キャンベラ滞在4日目の朝、私たちはクリスティーンたちがテントを張って泊っているオートキャンプ場を訪ねた。2人の車はユーカリの見事な大木の下に駐められていた。夜、木から木へフクロムササビが飛び移り、地面をポッサムが走る、森の中のキャンプ場だった。少し肌寒く、クリスティーンとポールは防寒着を着て、キャンプ用のテーブルセットで朝食を済ませたところだった。
私たちはあと数日で第一次ロケを終え、一時帰国することにしていた。オーストラリアに来てから2週間あまり、ほぼ毎日2人と顔を合わせて、クリスティーンが診断からの9年間をどうやって生きてきたかをたどってきて、彼女自身がこの歳月をどう振り返るのか、また、「今」がどういう時なのか、聞くためにインタビューしたいと頼んだのだ。
私は片言の英語で尋ねた。
「クリスティーン、今あなたがどういう気持ちでいるのか、教えてもらえますか?」
クリスティーンはまず、「リラックスしています」と答えた。2人の上に木洩れ日が水玉模様を描いて揺れていた。風通しの良い静かな森の中で、クリスティーンは今の自分の状態について、本当にありのままに感じているようだった。そして、前の夜、エリザベス・マッキンレーとその娘、ポールと4人で食事した時に感じたことを話し始めた。「次から次に言いたいことが川の流れのように頭に押し寄せてくるのに、言葉にするのが追いつきません。まるで自分は、パチパチと消えかかっているろうそくの火のようだと思いました。」クリスティーンがゆっくりと言葉を選びながら声にするひと言ひと言が、胸に刺さった。
「もう時間がないんです。でも言わないといけない大切なことがまだまだあります。昨夜も、みんなは『それはほんとうに大切ね。紙に書いておかないと』と言ってくれましたが、私はそれが一瞬だけのアイディアだと知っています。本に書こうと机に向かうと、頭の中は空っぽになっているんです。神がたくさんのアイディアを与えてくださるのに、私が書くのが遅くて間に合わない。今はとてもリラックスしているし、本当に幸せよ。でも悲しい。もう時間がないから。」
そう言って、クリスティーンは泣いた。ポールはハンカチを差し出した。やがて2人は立ち上がり、抱きしめ合った。クリスティーンが語ったのは、「認知症の進行」と向き合う自分自身の今の状態だった。書き残したいことがいっぱいあるのに、もう時間がなくなろうとしているというのだ。朝のキャンプ場は静かで、鳥の鳴き声だけが響いていた。私たちは、その悲しみに共鳴していた。じっと息を殺して撮影していた南波はようやくファインダーから目を離して言った。「川村さん、ピントが合ってないかもしれません。」ずっと泣きながら撮影していたのだ。見ると、音声の吉川も放心しているようで、目がうるんでいた。私たちは、クリスティーンの人生の重要な局面に触れてしまったように感じた。
キャンベラ郊外のオートキャンプ場
帰国後、編集室でこうして撮影した映像を見直しながら、そこから何を読み取るのかを編集の鈴木良子さんとともに考えていったことは、既に何度か書いた通りである。編集室のことを「第二現場」と言うことも既に書いたが、ロケ現場であれ編集室であれ、私たち制作者がやるべきことについて、鈴木さんは「認識」という言葉で語る。自分たちがどういうところに来てどういう人に会っているのか、どういう時代のどの部分を撮っているのかを「認識」する。その積み重なりがドキュメンタリーだというのである。
では、クリスティーンが泣き、ロケスタッフが泣きながら撮影したこのインタビューをどのように「認識」するのか?鈴木さんが口にしたのは、思いがけない言葉だった。「これは喜びの涙なのよ。」「えっ、喜びの涙?」私は鈴木さんの顔を見た。鈴木さんはこうした時、すぐには説明しない。黙って微笑んでいる。私は頭の中で、映像を反芻した。確かにクリスティーンは涙を流していたが、その表情は、暗く落ち込み悲しんでいるというよりは、むしろきっぱりとした意志を感じるものだった。そして、彼女が語った言葉の翻訳を読み返すと、認知症によって失うものについて嘆いているのではなかった。書く手が間に合わないほどに、新たなアイディアが次々と豊かに湧いてくる、と言っているのである。しかもそのアイディアを与えるのは神だと言うのだ。神が直接彼女に語りかけている。神を信じるクリスティーンにとって、それはきっと喜びを感じる状態だろう。認知症によって神を失うのではないかと怖れていたのに、以前にはなかったほどの近さで神を感じているのだから。ここには大きな反転があった。認知症による喪失から、喪失しながらの獲得へ。私と鈴木さんは、そう「認識」した。
では、クリスティーンに神が与えたアイディアとはどんなものか? 彼女が「もう時間がない」とひとしきり泣いた後で語ったのは、今回キャンベラで教会やアルツハイマー病協会を訪ね、古い知人たちに再会した時、頭に浮かんだことだった。自分がどんな風に人を認識しているのかについて大事なことに気づいたのだという。
「私はみんなを抱きしめ微笑みました。私は彼らが誰なのか知っています。しかし、皆さんのいう『知る』という意味ではないのです。名前もわからないし、結婚しているのか、子どもがいるのか、仕事をしているのか、そういうことは何もわかりません。でも私はその人たちを知っています。その人の本質を通して、誰なのかを『知る』ということもあるのです。」
クリスティーンが語ったのは、「知る」、英語の“know”について。前回触れた、「神をわかる力は最後に失われるのか、最後まで失われないのか」という問題に関係する考察だった。いま私は「神をわかる」と書いたが、彼女たちが用いたのはやはり“know”という言葉で、「神を知る」と訳すことも出来る。「神を知る力」についてクリスティーンとエリザベスが1冊目の本をまとめた1998年の段階で、「最後まで失われない」と結論づけていたことは、前回書いた通りである。ただそれは、2人とも直観によって「そう思う」というだけで根拠はなかったと私は考えていた。それからさらに6年が経って、クリスティーンはその根拠を見つけつつある手ごたえを感じているのではないか?
私たちはクリスティーンの言葉を何度も読み返した。ここで彼女が言っているのは次のようなことだ。名前や職業というのは、その人の表面に貼られたラベルのようなものであり、普通「知る」というのは、そのラベルについて情報を持っていることを意味する。いま彼女は、そうした、「その人」と「情報」とを照合する、知識レベルの「知る力」を失いつつあるが、それでもその人を「知っている」とわかる。それは、その人の本質を通して知っているのだ。
また、そのような「知る」があるならば、知的能力が衰えていっても、「知る力」は残り続けるだろう。それどころか、表面的なラベルや形を忘却することによって、本質と本質のみでつながることが出来るのかもしれない。「神を知る力」は失われず、ますます研ぎ澄まされていくだろう。
これこそが、喪失から獲得への反転のポイントだった。
それは、日本の医療や介護の現場でよく聞かれる、「認知症が進み、家族や友人の顔や名前がわからなくなっても、自分にとって大切な人であることはわかる」とか、「ぼけても心は生きている」といった言葉と通じているが、それ以上のもののように思われた。
私は、こんなことをイメージした。昼、明るい間は目に見えない星が、日が落ちるとポツポツと光り始め、空が暗さを増すとともに満天の星が現れる。そうして気づくのは、昼の間も空いっぱいに星は輝いていたのに、見えていなかったということだ。空が暗くなって初めて星は見えるのである。クリスティーンの場合もそれと似ていないだろうか?彼女は、認知症を病むことを通じて、知識レベルの「知る力」を失っていくとともに、本質を通して「知る力」を目覚めさせてきた。いわば昼間でも、曇り空でも、満天の星を見抜く力を持つようになったのである。
こうした「知る」の変化は、理屈ではなく、彼女が毎日の暮らしの中で実感していることであり、「神を知る力は最後まで失われない」と信じる根拠となり得る。認知症が進み、能力が衰えるのを感じれば感じるほど、確信は深まっていくだろう。
クリスティーンはそうした思索を経て、「私は誰になっていくのか?」という問いへの答えを出そうとしていた。私たちのインタビューに彼女はこう答えた。
「以前は、何もかもなくなってしまうと怖れ、『私は死ぬ時、誰になるのか?』と考えていました。でも今は、大切でないものはなくなるが、本当に大切なものは必ず残ると、気づきました。それが私の魂であり、私を私たらしめているものなのです。聖書の中で神は、『あなたは誰ですか?』ときかれた時、『私は私である』と繰り返し答えています。そこで私は考えました。神は昔も私たちの中に宿ろうとしておられた。『神がともにおられる』とはどういう意味なのか?私の魂とは何なのか?私はただただ私になっていくのです。」
「私は私になっていく」、それがこの時点でのクリスティーンの答えだった。
くどいようだが、私は信仰を持たないし、神学に通じてもいないので、この結論が正しいかどうか判断することは出来ない。おそらく世界中の多くの人がそうだろう。だが同様に多くの人が、「私は誰になっていくのか?」を自分の全存在をかけて問い続けたクリスティーンの9年にわたる探究の軌跡は、キリスト教を信仰しない人にとっても重要な意味があると考えていた。例えば、「知る」ということについて、多くの人が新たに目を開かれる思いをしたのではないだろうか?そしてまた、認知症とともに歩むクリスティーンの旅路は、様々なところで変化を生み出していた。
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