが、その使い道がなかった。高齢者向けのデイサービスでよく行われている、風船バレーのようなお遊戯や、童謡を合唱するようなことをやりたいはずがなかったし、やってもらう意味があるとも思えなかった。「脳を活性化する」という売り文句のドリルや塗り絵などもあったが、本人たちにとっては暇つぶしに過ぎなかった。それらには「認知症の発症や進行を遅らせる効果がある」という研究者もいたが、専門医の多くは効果を否定していた。本人たちにしてみれば、たとえ効果があったとしても職場に戻れるはずもない、そのような「リハビリ」に意味を見出すことは出来なかった。「自分は全然おかしくないのに、どうしてこんなところに来ないといけないのか?」、「子どもだましみたいなところに行けと言うなら死んでやる!」と声を荒げることもあった。2人とも来てから帰るまで生あくびと居眠りばかりだった。妻のためにいやいや通っていたのだ。

もともと2人とも、典型的な「仕事人間」だった。仕事が生きがいであり誇りだった。その彼らから仕事をとったら何が残るだろうか?無気力状態に陥るのは当然だった。だが、そこであきらめるわけにはいかない。

何をすれば川窪さんたちがここに来てくれるのか?そして彼らの心の空洞を埋め、生きる喜びを感じられるようになるのか?武田さんは職員とともに考えた。川窪さんは家で何をしているのか、みどりさんに訊くと、「パソコンで詰め将棋をしている」と言うので、将棋盤とコマを一式買い、将棋の出来る職員に相手をさせた。パソコン相手より人間相手のほうが面白いだろうと考えたのだ。川窪さんがデイサービスに行く理由が1つ出来た。オセロゲームなど、各種ゲームも買いこんだ。絵も描く道具も買いそろえた。また、川窪さんたちが子供時代に見たドリフターズの番組のビデオの全集を買って、それらをゆったりと見られる場所も作った。だが、それしきのことで1日は埋まらない。子どもの時は1日中遊んでも遊び足りないが、大人になって「仕事」をしている時の真剣さや充実感を経験すると、遊んでいるだけではかえって空しさが増すのだ。生あくびと居眠りの日々が続いた。

武田さんは当然、川窪さん本人にも尋ねた。

「趣味はないか?」
「趣味は仕事」

とりつく島もなかった。

そんなある日、転機が訪れた。武田さんが川窪さんと何気なく雑談していたら、若い頃、銀座でパレードに出たことがあると言ったのだ。

「銀座って、どこの銀座?」
「銀座は東京に決まっているでしょう」
「どんな楽器をやったの?」
「クラリネット」

川窪さんは中学校の時から就職するまで、吹奏楽に打ち込んでいたことがわかった。

「クラリネットは今どうなっているの?」
「押し入れにしまってある」

武田さんはすぐさま「1回持ってきて吹いてもらっていい? 」と頼み、川窪さんは「いいよ」と答えた。

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