【Review】詩人が誘われる記憶の街――ビー・ガン『凱里ブルース』text 村松泰聖

9年の刑期を終えて出所を果たした、とある詩人の男。ところが、彼の妻はすでにこの世を去っており、家を奪われた弟の態度は冷たく素っ気ない。孤独となった詩人は、亡き母の追憶に浸りながら、故郷に小さな診療所を開くことになる。貴州省凱里市。中国南西部に位置し、亜熱帯で霧に包まれた山間部の村が、『凱里ブルース』の出発地点だ。

先んじて日本公開された第二作『ロングデイズ・ジャーニー この世の涯てへ』 では、60分にわたるワンシーン・ワンカット(それも3Dに色付けして)を披露してみせたビー・ガン。世界を魅了する彼のアイデアは、本作でも同様の輝きを放っており、処女作という限られた予算のなかで、実に40分ものワンカットを成功させている。

ビー・ガンの意欲的な手法を、映画史の傑物と照らし合わせることは難しくないだろう。たとえば、それはアンドレイ・タルコフスキーであり、タル・ベーラであり、あるいはアピチャッポン・ウィーラセタクンであるかもしれない。とかく映画狂を、文字通りに発狂させるだけの破壊力は十全に備えており、その力学とリズムは息を呑むほど美しい。

とはいえ、技術論は措いておこう。こうして多岐にわたる参照項を持ちながらも、私たちが『凱里ブルース』の映像にいささかも既視感を覚えることがないのは、いったいなぜなのだろうか。言い換えれば、ビー・ガンの静謐なワンカットを、唯一無二のものにしている主題とは、いったい何なのだろうか。

幸いというべきか、すでに『ロングデイズ・ジャーニー』を目撃した私たちであれば、そこに流れる通奏低音を聴き取ることは難しくない。記憶と時間。その森の深奥へと分け入るように、あるいは川の淵へと潜り込むように、物語の後半で挿入される幻想的なワンカット。遊動するカメラワークは一切のくびきを逃れ、主人公の断片化された経験を拾い集めていく。そこで発された「時計は永遠の象徴だ」という台詞は、私たちの心に鮮やかな痕跡を残していることだろう。

『凱里ブルース』においても、やはり時間のモチーフが象徴的に盛り込まれている。たとえば、主人公チェンの甥にあたる少年、ウェイウェイが描く時計の絵。壁掛け時計、腕時計と形を変え、全編にわたって反復されることになるそのモチーフは、本作が時間をめぐる内省的なロードムービーである事実を、ためらいもなく明かしてくれる。

実際、このウェイウェイが父の策略により連れ去られてしまったことで、孤独者チェンの物語は別の時空間へと開かれるのだ。彼はウェイウェイの行方を探して、同じ貴州省、ミャオ族が暮らす鎮遠の地に向かうことになる。ところが、その道中でダンマイと呼ばれる奇妙な街に迷い込み、自身の記憶と対峙するのである。

虚実が入り乱れる世界で、チェンは現実の時間軸を見失うことになる。そこで出会うことになるのが、純朴なひとりの青年と、彼が想いを寄せる可憐な少女・ヤンヤンだ。ちなみに、このヤンヤンを演じているのはルナ・クォックで、ロカルノ国際映画祭で最高賞に輝いた『幻土』(2018年/ヨー・シュウホァ監督)にも出演している。中国映画の新時代を牽引する存在として、ビー・ガンともに心に留めておきたい。

話を戻そう。この二人を水先案内人として、チェンはダンマイの街を観光することになる。ロードムービーらしく、列車からバイク、そして軽トラックへと乗り換えていく彼の様子を、ビー・ガンのカメラは執拗にトラッキングし、そうかと思えば、今度は勝手気ままな一人歩きを始めるのだ。あたかも、夢の世界では身体など必要ないと言わんばかりに、空間を自在に漂うのである。

挙句の果てに、チェンのもとを離れたカメラは、ヤンヤンと一緒に小舟へと乗り込んでしまう。凱里の出身と話す彼女のガイドによって、私たちまでもが街へと招かれるのだ。「凱里市の東は台江県と雷山県で……」と、ヤンヤンが話すのは故郷の地理と気候である。

40分のワンカットを介して、私たちはこのダンマイの街が、物語の出発地点であった凱里の、チェンの故郷のヴァリアントである事実に気付くだろう。そこでは母の追憶が水のイメージによって喚起され、妻への愛がポップ・ソングの歌詞に重なり合う。それだけでなく、この街の青年にはウェイウェイの未来までもが暗示されているのだ。いわばマジックリアリズム的な手法によって、過去と現在、そして未来の記憶が同時に現前するのである。

もちろん、時を巧みに操る映像作家は、なにもビー・ガンだけではない。たとえばウォン・カーウァイがそうだろう。時計のモチーフが印象的な『欲望の翼』(1990年)に代表されるように、彼の作品にも現実とは異なる時間が流れている。独創的な文法で叙述されるカーウァイの世界観は、少なからずビー・ガンにも影響を与えているはずだ。

とはいえ、それにしても『凱里ブルース』は異質である。チェンの記憶は時制の概念を超越し、ダンマイという街に偏在しているからだ。けだしカーウァイ作品のテーゼが「記憶は時間に宿る」であるとすれば、ビー・ガンのそれは「記憶は空間に宿る」ではないだろうか。彼にとって、記憶が因果律に紐づけられることはない。『凱里ブルース』における記憶の所在は、私たちが知る世界とは別の次元にあるように思える。

そうだとすれば、開巻劈頭に挿入される金剛般若経の一節は、本作の、そしてビー・ガンという映像作家の、高らかなマニフェストであるに違いない。「過去の心はとらえようがなく/未来の心はとらえようがなく/現在の心はとらえようがない」という釈迦の教え。『凱里ブルース』が私たちを誘うのは、この非時間性をめぐる仏教的な思索の旅である。

それは固有の時間性や歴史性を強調するのではなく、あるいは既存の時間軸を解体し、フィクショナルに再構成するのでもなく、ただひたすらに時間の不在を、その否定へと向けた運動を提示している。本作と次作『ロングデイズ・ジャーニー』を特徴付けるワンカットは、そのための技術的な手段にほかならない。

本作のラストショットでは、再三にわたって反復されたモチーフが実を結ぶことになる。汽車に描かれた時計の絵が、ゾートロープ(回転のぞき絵)のように動き出すのだ。それは間違いなく、私たちに映画的な感動をもたらすだろう。チェンの夢は覚醒へと至り、長い記憶の旅は終わる。そしてまた、私たちの見知った時間が取り戻される。実のところ、ビー・ガンが真に撮りたかった映像とは、40分のワンカットよりも、むしろこのラストショットであったような気がしてならない。現代中国映画における新たなホープの誕生を、これ以上に象徴するショットはないとさえ思えるのだ。

さて、ビー・ガンが次に計画しているのは、いったいどのような旅路だろうか。この夢幻をいつまでも共有していたい気もするが、一方でまったく別のジャンルへと跳躍するような予感と期待もある。いずれにせよ、これからも彼は記憶の深奥へと向かって無窮の旅を続けていくに違いない。そしてまた、私たちも幾度となく想起するはずだ。本作で描かれた二つの故郷、凱里とダンマイの記憶を。

【映画情報】

『凱里ブルース』
(2015年/中国/中国語・凱里市の方言/カラー/DCP/110分) 

監督・脚本:ビー・ガン
撮影:ワン・ティアンシン
録音:リアン・カイ 
美術:ズー・ユン 
編集:クィン・ヤナン 
音楽:リン・チャン
出演:チェン・ヨンゾン/ヅァオ・ダクィン/ルオ・フェイヤン/シエ・リクサン/ルナ・クオックほか
配給:リアリーライクフィルムズ+ドリームキッド 
提供:ドリーム・キッド+miramiru+リアリー・ライク・フィルムズ 
日本語字幕:五十嵐陽子/監修:河合彩

6/6(土)、シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショー

【執筆者プロフィール】

村松泰聖(むらまつ・たいせい)
1992年神奈川県生まれ。大学卒業後、会社員を経てフリーランスのWEBライターに。関心領域は映画を中心に、カルチャーとフィットネス全般。趣味はランニングで、冬場はフルマラソンにも。世界を走り続けるために、今日もゴリゴリ書いています。個人ブログも運営中(https://www.notafighter.com)。