【連載】「視線の病」としての認知症 第13回 「目に見えない人たち」が姿を現す text 川村雄次

放送後数日して、NHKスペシャル事務局からチーフ・プロデューサーに話があるというので、私も呼ばれた。番組を見て、新たなキャンペーンのアイディアを得たので、担当者の意見を聴きたいとのことだった。

その人は言った。

「認知症の医学やケアの到達点と、私たちが日ごろ目にしている医療やケアの現状との間には大きなギャップがあるようだ。最良のものを探り当てられるかどうかで、天国と地獄ほどの違いが生まれる。その差を生み出すのは『情報格差』なのではないか。そして、もし格差を埋めることが出来たら大きな変化が起きるのではないか。そういうことに取り組むのが、公共放送たるNHKの役割ではないか。そのような目的でキャンペーンを始められないかと考えるのだが、どう思う?」

チーフ・プロデューサーも私も、「それこそまさに必要で、やるべきことだと思う」と賛成した。そして間もなく、「認知症キャンペーン」が始まった。それまで私を含め何人かの「関心あるディレクターたち」が取り組んで」いた認知症というテーマに、全国のありとあらゆる部署の人々が取り組み、番組を作り始めた。また、関連するイベントも全国で開かれた。その一つがNHKとNHK厚生文化事業団との共催による「認知症フォーラム」で、これは形を変えながら今も続いている。司会は一貫して町永さん。全国の都道府県に医学やケアなどの最新情報を伝えている。

キャンペーンの中核に位置付けられたのは、2008年までに制作した計3本の「NHKスペシャル」である。私もその制作チームに入った。第1弾は、2006年12月に、「シリーズ認知症 その時、あなたは」という通しタイトルで2本。私たち福祉班はそのうちの『第1回 “常識”を変えよう』に参加した。この番組はタイトルが示すように、「情報格差」をいかなる「新しい常識」によって埋めようとしているのかを示し、キャンペーンが進むべき方向を指し示そうとする番組だった。第2回は、報道局の記者やディレクターたちによる、現状報告『介護の孤立を防ぐために』だった。

1年おいて放送した第2弾は、2008年1月放送の『認知症 なぜ見過ごされるのか 医療体制を問う』。まさにタイトル通り、医療体制を問うた。

第2弾のテーマは、第1弾の取材を通して見出された。

当時、認知症をめぐって医学の世界でも大きな変化が起きていた。それまでは医師たちの大半が、認知症の診断や治療に無関心だった。診断しても処方する薬がなく、「打つ手がない」と思う医師が多かったのだ。医師一般がそうだったというだけでなく、認知症を専門に診ることを期待される、精神科や脳神経外科なども例外ではなかった。その時代に認知症を疑って受診すると、「治りません。あとはおうちでやさしく介護してあげてください」と言われるだけで、何もしてくれなかった」という話を多くの人から聞いた。打つ手がないのに診断するのはかわいそうだから、「年相応のもの忘れ」と告げることがやさしさであるとされていたのだ。認知症であるか、そうでないかを積極的に見極めようという意欲は極めて低かった。認知症の研究は進んでいたし、医学で治せなくてもケアで出来ることがたくさんあることがわかってきていたのだが、そうした最新情報に全く関心を持たない医師が多かった。大学の医学部時代に数時間学んで以降、認知症についての知識を全く更新していないことが決して珍しくなかった。

転機は1999年。厚生労働省が日本で初めて抗認知症薬(認知症の薬)を認可したのだ。ドネペジル塩酸塩(商品名 アリセプト)である。アルツハイマー型認知症の進行を遅らせる効果があるとされるもので、進行を止めたり、元に戻したりすることは出来ない。それでも、医師が診断後に処方出来る薬を手にした意味は大きかった。診断した後の患者に対する「打つ手」が出来たのだ。定期的に通院してもらう理由も出来たし、診察して処方箋を書けば、処方箋発行料を請求することも出来る。「もの忘れ外来」という新たな看板を掲げて多くの医療機関が取り組み始めた。なぜ新しい看板かというと、特に精神科を受診するのは「敷居が高い」とされていたからだ。

薬の登場以後、医学界では、「早期診断・早期治療」とか「早期診断・早期対応」という言葉が繰り返し唱えられた。だが、第一弾のNHKスペシャルを作るため医療やケアの現場を取材した私や多くの同僚たちに見えてきたのは、「認知症の専門家」であることが期待される医療従事者の中にも「情報の格差」が存在しているという事実だった。つい先日まで大半の医師が認知症に全く関心を持っていなかったのだから、今考えると当然のことだった。そして、「認知症の人=何も分からない人」という「古い常識」が、当時も今も無視しえぬ数で続いている。 

その結果として、初期で認知症を疑って受診した人たちのうちかなり多くが、正しく診断されず見過ごされていた。また、進行の度合いを問わず、相当多くの人たちが間違った薬を処方されて病状を悪化させていた。寝たきりになる人や亡くなる人もいた。少なからぬ医療現場で、認知症の人の言動を抑えるため、「縛る」「閉じ込める」「薬を使う」ことが日常的に行われていた。現場を歩くと、そういう「被害」について多く見聞きしたし、先進的なケア現場では、被害に遭わないための自衛策すら講じられていたのだが、診断や処方の誤りという医師一人ひとりの技量の問題を正面から問うような実態調査は医学界内部ではなされていなかった。医師は、明らかに「おかしい」と思っても、他の医師を表立って批判するのはリスクを伴うため、「普通はしない」のだという。

しかしながら、本人にとっては命に関わることである。家族にとっても「仕方がない」では済まない重要なことだった。

実際にはどうなっているのか?改善するためにどうしたらいいのか?個人の努力や善意ではどうしようもない問題だった。番組では、現場を取材したVTRに加えて、責任ある立場の人たちにスタジオに集まって意見を言い合ってもらうことを計画した。厚生労働大臣や、専門医の学会の理事長、医師会の理事、介護職、自治体の職員など。そして当事者である、認知症の人とその家族にも複数参加してもらった。

その中に、札幌から来た、50代で認知症と診断された2人の男性とその妻たちがいた。

憶えておられるだろうか?今回の原稿の冒頭ブリズベン空港に楽器を持って到着した、あの「楽団FUKU」の人々である。デイサービスの施設長の武田純子さんも一緒だった。

スタジオで彼らが発言したのは、誤診についてでも、誤った投薬についてでもなかった。男性たちは2人とも、認知症を疑って受診して認知症と診断されていたし、処方された薬で目立った副作用もなかった。

それでも彼らには言いたいことがあった。夫婦が代わる代わる、何度か涙で声を途切らせながら語ったことを要約すると、こういうことだ。

「早期診断はされ、薬は処方されたが、『対応』は何もなかった。医療機関が与えてくれたのは絶望だけだった。」

診断の時、医師が言ったのは、「治らない」「進行する」「薬は進行を遅らせるだけで、止めることは出来ない」「50代だから進行は早い」。暗闇に突き落とすようなことばかりで、「進行を遅らせるために何ができるか」とか「残された時間をどう生きることが出来るか」「どこに相談すれば助けになってくれるか」といったことは全く教えてくれなかったというのだ。

これは後に「早期診断・早期絶望」、「診断後支援」という言葉で語られ、取り組まれるようになった問題である。だが、当時の日本では、まだほとんど手つかずで、そうした言葉も知られていなかった。スタジオには日本を代表する認知症医療の専門家が集まっていたが、誰もひと言も発しなかった。

番組の収録が終わった後、私は「楽団FUKU」の人々を夕食に誘った。私が片づけを済ませて少し遅れていくと、武田純子さんが思いつめたような顔で言った。

 「川村さん、私たち、オーストラリアにクリスティーンに会いに行こうと思うのだけれど、どう思う?」

 日本では得られない答えをオーストラリアに求めにいこうというのだ。

 そして9か月後、認知症とともに生きる道を探る、新しい旅が始まった。

ブリズベンの川のほとりで

(つづく。次は12月1日に掲載する予定です。)

【筆者プロフィール】

川村雄次(かわむら・ゆうじ) 
NHKディレクター。主な番組:『16本目の“水俣” 記録映画監督 土本典昭』(1992年)など。認知症については、『クリスティーンとポール 私は私になっていく』(2004年)制作を機に約50本を制作。DVD『認知症ケア』全3巻(2013年、日本ジャーナリスト協会賞 映像部門大賞)は、NHK厚生文化事業団で無料貸出中。