「視線の病」としての認知症
第16回 長すぎる休日
(前回第15回はこちら)
前回は「なぜ声をあげたのか」について書いた。今回は、その声が忘れられた理由について書く。つまり、「なぜミッシングリンク(失われた環)になったのか」についてである。
2007年9月のクリスティーンの札幌講演のあと、楽団FUKUの5人が何度も思い出した言葉があった。(5人とは、認知症と診断された川窪裕さんともう1人の男性、その妻たち、そしてデイサービスの施設長 武田純子さん。)ポールが言った「来年は是非オーストラリアに来てくださいね」という誘いである。私たちも確かにその言葉を聞いたが、元外交官らしい社交辞令だと思ってあまり気に留めていなかった。だが、川窪さんたちは違った。いや、川窪さんたちというよりは、妻たちと武田さんだ。彼女たちは、ポールの言葉を「招待された」と受け止め、本気でオーストラリアに行こうと考え始めていた。
その年の暮れ、私たちは、認知症医療についてNHKスペシャルを制作するにあたり、川窪さんたちにスタジオ出演するため渋谷に来てもらった。その夜、私が5人と食事をした際、「行くことにした」と告げられたことは、この連載の第13回に記したとおりである。そして、札幌での出会いからちょうど1年後、川窪さんたちはオーストラリアに向けて9泊10日の旅に出ることを計画した。私はその全行程に同行して1本のドキュメンタリーを作ることになり、2004年のオーストラリアロケを共にした撮影の南波友紀子、音声の吉川学に声をかけ、編集を鈴木良子さんにお願いした。
実をいえば、クリスティーンとポールの番組の「後日談」のようなこの旅について、私は「行くべきだ」と思っていたが、その番組を「作るべきだ」と考えていたわけではなかった。むしろ躊躇し、「行かない理由」をあれこれ考えていた。そこを強く押したのは、私の同期で、当時福祉番組のプロデューサーをしていた桑野太郎だった。彼は、ただ当人たちが行くだけではなく、第三者が記録して伝えなければ、この旅に行く意味が半減してしまう、と言っていた。(なぜ私が躊躇していたかについては、後で記す。)
番組を作ることになって私たちがまず確かめたいと思ったのは、どうしてそんなにオーストラリアに行きたいのか? クリスティーンに何を求めているのか? ということだった。そこで、川窪さんたちが札幌での暮らしにカメラを入れさせてもらうことにした。
先ほど書いたように、オーストラリア行きに熱心だったのは、妻たちだった。彼女たちは、クリスティーンが書いた2冊の本をくり返し読み、「バイブルのようだ」と言っていた。くり返し読んでいるというだけで驚きだが、さらに驚いたことに、2人とも、ただ自分が読むだけでなく夫に聞かせるため、声に出して読んでいるという。そこで私たちはそんな場面を撮影しようと、川窪さんの自宅に伺った。その日、みどりさんが読んだのは、こんな一節だった。
「私たちは残った能力を強化し、失った機能を補うように努力しないといけない。自分の視点を切り替えて、失った技術を取り戻し、新しい才能を開発し、意義と希望のある新しい未来をつくるようにがんばることも必要かもしれない。(中略)認知症の場合、『使わないとダメになる』というスローガンは痛いほど当たっている。何かをすることをやめてしまえば、あっという間にその仕事を忘れてしまうだろう。だが脳はすばらしい能力を秘めた器官だ。別のやり方を見つけてやりくりしようとする脳の能力を、決してあなどってはいけない。」
(クリスティーン・ブライデン著 『私は私になっていく 認知症とダンスを』 2004年、クリエイツかもがわ)
みどりさんは声に出して読むのだが、川窪さんは興味なさげで、いつも大きな椅子に座って居眠りしてしまうということだった。この日も、目をつぶって眠っているようだった。私たちはそんな様子を撮らせてもらっていたのだが、みどりさんがひとしきり読んだところで、川窪さんが本当に眠っているかどうか確かめようと思い、声をかけた。「川窪さん、どんな感じでした?」すると川窪さんはボソリとひとこと、「暗い」と答えた。寝たふりをしながら、聞いていたのだ。私もみどりさんも驚いて、「ふうん」とか「へえ」と反応していると、川窪さんはさらに言葉をつづけた。「クリスティーンの問題じゃなくて、僕の(問題)。次に次にっていうワクワク感とかね、そういうものが出てこない」。みどりさんがいないときにチラチラページをめくって読んでいるのだという。「面白く読める本ではない」、「つらい本」、「全部自分のことだと思って聞いている」とも言った。
そして、川窪さんは言った。
「クリスティーンは『誰になる?』なんて言うでしょ。で、ぼくの場合はどうかなと。『私は誰になっていくの?』って。結局そこが、行き先みたいなのがさ、モヤモヤっとしています。そこがすっきりすると、いろんな自分でやらなきゃいけないこととかさ、いろんなことが、頭が回転しだすのかと思ってさ。今のところやっぱりモヤモヤなんだ。70点ぐらいかな。30点ぐらいモヤモヤしている。」
私は、頭をガツンと殴られたような気がした。「私は誰になっていくの?」…川窪さんはそんなことを考えていたのか。この問いこそ、クリスティーンが自らに問い、苦しみ、答えを求めて2冊の本を書いたことの核心ではないか。私はそれまで、川窪さんは周囲に合わせてただなんとなくオーストラリアに行くのかと思っていたのだが、そうではなかったのだ。クリスティーンが探求してきたこの問いに対する自分なりの答えを求めていたのか…。川窪さんがどんな答えを見つけるのかを見届けたいと思った。
その時はただただ驚き、クリスティーンと出会ってから川窪さんの中で起きていた「何か」を確認したように思い、上記のように理解したのだが、私自身が当時の川窪さんの年齢に近づき、今改めてこの場面をふり返ると、さらに違ったことが見えてくる気がする。みどりさんがクリスティーンの本を声を出して読むのを小耳にはさみながら寝たふりをしていた気持ちである。
みどりさんは、認知症になっても前を向いてさっそうと生きるクリスティーンと、彼女を助けながらも対等な関係を崩さないポールに憧れを持っていた。彼女の書いた本を読み、私たちが作った番組の録画をくり返し見て、ポールが言った、「自分はただケアするだけの者ではない。ケアしながら人生の旅路をともに歩むケアパートナーだ」とか、「聞いて聞いて、愛して愛して(“Listen, listen, love, love!”)」といった言葉をいつも自分に言い聞かせていた。「自分たちもそうなりたい」と思っていたのだ。そして、川窪さんにクリスティーンのように前を向いてさっそうと生きてほしいと思っていた。自分は保護者のように「手を引く」のではなく、「手をつないで」歩くパートナーでありたいと。クリスティーンの本でみどりさんの印象に残っているのは、主に、「残った能力を強化し、失った機能を補うように努力しないといけない」のような前向きな言葉だった。そうした言葉に触れて、川窪さんが奮起することを期待していたのだろう。川窪さんは、そういうみどりさんの思いが痛いほど分かるから、重くて仕方なかったと思うのだ。認知症になる前だって、「俺は俺は」と自己主張するタイプではもともとないのだ。50年以上そうやって生きてきたのに、急に変われるわけがないではないか…。
しかしながら、川窪さん自身も、クリスティーンにひかれるものを感じていた。それは、彼女が「前を向いて歩く人」だからではなく、単に「自分の前を歩く人」だったからだ。みどりさんと川窪さんは2人とも「希望」という言葉で語り得るだろうものをクリスティーンに見ていたが、2人の間で、求めるものが微妙にズレていた。小さな違いのようだが、大きな分かれ目になっていくことに、私たちは旅を通して気づくことになる。
川窪さんたちの旅は、日本の認知症ケアや医療の専門家たちからも関心を持たれ、「自分も同行させてほしい」という人たちが現れた。川窪さんたちがクリスティーンと会って何を話し合うのか? その当時、日本では、認知症の人どうしが顔をつきあわせて意味のある会話をするということ自体、想像も出来ないことだった。ピアサポートも無かった。そういう状況でクリスティーンが来日し、「本人の心の世界」に目が向くようになり始めたのだった。そこにさらに海外の情報が入れば、認知症ケアに新たな局面が開けるかもしれないと期待されていた。(今に比べてずっと「海外」は遠く、「素敵なこと」があるような気がしていたのである。)そのため、この訪問に対し、ある財団から研究助成金が出ることになり、川窪さんたちは、そのお金を使って、存分に話し合うための通訳を雇い入れることにした。川窪さんや武田さんの旅費は自腹だった。
2008年9月13日、川窪さんたちは札幌を飛び立って、成田で国際線に乗換え、クリスティーンとポールが暮らすオーストラリアに向かった。赤道を越え、夜通し飛ぶと、翼の下の雲海から真っ赤な朝日が上がってきた。みどりさんにとっては生まれて初めての海外旅行。夫婦そろって海外に行くのも、結婚25年あまりで初めてで、うきうきとはしゃいでいるようだった。ブリズベン空港に着いたのは、早朝6時過ぎ。着くとすぐ、ブリズベンの町を流れる川を行く遊覧船に乗るなどして観光。夜はオーストラリア牛のステーキを楽しんだ。
一夜明けて、ホテルの朝食会場で会うと、川窪さんは「日にちの感覚がおかしい。昨日はフィリピンだと思っていた」と言う。(私たちも同じホテルに泊まっていたのだ。)みどりさんによると、「横浜だ」と言うこともあったらしい。いつもと違う環境で、旅の疲れもあり、少し混乱していたが、「想定範囲内」ということなのか、夫婦とも笑顔だった。
一方、もう1人の男性は、ホテルの中庭のヤシの木の茂みをじっと見ていて、「目の錯覚かもしれないけど、あそこに人が見える。ウィンクして誘っている」と言う。私たちは彼の視線の方向を見たが、植え込みがあるだけで、誰もいなかった。私たちには見えないものが見えているようだった。
その日の午後には、待ちに待ったクリスティーン夫妻との再会が予定されていた。それぞれ尋ねたい質問で頭がいっぱいだった。川窪さんたちは、待ち合わせ場所の川べりの公園に先に行き、ピクニック気分で昼食をとって待ちかまえた。木の上から小鳥のさえずりが聞こえてきて、男性2人は口笛を吹いて合わせた。
ところが、約束の時間を過ぎても、クリスティーンは現れなかった。
待つこと2時間。ようやくクリスティーンとポールが姿を現した。友人のエリザベス・マッキンレーも一緒だった。クリスティーンが認知症と診断された直後、一番の相談相手になった牧師で看護師でもある女性だ。だが、姿を現したもののスタスタと歩いてはこなかった。大きく手を振ったりもしない。クリスティーンはうつむき加減で腕を組み、何やらブツブツ言っているらしい。やがて顔をあげると、手をヒラヒラさせ、恥ずかし気に笑ったようだ。ポールはちょっと困ったような笑みを浮かべた。どこか様子が変だ。歩かないのだ。それでもゆっくりと少しずつ少しずつ近づいてくる。
川窪さんは、この日のために作った、顔写真入りの名刺をクリスティーンに手渡した。肩書は、「楽団FUKU 楽団長」(もちろん英語)。楽器のイラストも描き添えていた。クリスティーンは、「ああ、クラリネットとフルートね」と声をあげた。「今やっとつながった」という感じだった。