【Review】のこされた歌、うたわれる今――『タゴール・ソングス』 text 菊井崇史

 レコード盤に針が落とされ、歌が聴こえはじめる。そして、流れる旋律にのった歌声の詞が「もし 君の呼び声に誰も答えなくてもひとりで進め」との意をもつことともに、その曲が「ベンガル分割反対運動時の一九〇五年のタゴール・ソング」であることをしらされる。映画の幕あけから終始タゴール・ソングの響きに満ちた本作は、それがいかなる歌であるのかを問いかけ、問いかけられつづけることで導かれたドキュメンタリーだ。定義についてならば、その名のとおりラビンドラナート・タゴールがのこした二〇〇〇以上もの曲の総称なのだ、とこたえることができる。だが、その歌が今どのような暮らし、生活をおくる人々にうたわれ、それをうたう人々にとっていかに響いているのか、という問いにたいしてのこたえは容易ではない。

反英闘争の歴史に深くかさなりをもつ一八六一年から一九四一年を生き、ベンガル語の文語体から口語体にわたって言葉をのこしたタゴールが、現在にいたるまでベンガル語圏に生きる人々において別格の存在感を放ってきたことはまちがいない。映画の冒頭近く、コルカタの一角で人々は口々にタゴールを讃え、「小説家、詩人、社会活動家、農村開発者」として生き、幾多の作品をのこした彼を誇る。彼女彼らは、キャメラをまえに歌々をそらでうたう。「わたしはタゴールからすべてを学んだ」と言う女の傍で男がタゴール・ソングを口にする。おどろくべき光景だ、とぼくにはうつったが、彼女彼らにとっては特別なことではないのだ。ひとりの人間がのこした歌がこれほど多くの日常に、人々の心身に沁みこんでいるというおどろきは、映画を見すすめるにつけ、彼女彼らはいかなる位相でタゴール・ソングとともに生きるのか、という問いへとかわる。この問いが、おそらくは『タゴール・ソングス』が撮られた動機の一端と共鳴し、映画を見ることと、映画にもたらされた旅とかさなってゆくのだ。
 タゴール・ソングの現在に迫るため、映画は各地をめぐり、路上、学校、個人宅、レコード、ライブ、テレビ、YouTube等、さまざまの場所とメディアに奏でられるタゴール・ソングが紹介される。同じ曲が別の人にうたわれることであたかも異なる曲であるかのように聴こえ、その多様さはそのままに、それをうたう人々にとってのタゴール・ソングの意義、意味あいの多岐につうじてゆく。本作の白眉のひとつは、ここにあると言える。タゴール・ソングスという複数形には、タゴールがのこした膨大な曲数のゆえだけではなく、それがうたわれる数だけタゴール・ソングは現在も生みだされているのではないか、そんな感慨を覚えるのだ。冒頭に流れたタゴール・ソングの詞の「もし 君の呼び声に誰も答えなくても」「もし 光が差し込まないなら」「もし 夜の嵐に扉を閉ざすなら」「それでも君はひとり雷であばら骨を燃やし続けろ」そして、「ひとりで進め」という呼びかけのリフレインは、その「ひとり」ひとりの生き方に届くことで、それぞれの歌を響かせているのだろう、と。

 歌はいかに継がれているのか。ダッカ大学の歌の教授が、タゴール・ソングの「正しい」うたいかた、歌唱法を子らに学校でおしえるようすは、曲に見い出すべき思想をたたえた教養を伝え、継いでゆくようにみえる。かたや、タゴール・ソングにアレンジをくわえ、伝統を現在にアップデートしていると路上でうたう若者や、「ひとりで進め」に影響を受けた、心はタゴールとともにあると言い、自分たちの武器はラップだと闘争の調を告げるバングラデシュのダッカのラッパーがいる。コルカタのラッパーもまたタゴールの言葉を胸に、腐敗した国家の政治体制に対する抵抗の姿勢を烈しく訴え、ウィキペディアで調べたとしても決して理解されることのない現実の悲惨、その地で生きることの実状をラップにこめてうたう。タゴール・ソングが人の支えとして息衝くすがたはさまざまなのだ。友人と都市でのショッピングをたのしみ、クラブで踊り明かす十九歳の女はそんなライフスタイルを謳歌していると言うが、家に帰りひとりになると、人生において見うしなっているものを感じると吐露し、幼い頃からタゴールの本を読んでくれたという叔母のもとにむかい、彼女たちはタゴール・ソングをとおして詩や人生観や愛について語り議論する。彼女は自身の未来への指標としてタゴールの足跡をおもい、日本を訪ねもする。映画は幾多の人に秘められた歌の十色をつむぐ。愛、悲しみ、怒り、タゴール・ソングとの関係から、人々の暮しのありようを見つめるだけでも、この歌々が世代や階級といった差異を横断していることは明白だ。同時に、タゴール・ソングとむきあう姿勢や意志が決して一様には括ることはできないという事実が、個々のまなざしをとおして示されていて、この現実は現在、インド、バングラデシュ、彼女彼らが生きる地のおかれた状況を厳しくうかびあがらせもする。
 タゴールは苦境においてこそ曲をつくったのだろうとひとりのミュージシャンは言う。インドの経済は成長しているが、貧困は、抑圧は確固とあり、悲痛な現実はかわっていない、そうつづける彼に「タゴール・ソングで現実をかえることができるのか」と映画は問う。彼は、歌は歌でしかないがだからこそ、その歌の哲学を理解し伝えることに責任があるのだと静謐にこたえる。さとすように。誓うように。本作はタゴール・ソングが、今いかにうたい継がれ、うたい継がれる地がいかなる状況にあるのかを問うとともに、タゴール・ソング自体の内実に宿る哲学とはいかなるものなのか、という問いをひとしくかかえざるをえない。この問いの渦中にこそ、ある共同体のアイデンティティを繋ぐ側面だけでも、個々の生存の支えに帰するだけでも決して語ることができないタゴールの思想理念の響きに迫ることができるはずだ。それをしるためには、聴きとるためには、タゴールが言葉に、歌に、世界にむけていたまなざしに臨み、古典芸能や伝統文化を尊重しながらもそれらが帯びる権威の縛りを忌避し、「私はある特定の一国家に反感をいだくのではなく、あらゆる国家の一般的理念に反対するのである」と近代国家的ナショナリズムを否定しつづけ、個や共同体における生の別なる形態を希求したタゴールののこした哲学の調に、それが響く場に漸近してゆくしかないのだ。ロマン主義との影響関係、神秘主義の流れ等、彼の文学的位置をある側面のみをとりだし言説座標に定めたとしても、規定の理解ではその実践をとりこぼしてしまうだろう、本作に響く歌、歌と人々の生存の結ばれは、そんな実景としてうつしだされていた。

 自分は歌手ではなく「タゴール・ソングを歌う者」だと言う男がいる。彼ははっきりと、タゴール・ソングとその他の歌は別物なのだと口にする。イギリスの植民地主義に抵抗した父にならって活動をおこない、二回の投獄を経験したこと、離別した家族のこと、彼は境遇を告白する。自身の生涯にせおわざるをえなかった痛みの経験によってタゴール・ソングを理解した、その厳しい人生をかけてタゴール・ソングを手にしたと告げる彼は、自身が摑んだタゴール・ソングの真髄を伝えるひとりの女に、「私の様々な創作物は失われてしまうだろう、でも私の歌はのこりつづける」というタゴールの言葉をおしえる。本作を見るほどに、ぼくはタゴールが告げたとされる先の言葉の真意を考えざるをえなかった。あまたの言葉や、それだけでなく絵画等をも生涯にのこしたタゴールにとって、歌が「のこりつづける」と覚えた理由はどこにあったのか。言葉の息吹に因るのか、韻律か、旋律か。そして、タゴールは歌がどのようなかたちで、どのような地で歌い継がれるときをおもったのか。『タゴール・ソングス』に挿された「今から百年後にわたしの詩の葉を心をこめて読んでくれる人、君はだれか」(「百年後」より)という詩句をパラフレーズするならば、「今から百年後にわたしの歌を心をこめてうたう人、君はだれか」というタゴールの問いと呼びかけの方位に、このドキュメンタリー映画は応答のまなざしのひとつひとつをかえしていた。

【映画情報】

『タゴール・ソングス』
(2019年/日本/ベンガル語・英語/カラー/DCP/105分) 

監督:佐々木美佳  All Songs by ラビンドラナート・タゴール

撮影:林賢二 
録音・編集:辻井潔 
整音:渡辺丈彦
構成・プロデューサー:大澤一生
出演 オミテーシュ・ショルカール、プリタ・チャタルジー、オノンナ・ボッタチャルジー、ナイーム・イスラム・ノヨン、ハルン・アル・ラシッド 、ズワナ・チョウドリ・ボンナ、クナル・ビッシャシュ、シュボスリシュ・ロエ、ニザーム・ラビ、ラカン・ダース・バウル、スシル・クマール・チャタルジー、リアズ・フセイン、鈴木タリタ
現地コーディネーター:モヒウッディン・ルーベル・デルタ、タシュヌヴァ・アナン、ニロエ・オディカリ
ベンガル語翻訳:スディップ・シンハ、佐々木美佳
タゴール・ソング翻訳監修:奥田由香
英語翻訳:細谷由依子
助成:文化庁文化芸術振興費補助金
宣伝:contrail
製作・配給:ノンデライコ
公式HP:http://tagore-songs.com/

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画像はすべて©nondelico

【著者プロフィール】

菊井崇史(きくい・たかし)
大阪生まれ。2018年に『ゆきはての月日をわかつ伝書臨』『遙かなる光郷ヘノ黙示』(書肆子午線)の二冊の詩集を刊行。 neoneo誌のレイアウトにも参加する。