【連載】「視線の病」としての認知症 第13回 「目に見えない人たち」が姿を現す text 川村雄次

認知症の人たちが次々に登壇した分科会の会場は人であふれた

私たちがクリスティーンと出会ったのは、ちょうど日本の認知症や介護をめぐる状況が大きく動く変わり目の時期だった。2004年12月に、厚生労働省が、従来の「痴呆」から「認知症」への呼称変更を発表し、翌年、「認知症を知り地域をつくる10カ年」の構想をスタートさせた。国が専門職のみならず一般の人たちの認知症への関心を高めようと力を入れ始めた時期でもあったのだ。(その後10年ほどして、「認知症フレンドリーな地域(Dementia friendly communities)づくり」が世界的に言われるようになるが、その先駆けとなる政策であったと高く評価されている。)2006年には、認知症の人の家族が作る全国組織で、京都での国際会議の主催団体でもあった「呆け老人をかかえる家族の会」が、1980年の発足以来の名称を「認知症の人と家族の会」に変更し、それと同時に「認知症新時代」の始まりを宣言した。「旧時代」と「新時代」の違いは何かといえば、認知症について第一の当事者が、家族ではなく認知症の本人であると考えられるようになったことである。

いま冷静に考えてみると、こうした動きの背景には、認知症と診断される人の増加があるわけだから、「新時代」が必ずしも「明るい時代」を意味するとは限らず、「暗い時代」ととらえられる可能性もあったのだ。この時代の変わり目で、クリスティーンの登場は、「新時代」に明るく華々しいイメージを与え、その扉を力強く押し開ける役割を、結果として担った。

動きは急だった。国際会議の終了2日後には、松本照道さん(当時55歳。4年前に診断)が広島で壇上に立ち、語った。「本人の語り」は各地に広がっていった。

2006年10月、認知症の人と家族の会などの呼びかけで、認知症と診断された7人が全国から京都に集まり、「本人会議」と題するイベントが開催された。この会議では、あらかじめ用意した原稿を読み上げるのではなく、その場で顔を合わせた人々が生の言葉で自由に語り合った。非公開で行われた2日間の話し合いの後、「本人会議アピール」を作成し、記者会見を開いて発表した。アピールは17項目。「本人同士で話し合う場を作りたい」「自分たちの意向を施策に反映してほしい」「わたしたちなりに、家族を支えたいことをわかってほしい」「暗く深刻にならずに、割り切って、ユーモアを持ちましょう」など、単なるスローガンではない、肉声が感じられる文章にまとめられた。

当時は、たとえサポートがあるにせよ、認知症の人どうしが話し合って考えをまとめ、意味のあるアピール文を作成することが出来るということ自体が驚きだった。その作成過程はNHK大阪放送局の同僚たちが特別に許されて撮影し、「福祉ネットワーク」の枠で放送した。会議の最終日には、オーストラリアからクリスティーンとポールが招かれ、話し合いに参加した。

この頃日本で新たに声をあげた人たちのほぼ全員がクリスティーンの影響を受けていた。多くの場合、本人が私たちの番組を見たり、彼女の著書を読んだりした訳ではなかったが、支援に携わる専門職や家族が、彼女のことを知って、「クリスティーンのように語り、彼女のように生きよう」と本人たちを励ましたのだ。「クリスティーンのように」という言葉が指すものは茫漠としていたが、クリスティーンという名前、彼女の語る言葉は、認知症という不治の病を宣告されて、病気の進行とともに能力を喪失し、自分だけでなく家族も不幸に落ち込んでいくという、混乱と暗闇の未来図に一筋の希望の光をさし入れるものと受け取られていた。

「クリスティーンさん」と、その名を口にするだけで、表情や声が明るくなるようだったのだ。「本人会議」の参加者の一人で、吉田多美子さん(当時53歳。3か月前に診断されたばかりだった。)が、記者会見で「私は私として生きたい」と話した後、廊下でクリスティーンと手を握り合い、「私のこれからの人生、もっといいものになるでしょう」と言い切った時の晴れ晴れとした笑顔を、私は今でも時折思い出すのだ。(いま私は、その時の吉田さんと同じ年齢だ。)

「本人会議」後の記者会見 中央が吉田多美子さん(2006年 京都)

クリスティーンの来日講演からわずか3年。こんなにも早く変化が起きようとは・・・。私は、テレビドキュメンタリーという媒体の力を感じていた。クリスティーンは先ほど触れた2004年の国際会議の分科会で、「認知症の本人が『目に見えない存在』であることをやめ、『目に見える存在』になることが、人々の意識を変える大きな力になる。だから、自分たちの力を活用すべきである」、と語っていた。その後2、3年の間に起きたことは、クリスティーンの忠告の正しさを証明していた。そして、私たちテレビドキュメンタリーの制作者は、まさに「目に見えるようにする」ことに直接関わっていた。自分たちが撮影した映像、制作したドキュメンタリー番組が、人々の意識を変え、社会を動かす力になっていることを実感していた。

私の認知症に関する50本以上の連作は、こうした時代の勢いの中で始まり、続いてきた。発端は、2003年2月に出雲の看護師、石橋典子さんに連れられてオーストラリアに行ってクリスティーンと出会い、「ここに聴かれるべき言葉がある。聴こえるようにせねば」と思ったことだったが、その時、認知症に対して特別な関心があった訳ではないことは既に書いた通りである。ただ私は、クリスティーンとポールと一生の付き合いになるとは思っていた。土本典昭さんの仕事に憧れてドキュメンタリーを志したので、番組づくりを始める時には、その人と一生付き合うつもりで臨もうと決めていたから。しかし、「付き合い続ける」ことと「続篇を撮る」こととはまた別の話である。

ではどうして連作がなされたかといえば、クリスティーンが登場する番組づくりが一段落した後でも、その都度「発注」があったからだ。最初は、「生活ほっとモーニング」から、「介護のしかた」についてだった。

NHKでは、私のようなディレクターに番組を「発注」するのは、多くの場合、「チーフ・プロデューサー」と呼ばれる役職の人々だ。(この人々の名は、番組のクレジットタイトルで「終」の文字の直前に「制作統括」として表示される。)

チーフ・プロデューサーは言った。

「認知症の人が何もわからない人でも、何も考えていない人でもないことはよくわかった。では、それがわかることによって、介護のしかたはどう変わるのか?楽になるのか?」そういう問いに答えるような番組を作ってほしい。」

いかにも朝の生活情報番組らしい、生活感のある注文だった。

番組作りを職業とする人間は、医療やケアの専門家とは違った発想をし、使う言葉も語り方も全く違う。番組についての打ち合わせで、このチーフ・プロデューサーが、以下のような話をしてくれたことを私は鮮明に憶えている。  

彼の地元には「呆け得」という言葉がある。呆けてしまえば、本人は何も分からず苦しみも感じないが、呆け遅れた家族は、先に呆けた人を介護せねばならず、苦労ばかりだ。先に呆けたほうが得である、ということだ。多くの人たちがそう思っているし、彼自身、ついこの間までそう思っていた。番組は、そういう人たちに見てもらうものであり、その信念を変えさせるだけの説得材料がないといけないし、知ってよかった、得をしたと思わせる情報がなければならない。

私は、自分がやるべき仕事とは、まさにそういう番組を作ることなのだ、と気づかされた。それが、医療やケアの専門家でもなく、芸術家でもない、「番組屋」の立ち位置であり、役割であり、専門性である。必要なのは高尚さよりも下世話さである。それと同時に、深さや美しさも追い続ける。そうでなければ、人々の心の奥に届かないし、ものの見方や行動に変化を引き起こすことは出来ないだろうから。

そのような問題意識を持ったチーフ・プロデューサーが次々に私の前に現れて、番組を「発注」し、議論を重ねながら、認知症の連作を生み出していった。

そんなさなかの2005年夏、私は松江から東京への転勤を命ぜられた。配属されたのは、制作局文化・福祉番組部で、「福祉ネットワーク」(毎週月曜から木曜までEテレの夜8時から29分の番組)など福祉番組を担当する「福祉班」といわれるグループだった。

もともと福祉番組は、主に障害者の問題に取り組むものとして始まっていた。その中で認知症は、何年かに1度取り組むテーマの一つだった。2001年に『アルツハイマー病 告知の時代』という4本シリーズがあり、3年おいて2004年に京都で開かれた国際会議についての3本シリーズ(そのうちの1本が、先に記した『私が私であるために』)、2005年には『めざせ介護の達人 認知症介護』という12本のシリーズが作られていた。これらの番組は大体、「認知症の人にどう告知し、支援し、介護するか」という、医療者や介護者の視点で作られていて、「告知された後、本人がどう生きるのか」という観点はなかった。そこに、「当事者の視点」を背負いながら私がやってきたような格好だった。

それは時代の関心でもあった。認知症以外の分野でも、ちょうど2003年に中西正司さんと上野千鶴子さんが『当事者主権』というタイトルの岩波新書を出版したように、障害であれ、女性であれ、ハンセン病であれ、マイノリティとされる人たちを「どう支援するか」という視点に対して、マイノリティ自身が「どう生きるか」という当事者の視点が強く意識されるようになっていた。その中で福祉番組も変わろうとしていた。いわゆる「障害」に限らない、様々な生きづらさを抱える「当事者」の視点を明確に意識した番組が徐々に増えていく。そんな時期だった。

転勤から1年ほど経った2006年5月、私は、ETVワイド  ともに生きる『いま、認知症の私たちが伝えたいこと』という番組の制作に参加した。認知症と診断された後、各地で語り始めた人たち3人をスタジオに招き、存分に話してもらおうという企てで、3時間にわたる生放送の番組だった。

これは極めて大胆で、画期的で、覚悟の必要な計画だった。というのも、出演する人たちは、大勢の前で語ったことがあるとはいえ、話すことのプロではない上、記憶障害がある。訊かれたことに的確に答えることが出来るのか?見当違いのことを話し始めたらどうするか?話の途中で本人が何の話をしているのか忘れて脱線し、話が終わらなくなってしまったらどうするのか?など、心配すべき多くのことが頭に浮かんだ。スタジオの天井いっぱいに吊るされた照明を当てられ、何台ものカメラに取り囲まれると、たいていの人はあがる。頭が真っ白になる、という人もいる。入念に打ち合わせをすれば疲れてしまう上に、内容を全部忘れてしまうかもしれないので、打ち合わせは大枠を手短に説明するに留めることにした。

もちろん私たちはそのリスクを冒すことに「意味がある」と考えたのだ。認知症の人が語る番組を作ると、決まって聞こえてくるのが、「あの人たちは特殊な人だ」とか、「都合のいいところだけを編集しているのではないか」という疑いの声である。生放送では、一度発せられた言葉を削除したり、順番を入れ替えたりすることは出来ない。言いよどみや勘違いも、脱線した話を本題に引き戻す過程もありのままに放送される。だが、そうしたリスクがすべてそのまま「強み」になる、と私たちは考えたのだ。つまり、司会者が問いを発してから答えを得るまでの全過程がありのままにさらされてしまうことにより、これらの人たちが特殊ではないし、都合のいいところだけを編集しているのでもないという信憑性を感じてもらうことが出来るはずだ、と。

番組は、いわば開始時刻と終了時刻は決まっており、いちおうの道順も決まっているが、実際に歩いてみないとどういう道を通って、どこに行きつくのかわからない旅のようなものだった。司会は「福祉ネットワーク」のキャスターをつとめていた町永俊雄アナウンサー。決められた道を決められた通りに歩くほどつまらないことはないと考えるタイプの人である。町永さんなら何があってもどうにかしてくれるだろうという信頼があっての番組企画だった。どこに行きつくのかわからない、予定調和を捨てた旅だから、一度見始めたらやめられなくなる。そのような番組を目指したのである。

ふたを開けてみると、思った以上にうまくいった部分と、思いもしなかった困難にぶち当たる部分とがあった。うまくいったのは、認知症の人たち3人の話である。この時期にカミングアウトし、テレビに出ることまで引き受けた人たちは、覚悟が出来ていた。スタジオでまぶしいほど照明を当てられ、何台ものカメラに囲まれても、話すべきことを話す。その言葉には、どん底を見て多くの涙を流した人ならではのユーモアや思いやりがあり、真情にあふれていて、ある時は人々を笑わせ、ある時はホロリとさせた。

一方、想定外だったのは、こうした人たちの話についてひとことも感想を述べず、自分がもともと持っていた考えを1ミリも変えることなく述べたてる人がいるということだった。また、そういう人に拍手喝采を送る人たちがいる。

3時間という長丁場を終えた後、私たちは、確かに「一歩を踏み出した」という達成感を持ち、出演してくれた認知症の人たちと同行者の皆さんに感謝し、ねぎらいあったが、同時に、山のようなモヤモヤを抱えていた。認知症の人たちがどんなに勇気をもって発言しても、聴く側が聴く耳を持たなければ、その声は宙に消えてしまい、変化を起こせないどころか、何の痕跡も残せないのではないか・・・。

町永さんは、放送後相当長い期間、ディレクター陣の中で最年長だった私が近くで同僚たちと話し笑う声を聞くだけで、怒りがよみがえり体が震える、とまで言っていた。町永さんも私たちも、無力感と罪悪感、そして課題を抱えていた。

その中で、やるべきことが見えてきた。もっともっと「声」を響かせ、聞き流しても、耳をふさいでも聴こえるようにしていこう。今は数人の無視できる声かもしれないが、数を増やし、無視できない声にしていこう。そんなことを語り合った。「福祉班」というのは、そういう言葉が行きかう仲間たちのグループだった。

この番組は、大きな展開につながっていった。

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