【Review】大切な人との関係性の築き方――『友達やめた。』text 川瀬みちる

「で、今日来てもらった理由は、“ふたりの常識を考える会”を開こうと思って」
それを聞いて、まあちゃんは声を出して笑った。

 『友達やめた。』は生まれつき耳の聞こえない映画監督・今村彩子がアスペルガー症候群の友人・まあちゃんとの関係について考え、カメラを回したドキュメンタリー映画だ。
 まあちゃんの些細な言動で関係がギクシャクする度に、内心では悶々としてきた今村監督だが、「アスペだから」と我慢し続けてきた。しかし、溜め込んできたものが爆発したとき、今村監督が出した結論は「友達やめた。」だった。つまり、「いい人でいる」ことをやめて、いやだと思う気持ちを表に出すことにしたのだ。それは、正面からまあちゃんに向かい合うということでもあった。映画の終盤で、今村監督は「ふたりの常識を考える会」を開く。一般的な常識を印籠のようにしてまあちゃんに押し付けるのではなく、あくまでも「ふたりの常識」を一緒に話し合いながら作っていくことにしたのだ。

 筆者のわたし自身も片耳難聴と社会的コミュニケーション症(※1)/ADHDであるため、ほんのちょっとずつだけれども、ふたりのことが分かる者として、この映画を見た。
 この映画は、見る人に「大切な人との関係性の築き方」を教えてくれる。もちろん、わたしはこれを普遍的な人間関係の話に昇華してしまって、ふたりのマイノリティ性を透明化するようなことはしたくはない。ただ、同時に様々な差異を持ったふたりの個人が関係性を築くヒントを2つ得ることができる。

 1つ目は、相手を相手そのものとして見ようと努力することだ。ここにはマイノリティのアイデンティティの問題が絡んでくる。映画の中ではアスペルガーの症状とまあちゃん固有の性格の区別が付かずにまあちゃんが葛藤するシーンが描かれているが、これにはわたし自身発達障害者のひとりとしてとても共感した。私自身もミスをしたときに、ADHDのせいなのか、それとも自分自身のせいなのか、分からなくなってしまうことがある。見えない障害である発達障害は、その人自身と障害を区別することがとりわけ難しい。
 ただ、ここでは全ての人間が様々なマイノリティ性・マジョリティ性を多層的に持った存在だということが重要だ。たとえば、はじめ今村監督は聞こえる人はレストランで注文ができるものと思っていたが、まあちゃんはアスペルガーのためにそれが難しく、むしろ今村監督が代わりに注文をしてあげるということになる。一方、まあちゃんが「いただきます」を言わないのはアスペルガー由来ではなく、実家の習慣由来だった。
 さらに、表立っては語られないふたりのマイノリティ性もある。たとえば、まあちゃんがXジェンダー・アセクシュアルであること。ふたりが40代の女性という映画などで表象されることの少ない存在であること。このように、多層的な個人のひとつの性質だけを取り出して、その人自身だということはできない。今村監督=聴覚障害ではないし、まあちゃん=アスペルガー症候群ではないのだ。
 しかし、同時に「もし」はないのだということも重要だ。つまり、「もし今村監督が聴覚障害でなかったら」「もしまあちゃんがアスペルガー症候群でなかったら」というものの実体は存在しないのである。今村監督にとっての聴覚障害やまあちゃんにとってのアスペルガー症候群は、それぞれその人の大切な一部でもあるのだ。
 その人の大切な一部ではあるが、全てではないものとして、障害などのマイノリティ性を見ることは難しいことだ。それでも、相手のことが大切である限り、わたしたちはその努力を怠る訳にはいかない。

 2つ目は、コミュニケーションをバリアフリー化することだ。聴覚障害と発達障害の共通点は、両方ともコミュニケーションの障害だということである。わたし自身、子どもの頃にいじめに遭うなど、コミュニケーションに悩んできた。とはいえ、これは、発達障害や聴覚障害だけにとってのバリアフリーではない。たとえば外国人など異なるアイデンティティを持つ人にとっても、同様に「空気を読む」ことは難しい。言語化は、差異を持つ相手とのコミュニケーションをバリアフリー化することができる。
 この映画において、最終的にふたりが出した結論は「ふたりの常識を考える」ことだった。その重要な点は「言語化」だ。アスペルガー症候群(または社会的コミュニケーション症)の人にとって、「非言語的なコミュニケーション」は非常に難しいものだ。それを「言語化」することで、今村監督はまあちゃんにとってのバリアを除去したのである。何よりも、感情を「言語化」したことが重要だ。最初今村監督は自分のいやだと思う気持ちを抑えていたが、それでは「いやになった気持ちは悪くなっちゃう」一方だった。いやなことをいやだとはっきり言った上で、その対策を考えるといったように、非言語的な感情を正面から言語でぶつけること。それがコミュニケーションのバリアフリー化の鍵なのだ。

 また、この映画では、コミュニケーションのバリアフリー化は一方的な歩み寄りではなかった。まあちゃん自身も(自分が楽だからという理由もあるが)手話を用いて、ゆっくりはっきりと話している(実際、難聴者にとってとても聞きやすい話し方だと感じた)ことで、今村監督にとってのバリアも除去している。相互の歩み寄りこそ、コミュニケーションのバリアフリー化を実現するのだ。

 最後に、このように今村監督とまあちゃんが関係性を築く姿を映し出すうえで、全編で印象的だったことについて述べよう。それは、あくまでも今村監督の一人称としての視点で通されているということだ。ほとんどの映像が、今村監督の手持ちのカメラで撮られている。

 一般的に、マイノリティはマジョリティによる三人称の、「神の視点」によって「客観的に」語られることが多い。本編でも、発達障害者への「対策」について書かれた本について、まあちゃんが「むかつく」と言っていたが、まさにそういったマジョリティからの眼差しは暴力的にすらなりうるのである。
 そんな中、聴覚障害という異なるマイノリティ性を持つ者による一人称の眼差しは、等身大のまあちゃんの姿を映し出す。その眼差しは、常に温かいというのではなく、カメラの揺れもまた今村監督の人間としての心の揺れを表しているようだ。時に笑い、時に怒り、等身大の菅らで正面から向かい合う眼差し。
 そして、それはふたりの日常もまた活き活きと映し出している。かわいい猫、おいしそうな食べ物、ぬいぐるみ、街、自然。そして、ふたりの笑顔。そんな魅力あふれる映像を見るためだけでも、この映画を見てほしい。ただマイノリティであるのでも、ただマジョリティであるのでもない、等身大のふたりの友達同士を見ることができるから。

※1 発達障害の一種で、アスペルガー症候群における「社会的コミュニケーションの困難」がある一方、「興味や行動の限局」(強いこだわり)が見られないもの

 

【映画情報】

『友達やめた。』
(2020年/日本/カラー/BD/ドキュメンタリー/84分) 

監督・撮影・編集:今村彩子

構成:山田進一
音楽:やとみまたはち
音響効果:野田香純
整音:澤田弘基
CG編集:瀧下智也
イラスト:小笠原円
宣伝デザイン:中野香
配給協力・宣伝:リガード
製作・配給:Studio AYA

公式サイト:http://studioaya-movie.com/tomoyame/

画像はすべて©2020 Studio AYA

9/19(土)より劇場公開とネット配信を同時スタート
新宿K’s cinemaほか全国順次

 

【執筆者プロフィール】

川瀬 みちる(かわせ・みちる)
1992年生まれのフリーライター。ADHD/片耳難聴/バイセクシュアル当事者として、社会のマイノリティをテーマに記事や小説を執筆中。
好きな映画は『さらば、わが愛 覇王別姫』『テルマ&ルイーズ』『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』など。
Twitter:@kawasemi910