【Review】独裁者になりたくないあなたへ――デイヴィッド・リンチ『大きな魚をつかまえよう』 text 港岳彦

作家の脳内に閃いた「アイデア」こそが、映画制作におけるαでありΩである。アイデアを「インスピレーション」や「イメージ」と言い換えてもいい。それは一個人の頭の中にしか存在しないものだから、極私的であり、抽象的であり、第三者の目には不可解に映る場合が多い。だが少なくともデイヴィッド・リンチはそこに依拠して映画を作ってきたし、それこそが彼にとっては最良の形態なのだ……ということがよくわかる本である。

彼の場合、核となるイメージが同時多発的に発生し、シナリオの段階で一本の像を結ぶのだという。「『ブルーベルベット』では真赤な唇、緑の芝生、ボビー・ヴィントンの歌う「ブルーベルベット」がその各片だった。次に野原に捨てられた耳」(アイデア)。それ自体は特異性のない断片的なイメージ(「野原に捨てられた耳」はさすがに特異だが)があの奇怪な傑作に昇華され、世界的な支持を集めるのだから、リンチは幸福な映画作家である。それがどんなに変態的・猟奇的なものであっても、世界中が「あなたの頭の中を愛している」と囁いてくれるからだ。

もちろんこうした映画作りを旨とする監督はリンチに限ったことではない。同じように閃きを大事にする映画作家たちは世に掃いて捨てるほど存在する。だが、作家がアイデア=イメージを得た現場に、観客がスカルファック式に顔を突っ込まされる力を持つ監督はそれほど多くない。「アイデア」のスクリーン上の再現を至上命題とするリンチの執念。それは観客の脳内をリンチの直腸で締めつけ侵食するような、強靭な肉体性を備えている。リンチは映画制作におけるアイデアの取り扱いについてこう語っている。

「アイデアとは魚のようなものだ。小さな魚をつかまえるなら、浅瀬にいればいい。でも大きな魚をつかまえるには、深く潜らなければならない」(はじめに)

 

「アイデアこそすべてだ。(略)ほんとうさ。アイデアどおりに見て、感じるがままに感じ、聞こえるがままに聞き、あるべきままであろうと専念すればいい。変だぞ。ずれてしまったなあというのは感覚でわかる。正しくないことをしていれば、なぜか違うって気づくんだ」(アイデアに訊け)

 

「映画とは言語だ。話すことができる。大きくて抽象的な言語をね。(略)映画ではほんとうに沢山のことが言える。時間とシークエンスがあるからだ。セリフがあって、音楽があって、音響効果もある。多くの道具を扱える。だから、他の手段では伝えられない感情と思考を表現できる。映画は魔法のメディアだ。(略)私は抽象性のある物語が好きだ。それこそ映画でしか成し遂げられないものだ」(映画)

 

たとえば『ツイン・ピークス』における「赤い部屋」や、殺人者「ボブ」の完璧なキャスティングも、彼が自らのアイデア=イメージに固執した結果のものだし、『マルホランド・ドライブ』に登場する印象的な顔立ちのカウボーイもやはりその所産だという。他にも彼のフィルモグラフィを彩る「アイデア話」は百花繚乱の態である。こうしたエピソードはリンチファンにとってお馴染のものだが、第三者によるインタビュー形式ではなく、彼自身の平易かつ簡潔な言葉遣いで語られている点が、本書をことのほか親しみやすいものにしている。あくまで彼の言葉を全面的に信じる、という前提に立っての話だが。



「アドバイス」の項において彼は熱心な口調で述べる。


「自己に忠実であり続けるんだ。自身の声を響かせ、ほかの誰かに翻弄されないようにせよ。いいアイデアを拒絶してはならない。でも悪いアイデアには関わるな」

そしてこう続ける。

「そして瞑想するんだ」

 

 ……瞑想?

先に引用した「はじめに」の項へ話を戻そう。「アイデアとは魚のようなものだ。小さな魚をつかまえるなら、浅瀬にいればいい。でも大きな魚をつかまえるには、深く潜らなければならない」というくだりには続きがあるのだ。

 

「万物は一なるものを起源とし、最深部から浮かびあがる。近代物理学ではこの領域を統一場と呼んでいる。意識――目覚めの領域――が広がるにしたがって、より深く根源へと降りたち、より大きな魚をつかまえることができる。

 

私は三十三年もの間、超越瞑想プログラム――TMと呼ばれる瞑想法――を実践してきたが、これはわが映画と絵画、生活のあらゆる領域において中心をなすものだ。私にとってそれは、大きな魚を探すために、より深くダイヴする方法なのだ」

 

アイデアをつかまえるための方法論、すなわちTMなる瞑想法を世に広く知らしめること――それこそが本書の狙いなのである。だから本書は敷居の低い、誰にでも手にとり易い体裁をとっているのであった。

TMとはトランセンデンタル・メディテーション(超越瞑想)の略で、「紀元前から伝わるインドの聖典ヴェーダの知識体系から生まれた瞑想法で、ヒマラヤの導師(グル)のもとで修行したマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(2008年に九十一歳でこの世を去った)によって1958年西洋諸国に広められた」(訳者あとがき)のだという。リンチは長年この瞑想を続けており、2006年、「意識に基づく教育と世界平和のためのデイヴィッド・リンチ財団」を設立、「瞑想普及のための基金を募り、荒廃した学校教育を建てなおす試金石として、TMの教育現場への導入を支援している」(同 訳者あとがき)など、活発な活動を行っているらしい。TMの信者には、ビートルズやリチャード・ギア、クリント・イーストウッドなど、多くの著名な芸能人が存在する。また、ウィキペディアの「マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー」の項によると、日本ではソニー、京セラなどの大企業がこれを「瞑想研修」として導入したらしい(※瞑想研修といえば、90年代は日本企業が様々な「研修制度」を導入した時代で、自己啓発セミナーなどもそうした用途に使われていたと記憶している。すべては95年、オウム真理教が起こした一連の事件で終止符を打たれた)。

とはいえ、本書には瞑想の方法が具体的に書かれているわけではない。静かな部屋に入って瞑想するという記述は出てくるが、それがどのような姿勢でどのような方法を用いて取り組むのかは定かではない。団体の活動とその理念や理想とするところについては若干触れられているが、あくまで読み物としての魅力は、リンチの映画制作秘話にあると言っていいだろう。それにしても……謎めいた映画作家であるところのデイヴィッド・リンチが、「実は瞑想でアイデアを得ていました」とカミングアウトするのは、いわばマジックの種明かしに近く、神秘のヴェールを剥がされた感は否めないのであった。

ただ、いくら瞑想したところで、誰もがリンチのようなアイデアを得られるとは限らない。それを得たからと言って、誰もが制作上の数々の困難を乗り越え、彼のようなすばらしい映画を作ることなどできはしないのだ。瞑想という一個人のインナースペースに依拠した映画制作は、それを具現化する強固な意志と、作家に殉じるスタッフ、キャストが求められるからである。言いかえればここで必須になるのは作家による「自己の絶対化」である。それがすべての推進力となる。いわば独裁国家的映画制作である。それは限られた作家にしか許されない。独裁者になれる作家ということである。ではそうなれない作家たちはどうすればよいか。いや、そう「なりたくない」作家はどうすればよいか、あるいはどうしてきたのか。

ひとまず内面を外部に置き、他者を通して自分を見る、という構造にシフトするしかない。「他者を通して自分を見る」というのも所詮は言葉であり欺瞞を孕むが、そうした作業工程に芽生えるであろう「発見」の感覚は、瞑想の果てに獲得し得る私的なアイデアとは異なる、清新な輝きがあるはずだ。そんな輝きを見たいと欲している観客も数多く存在するはずである。いきなり個人的なまとめになって恐縮だが、自分がドキュメンタリー作品に求めているのは、ひとえにそれである。

イメージ写真撮影 徳原ゆり 若木康輔
撮影協力 加藤輝彦(パフォーマー/ディジュリドゥ奏者)


【書誌情報】 

『大きな魚をつかまえよう リンチ流アート・ライフ∞瞑想レッスン』

デイヴィッド・リンチ 著 草坂虹恵 訳 
四月社刊 2012年 A5変型・224頁(本文挿入写真22葉)
定価:本体1800円+税  ISBN4-87746-112-6 C0074

【執筆者プロフィール】

港岳彦  みなと・たけひこ  
脚本家。『アヒルの子』の小野さやか監督によるドキュメンタリー、『原発アイドル』(フジTV「NONFIX」10/17深夜2:10~)で構成を担当しました。秋から来春にかけて『私の奴隷になりなさい』(亀井亨監督)『百年の時計』(金子修介監督)『ナイトピープル』(門井肇監督)『インターミッション』(樋口尚文監督と共同脚本)が公開予定。