【連載】「視線の病」としての認知症 第16回 長すぎる休日 text 川村雄次

クリスティーンとポール

 みどりさんたちが「素敵だな。ああなりたい」と思ったのでは、そういう2人の関係性や姿だった。それをつぶさに見て教訓を持ち帰るための10日間の旅だったが、むしろ自分たちと彼らとの「違い」を明確にする旅になった。

 今改めてこの旅を振り返ると、みどりさんたちが「あきらめる」を選ぼうとしていた「生きる意味」について、川窪さんは迷う余地なく「追求する」を選んでいたことに気づく。

 なぜか?
 ポールは、「『生きる意味』を感じなくなったら、死んでいるのも同じだ」と言ったが、川窪さんたちは認知症になって、一度まさにそのような状態を経験していたからではなかろうか。無気力と無為の暗闇をさまよったあげく、自分に気力や行動を取り戻させるものとして、「生きる意味」を初めて意識したのだ。それは暗闇を歩く自分の中に見つけた光であり、炎である。おそらく多くの人にとって「生きる意味」というのは、そういうものだ。ふだん何もない時には意識せず、失った時に初めて気づき、「もっと大事にしておけばよかった」と思うのだ。そして、次の1歩を踏み出す原動力になるのだ。

 いずれにせよ、川辺での語り合いの最重要テーマであった「生きる意味」について、当事者と家族や支援者との間で認識が決定的に違っていた。両者の間には、大きな谷間があるようだった。それは、帰国後の楽団FUKUが引っ張りだこになり、各地に出向いて演奏や講演を行ったにも関わらず、今ではほとんど誰も語らず、忘れられてしまったことと無関係ではないと思う。以下に現在私が考えていることを記す。

 認知症と診断された人が「生きる意味」を見つけることと「声を上げる」こととは切っても切れないものである。「生きる意味」など意識せずに暮らしている人たちが、そんなものがあったことに気づき、それを取り戻し、維持できるようなケアや医療、社会のあり方を求め、異議申し立てとして声をあげるのだ。

 では、社会の側はどうしてそのような人たちの声に耳を傾けるのか?
 社会学者の井口高志さん(東京大学准教授)が2003年のクリスティーン来日以降、次々に声をあげた認知症当事者の発信を分析して、こう指摘している。当事者が語るメッセージは、他の多くの「語れない人たち」の気持ちを代弁するものであると同時に、彼らが発言を支援する人々の主張の代弁という意味合いも持っていた、と。

 クリスティーンの講演や本が当時の日本でなぜあれほどまでにもてはやされたかと言えば、「認知症ケア」を新しくよいものに変えたいと願うケア実践者や指導者たちがいたからである。彼らが、ケア職員や住民に対して、「本人の言葉に耳を傾け、思いを大切にしよう!」とどんなに繰り返しても、「道徳的なお説教をしているだけだ」と聞き流され、変化を引き起こすことに限界があったのに対して、「本人が直接に語る声と姿」には、人の心を動かし、限界を突破する力があるのではないかと期待したのだ。実際かなり効果があった。川窪さんたちの楽団が引っ張りだこになったのも、同じ理由だろう。「新しいケア」を推し進めるための象徴と位置づけられていたのだ。

 そうした活動は、確かに「川窪さんたちの活動」ではあるのだけれど、メッセージは支援者たちの持つ価値観や文化に合うものになっていく。そうでなければ、そもそも活動を継続することができないし、聞いた人もどう受けとめ、活かせばいいのかわからない。この時点で求められていたのは、どうすれば本人が「生きる意味」を見つけられるかではなく、どうすれば周囲が「よいケア」を施すことが出来るかだった。主語はあくまでも「ケアする側」で、本人ではなかったのである。川窪さんがあれほど反応した「生きる意味」の追求は後景に埋もれ、かわりに「前を向いて頑張っている夫婦愛」が前面に出てきた。それも「希望のメッセージ」であることにかわりはなかったのだが、本人が「希望」を見出すしくみが抜け落ち、希望を見出した結果としての「助け合う夫婦像」のみが伝えられたのである。つまり、メッセージの空洞化が起きた。そうした「美談」は各地でもてはやされ、聴いた人たちから「感動しました」とか「がんばってください」という声が返ってきたが、感情の次元で「思い」として処理され、楽団活動が終わるとともに忘れ去られた。

 以上が、私が考える、楽団FUKUの物語が忘れられた理由である。だが、それだけではミッシングリンクになった理由としては不十分である。消えてなくなったように見えたが、消えずにつながっていたからミッシングリンクなのである。川窪さんがオーストラリアの川辺で感じた、音楽と「生きる意味」との直結の瞬間は確かにあったのである。そして、その時、川窪さんの内にともった火は熾火のように続き、演奏のたびに赤く燃えたし、そのぬくもりは聴く人々に伝わっていたのである。「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ、どこにも光はない」というのは、戦前のハンセン病歌人、明石海人の言葉だが、川窪さんは自らの内に燃える火をともし、「光」を持ち続けたのだった。

実を言えば、この旅のロケは私たちにとってかなり苦しいものだった。そうなることが予想されたから、私は、このロケをしない理由をいくつも考えたのだった。一つには、「ガラス細工のようだ」と武田さんが言う川窪さんや妻たちの心を傷つけないように、私たちが神経をつかっていたこと。もう一つは、私たち自身の問題で、この旅を通して何を伝えることが出来るのかがなかなか見えてこなかったことだ。私たちは「認知症にも関わらずがんばっている夫とその妻」を追い求めているのではなかったし、川窪さんたちが「隠しておきたいこと」を暴こうとしているのでもない。では、この旅から何を読みとるのか…。そうした状況では、「見つめて撮る」という自分たちの行為が暴力的であるように思え、自分を責め、傷つき、くたびれはてていく。

 結局、答えが出ないままロケは終了し、帰国後、いつものようにすべてのラッシュを、編集の鈴木良子さんとともに見ていく。見終えて、鈴木さんは、まず番組をどういうタイトルにするか考えようと言った。出された案が、「長すぎる休日」だった。そして鈴木さんは、番組の冒頭の映像をつなぎ始めた。ブリズベンの川の畔の大きな木の下で、クリスティーンを待ちながら、のんびり口笛を吹いている川窪さんたちの映像だった。

 私は、この映像に当てるように、ナレーションを書いた。

 「今日しなければならないことが何もない。明日行くべき所もなくなってしまった。働き盛りのある日、そんな予期せぬ状況に直面した時、残りの人生をどう生きるのか?」

 それは、私が自分自身に発する問いでもあった。自分が本当にしなければならないこととは何だろう? 「生きる意味」とは何だろう? 認知症であろうとなかろうと、発症した年齢が何歳であろうと、変わることのない問いだった。答えはない。誰も教えてくれない。「自分は暇つぶしで時を過ごしているのではない」と言えるだろうか? 自分は本当は「いなくてもいい人間」なのではないか? そういう不安がいつも頭に浮かんでくるのを抑え、やり過ごしながら生きているのが、私である。そんな自分と同様の悩みを持つ人たちとして川窪さんやみどりさんたちを見ていこう。「認知症についての番組」ではなく、「人が生きることについての番組」ならば作れるのではないかと思ったのだ。

 2008年11月、89分のドキュメンタリー、ETV特集 『長すぎる休日 若年認知症を生きる』が放送された。私が認知症について取材して作った26本目の番組だった。その時私は、連作はこの1本で終わるだろうと思っていた。クリスティーンと出会ってから「やらねば」と思ったことは、医学についてもケアについても、社会についてもひととおり伝えたので、自分の使命は果たしたと考えていたからだ。そこで、自分なりの総括のつもりで、番組の最後のナレーションを書いた。

 「川窪さんが30年以上忘れていたクラリネット。再び手にした時から、妻や仲間たちとの新たな関係が生まれ、見知らぬ人々との心の出会いが始まりました。(中略)大切なことも忘れてしまう認知症という病気。逆に、忘れることで見つかる大切なものがある。一度は行き止まりのように思えた人生の、その先に続く道を歩き続けます。」

 私の見通しは間違っていた。私の知らない色々な場所で、川窪さんたちが歩き続けた道のさらに続きを歩き始める人たちがいたのである。

(つづく)

武田純子さんと川窪夫妻

 

【筆者プロフィール】

川村雄次(かわむら・ゆうじ) 
NHKディレクター。主な番組:『16本目の“水俣” 記録映画監督 土本典昭』(1992年)など。認知症については、『クリスティーンとポール 私は私になっていく』(2004年)制作を機に約50本を制作。DVD『認知症ケア』全3巻(2013年、日本ジャーナリスト協会賞 映像部門大賞)は、NHK厚生文化事業団で無料貸出中。