【連載】「視線の病」としての認知症 第13回 「目に見えない人たち」が姿を現す text 川村雄次

オーストラリア「認知症啓発週間」ののぼり(2008年シドニー)

「視線の病」としての認知症

第13回 「目に見えない人たち」が姿を現す

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2008年9月14日の朝、私たちはブリズベン空港で成田からの飛行機を待っていた。「私たち」とは、私と、撮影の南波友紀子、音声の吉川学。4年前、ともにオーストラリアロケを行った仲間たちだ。待っていたのは、札幌に暮らす元会社員の男性2人とその妻たち、そしてやはり札幌で認知症グループホームを構える武田純子さんだった。男性2人はともに50代で認知症と診断され、武田さんが新たに始めた若年認知症専門のデイサービスに通っていた。つまりこの5人組は、認知症介護施設の利用者とその家族および施設長だった。普通の観光旅行と少し違っていたのは、一人ひとりが自分の楽器を携えていたことだ。全員が「楽団FUKU(ふく)」の名刺も持っていた。旅の目的は、クリスティーンとポールに会い、2人の前で演奏し、思う存分話し合うこと。5人それぞれが彼らに会って直接尋ねたい問いを抱えていた。

この風変わりな演奏旅行がどうして企てられたのか?2003年秋にクリスティーンが来日講演を行ってから5年間に起きた出来事を振り返る。

私たちNHK取材班が、クリスティーンの来日に同行取材し、2003年11月に「クローズアップ現代」の枠で、『痴ほうの人 心の世界を語る』と題する番組を放送したことは既に記した通りである。12月には「生活ほっとモーニング」の枠で放送するため、未使用の素材を加えて別バージョンを作った。

これらの取材に先立って、「なぜクリスティーンは話せるのか?」という問いを認知症医療に先駆的に取り組む医師に投げかけたことも既に記した。私が得た答えは、「認知症の人の多くは本来話すことが出来るが、日本では認知症に対する偏見があまりにも強いので、話せる人も話さない」というものだった。つまり、日本には認知症の人が声を発しにくい「風土」や「文化」があるというのだ。外国からたった一人が来てしゃべったからといって、日本にはクリスティーンのような人は現れないだろうと、私は考えていた。

だが、予想は外れた。翌2004年、早くも各地で実名を公表して自分の声で語る人が現れたのだ。福岡の越智俊二さん(当時57歳。4年前に診断)である。越智さんはまず地元福岡で6月に開かれたNHKハートフォーラムに登場。次いで10月、京都で開かれた国際アルツハイマー病協会(ADI)国際会議の全体会の演壇に上がった。66の国と地域から4000人以上が参加した、認知症に関する世界最大規模のイベントである。越智さんの名前、顔、語った言葉は、テレビや新聞でも大きく報じられ、全国的に知られるようになった。

この時の語りは、「講演」というよりは「朗読」というべきものだった。越智さんが通うデイケアの施設長が、折に触れて聞き取った話を原稿にまとめ、それを本人が読み上げたのだ。内容は、もの忘れを自覚するようになってから10年の間に味わった悔しさや不安、望み、そして苦労をかけている妻への感謝だった。印刷された原稿をとつとつと読むのだが、自分自身のことだから、どんどん気持ちが入ってくる。読み終わった時には、越智さんも聴衆もみんな泣いていた。クリスティーンも会場にいて感動の涙を流し、演壇から下りた越智さんと抱き合い、その妻をたたえた。英語に訳す同時通訳も、泣きながら訳していたという。私たちは(オーストラリアロケに引き続き、南波、吉川、私の3人組)、講演も、二人が抱き合う様子も撮影していた。NHK福岡放送局の同僚たちは、この日の講演を手始めに越智さん夫妻の軌跡と暮らしを丹念に取材し、「にんげんドキュメント」の枠で放送。(その中で南波と吉川が撮影した映像も使われた。)越智さんはその後も各地を訪れて講演を行った。

国際アルツハイマー病協会国際会議(2004年 京都)

この会議でクリスティーンは最も注目される存在で、芸能アイドルのようだった。特に日本人の参加者で彼女を知らない人はほとんどいなかっただろう。「何もわからず何も出来ない、 パジャマ姿でウロウロしている目のうつろな人」という、当時の認知症の人についての既成のイメージに対して、あざやかな原色の衣装を着こなし、大股で颯爽と歩き、確信を持って語る彼女は、まさにスターだった。彼女が不安に陥らないように夫のポールがガッチリ手を握って歩く姿すら輝いて見えたのだ。どこに行っても、一緒に写真を撮りたいと頼まれ、サインを求められた。 

3日間の会期中、越智さんの語りと並んで話題になったのは、スコットランドやカナダなど海外から認知症の人々が参加し発表する分科会だった。クリスティーンはその司会を務め、自身も発表を行った。会場には、彼女の話を聴こうとする人たちが殺到し、部屋の外にモニターが置かれたが、そこにも人垣が出来た。

クリスティーンが行った発表の題名は、『私たち抜きに私たちのことを決めないで!(Nothing about us, without us!)』。障害者運動の有名なスローガンだった。内容は、自分たち認知症の当事者を国際アルツハイマー病協会(ADI)の運営に全面的に参画させ、その力を活かすべきであるという、極めて具体的な提言だった。ADIは、認知症の人の権利を守るためだと言って資金を集めて活動しているのに、その運営に当事者を参画させないのは非倫理的な行為である、とまで言い切っていた。その主張はしごくもっともなのだが、当時の日本の私たちには、かなり縁遠い気がした。(終了後に日本側の主催団体が発行した報告書で、彼女の発表は、『私たちの周りに何もない、私なしで!』という、意味不明の題名で掲載されている。それほどまでに遠い話だったということだろう。)とはいえ、原稿から時折目を上げ笑顔で語りかける姿には、ものすごい迫力があり、聴衆の多くはたとえ話の内容がわからなくても、彼女の存在に触れただけで十分満足したのだと思う。私たちはこの分科会の様子もカメラに収めた。

分科会の司会をするクリスティーン

会期中の10月16日の夜、私たちのオーストラリアロケの成果をまとめたBSドキュメンタリー『クリスティーンとポール 私は私になっていく』が放送された。クリスティーンとポールはホテルの自室で放送を見てくれた。被写体になってくれた人が、完成した番組をどう受け止めるかということは、どんな場合でも不安なものだが、翌日2人に会うと、彼ら自身が自分たちの物語を深くたどり直してくれたことがうかがえ、安堵した。会議場で話題にする人もいた。放送後、NHKに再放送希望が多く寄せられ、当初の予定よりもさらに多く再放送された。(この番組は英語版が作られて、海外の映像祭にも出品された。)

11月には、オーストラリアでのロケで未使用だった映像に国際会議の模様も加え、さらに2本の番組を放送した。1つは教育テレビの「福祉ネットワーク」の枠で、福祉の専門家に向けて。題名は、『私が私であるために』。診断後、絶望の底にあったクリスティーンが現在のクリスティーンになるために何が役立ったのかという「支援」に焦点を絞った。もう1つは、総合テレビの「生活ほっとモーニング」。こちらは朝の生活情報番組で、「介護」に関心を持つ人が多く見ているということで、クリスティーンの認知症に「家族」がどう対応したかに注目して編集した。タイトルは、『クリスティーンとその家族 痴呆と生きた9年間』。生放送のスタジオには、この連載でも紹介した精神科医の小澤勲さんが病をおして出演してくださった。矢継ぎ早に制作した計3本の番組の編集は、すべて鈴木良子さんが行った。

私たちは、『クリスティーンとポール』というオールVTRのドキュメンタリーを中核にして、あと2つのスタジオでの解説のある番組を、すぐに役立つ実践篇と位置づけていた。これら、すべて切り口が違う3本で、私たちがオーストラリアで「すべてに意味がある」と思いながらロケした素材をほぼすべて使いきったし、伝えるべきことはすべて伝えたと考えていた。

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