【連載】「視線の病」としての認知症 第12回 新しい視線 text 川村雄次

エリザベスとクリスティーン

 「視線の病」としての認知症
第12回 新しい視線

前回(第11回)はこちら

エリザベス・マッキンレーから私たちが教えられたのは、「新しい視線」だった。それは、私たちが捉われていた「視線の病」を脱け出すための出口がどこにあるかを指し示していた。最近だと、「病気ではなく人を見よ」という標語で簡潔に言い表されるものかもしれない。だが1995年当時、そんな標語はなかった。「認知症の人(person with dementia)」という表現すらなかったのである。あったのは、「認知症患者(demented patient)」である。 まるでリンゴが腐ると形が崩れ、リンゴではないものになっていくように、人は認知症になると人ならざるものになっていくようなイメージがあったのだ。

ではなぜ、エリザベスはクリスティーンの「人」を見つけ出すことが出来たのか?キリスト教の信仰があったからだろうか?それはそうだろう。クリスティーンと共通して信じる「神」があったからだろうか?それもそうだろう。2人とも、神は人をどういうものとして作ったか?神は人をどう見るだろうか?という共通の問い方をしていたのだ。「新しい視線」は「神の視線」に通じていた。

では、キリスト教を信仰しない私のような者には「人」は見つけられないものだろうか?いや、そうではないだろうと、私は思っていた。もし人が人をこれほどまでの深さで見ることが出来るならば、人はそれまで考えられなかったような可能性を発揮し始める。人が人に向ける「視線」には、そのような能力が潜在していると感じていたのだ。「神と同じように見る」ということは、信仰があろうとなかろうと可能なはずである。

では、どうすればそんな見方を出来るようになるのか?私は、エリザベスが私たちに語ってくれたことの中に、その手がかりを見出した。「クリスティーンにスピリチュアル・ディレクターになってほしいと頼まれた時、どう思いましたか?」という質問に対しエリザベスはこう答えていた。“I felt privileged.”と。「光栄だと思った」と訳すのだろうか。全く予期せぬ言葉だった。私は驚いた、というより、拍子抜けした。認知症と診断された直後の人に「これからの人生の相談相手になってほしい」と頼まれた瞬間の反応としては、通り一遍の社交辞令のようで、あっさりしすぎていると思ったのだ。しかしエリザベスは、私が質問のしかたを変えて何度尋ねても同じように答えた。

それはどういう感覚なのだろう?辞書によれば、privilegeという単語の元の意味は「特権」であり、「特権を与える」である。エリザベスの言葉を、「(クリスティーンから)特権を与えられたように思った」と解釈することもできるだろう。また演劇の「特等席」にたとえられるかもしれない。クリスティーンという1人の女優が「認知症と診断された後を生きる」という、台本のない芝居を演じようとする時に、その芝居の一部始終を、一番近い、自分の息づかいを肌で感じられるほどの近さで見届けてほしいと、本人から頼まれたのである。確かに「特権的なこと」かもしれなかった。またそれは、エリザベス自身の息づかいをクリスティーンが感じるほど近い、ということでもあった。見ている自分がどう感じて何を考えるかが演じ手に影響を与えてしまう。そういう近さであり、重い責任を伴う特権であろう。

解釈はともあれ、この“privileged”という感覚から2人の関係は始まり、続いてきたのである。

 
前回書いたように、私たちがエリザベスに初めて出会ったのは、2004年4月からの第一次オーストラリアロケの後半、クリスティーンとポールの2泊3日の自動車旅行に同行して訪れた首都キャンベラでのことだった。

私たちはこの地で、クリスティーンが認知症と診断された1995年当時の状況を最も間近に見た人たちへのインタビューを計画していた。その一人は、彼女がオーストラリア連邦政府の首相内閣省の幹部として数十人の部下を率いていた時の右腕、マーガレット・フリッシュだった。彼女は、クリスティーンが極めて頭脳明晰で有能で、どんな問題でもたちどころに解決してしたことや、その彼女が新しい職員の名前を憶えられなくなり、偏頭痛に苦しむ日が増えていったことなどを語った。偏頭痛の原因を調べるために受診したことがきっかけになり、クリスティーンは認知症と診断された経過についても証言してくれた。

そして長女のイアンシー。クリスティーンの診断当時20歳。シドニー大学で理学療法を学んでいたが、休学することを決断した。シングルマザーだったクリスティーンに代わって、14歳と9歳、2人の妹たちの面倒をみ、さらにクリスティーンの介護者の役割も引き受けるためだった。何でも代わりにしてあげねばという思いから、紅茶を淹れる時、クリスティーンの茶碗に牛乳を入れようとして、「それはまだ自分で出来るわ」と押し返されたこともあったという。女子ラグビーのオーストラリア代表チームの選手だったイアンシーはガッシリした体格で、見るからにしっかり者で、並んでソファに座っていると、クリスティーンはすっかり甘えていて、まるでイアンシーの子どもであるかのような錯覚を起こすほどだった。クリスティーンは講演で、「介護者の過保護が本人に出来ることを奪ってしまう」と語っていたが、時折ならば「世話を焼かれすぎる」のは嫌ではないようだった。

イアンシーは私たちに、娘から見たクリスティーンについて語った。仕事と子育てを両立させ、さらに勉強してMBAをとった、「母は二人いるのではないか」と思うほどのスーパーママで、誇りだったこと。(「胸にMのマークを付けている」と言って笑った。)その母親が、次第に変化していったこと。娘の自分にとって、母親の頭の回転や話し方が遅くなったとか、物覚えが悪くなったと人から思われるのが、精神的な苦痛だったこと。クリスティーンが一人で落ち込み泣いていたこと。そして、また、ある日結婚相談所に登録すると言い出し、最初は信じなかったことも。

「初めてのデートは楽しかったようで、湖の周りを散歩したことを、家に帰ってもずっと話していました。数日後には『彼は電話をかけてくるかしら』とため息をつき、16歳の少女のようでした。2人は多くの時間を共にするようになりました。母は生まれ変わったようにいきいきした女性になりました。それが恋というものです。」

自分の母親の恋愛について、これほど快活に語る娘と話すのは、私にとって日本でも海外でも初めての経験で、「それが恋というものです」などの指摘が冷静で的確であることに感心した。

私たちは、クリスティーンが通っていた教会の日曜日の礼拝にも同行した。クリスティーンはそこで再会した人たちひとり一人を抱きしめ、親し気に話した。これらの人たちが、彼女の認知症の検査の結果が出るのを待つ間、病気の平癒を祈ってくれたのだ。また、診断後にクリスティーンとポールが結婚式をあげたのもこの教会で、祝福してくれた人たちでもあった。

クリスティーンが長く暮らしていたこの土地に今も暮らし続けている人たちが語る話を聞いていると、本に書かれていたことがどれも本当にあったことなんだと強く感じた。

 クリスティーンが通っていた教会

▼Page2に続く