運命論と偶然性
さらに、この偶然性について、アレン作品の別の側面から思考を進めてみたい。
アレンが1998年に発表した『セレブリティ』(1998)には、セレブリティの代表としてドナルド・トランプがカメオ出演していた。彼はのちに大統領としてアメリカに君臨する存在になるわけだが、この事態を予見した書物として2016年から17年にかけて、リチャード・ローティの著作『アメリカ 未完のプロジェクト』がしばしば話題にのぼった。ローティは同書で、経済のグローバル化によって、リベラルなエリート知識人と労働者の格差拡大や見識の食い違いが起こり、その不満を代弁してくれる独裁的な権力を持った存在が現れるだろうと述べた。この書物が刊行されたのは、奇しくも『セレブリティ』の公開と同じ1998年のことだった。
そのローティは代表的な著作『偶然性・アイロニー・連帯』(1989)で、「真実」とはあくまでも言語による創造物であり、物理的な原則が存在するわけではないという主張を展開している。いわく「真実がそこに在る──真実が人間の心から独立して存在する──ということはありえない。なぜなら、文がそのような形で存在し、そこに在るということはありえないからである。世界はそこに在る、しかし世界の記述はそこにはない。世界の記述だけが、真か偽になることができる。世界そのものだけでは──つまり人間存在が記述行為によって補助しなければ──真か偽にはなりえないのである」というわけだ。
こうした主張は、連載の前回でも述べたように、ポスト・トゥルース的な状況を生み出した、いわゆるポストモダニズムの典型的な物言いと批判されることもあるものだ。土壌として見なされ、人間の近くから独立したかたちで「客観的な真実」が存在しており、私たちはそれを重視するべきという主張である。ミチコ・カクタニのような論者からすると、ローティは真実を探求する行為からもっとも遠い存在であるといえる。
そのローティが『偶然性・アイロニー・連帯』で重視したものが「偶然性」である。ローティは偶然性を考えるうえで、こちらも2010年代に真実が軽視される社会への警告として再注目を浴びたジョージ・オーウェルの小説『1984年』(1949)を俎上にあげている。社会が揺れ動くたびに注目を浴び、近年ではポスト・トゥルース的な状況を正しく見抜いたものとして読まれてきた同書において、ローティがとりわけ重要視するのが、真理省党内局に所属する高級官僚のオブライエンである。ローティはオブライエンを「いつの日か生じるかもしれない事柄を例示する」存在であると指摘したうえで、オブライエンが「旺盛な関心をもった、鋭敏な知識人──つまり私たちに非常によく似た人物である」という。
つまり、オブライエンは生まれながらの残酷なサディストなのではなく、たまたま強権的な国家権力と手を結ぶことになっただけであり、彼の設定には「偶然性」の要素を無視できないと述べる。それはつまり、誰しもがたまたま残虐なオブライエンでないというだけにすぎない、という警句ともなるわけだ。そのアイロニーこそが『アメリカ 未完のプロジェクト』におけるトランプ予見へとつながるわけであり、ポストモダニストとしてのローティのアンビバレントな側面を浮かび上がらせることになる。
アレン作品にある偶然性からも、こうした側面を読み取ることは可能だろう。『カメレオンマン』のゼリグはユダヤ教の聖職者ラビにもなれば、ローマ教皇にもなり、ナチ党員ともなりうるのである。その違いは、あくまで偶然でしかない。ゼリグは自己同一性を保証する本質を一切持ち合わせていない。ナチ党員になるのも偶然性によるものであり、言うなれば、その可能性は誰にでも開かれているものである。これはハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」とも通ずる倫理の問題にもなりうるものだ。『マッチポイント』で描かれる物語も、個々人が持つ善良や邪悪といった本性によってもたらされたものではなく、ほかならぬ偶然性の働きかけによって、誰もがクリスのような運命の帰結を潜在的に有することを示している。
アレンのスキャンダルを知った現在、私たちが『マッチポイント』を再見するとき、映画のラストシーンで宣告を宙吊りにされたクリスの憂いの表情に、新たな意味合いを感じざるをえない。それは、このクリスの姿に、自らの「罪」によって作家としてのキャリアをキャンセルされようとしているアレン自身の影が重なるからである。そして、そこには、アレン作品を見つめる私たちの影も重なっていく。アレンの疑惑をめぐる真相は、もはや今となっては見えにくい状況にあり、私たちはスキャンダルの実態はどのようなものかという客観的な真実を追求することへの隔靴掻痒の思いと、作家としてのアレンの作品をいかに受容していくべきかという葛藤の間で揺れ動き続けることになるのだ。
ここまでウディ・アレンという映画作家について、近年に再燃したスキャンダルを皮切りに、作品世界を構成するさまざまな要素への再検討を加えてきた。その最終的な結論は、客観的な事実を徹底して追求する一方で、このスキャンダルをめぐって浮上するさまざまな問題を自らのもののように実践的な倫理として考え続けていくしかないという、折衷的かつ穏健的なものになるだろう。とはいえ、作家論的に見るならば、アレンの作品に内在する要素はプライベートな状況と分かちがたく結びついており、アレンはきわめて興味深いサンプルを提供する存在である。その意味において、まさにウディ・アレンは唯一無二の私小説的な作家たりえているのだと言うことができる。
この連載ではアレンのスキャンダルを「ポスト・トゥルース時代のスキャンダル」として考えてきたが、アレンの作品をいかに受容していくかは、今後も半永続的な課題となるはずだ。本稿で試みたことは、その作品を分析しながら、なぜアレンのスキャンダルがここまで再燃したのかを再考することであり、その複雑さを解きほどくことであった。もちろんアレンをめぐるスキャンダルの真相が白日のもとに晒されるべきではあるとしても、現実的に、その瞬間がおそらく訪れることはない。これからも、アレン作品を見ることが心情的に容易ではないという状況は変わることはないだろう。だが、このことは、アレンのみならず、映画業界において普遍的な課題ともなっているものだ。ロマン・ポランスキー、ベルナルド・ベルトルッチ、リュック・ベッソン、キム・ギドクといった映画作家の名前を挙げるまでもなく、セクシュアリティや権力、ハラスメントといった事柄が解決すべき重大な現実問題となっていることは周知の通りである。
もちろん、私たちは彼らの作品を見ることに、心理的な葛藤を覚えざるをえない。それは当然のことである。だが、何より、その作品を見つめ続けていくことこそが肝要なのだ。そうすることで初めて、私たちは客観的な真実を希求するとともに、現実の問題と作品の内実の複雑な絡まり合いを少しずつ解きほぐしていくことが可能となるのだから。その意味でも、作品と個人の特質とが分かちがたく結びついたウディ・アレンという映画作家の存在は、私たちが難題について考えをめぐらせていくための貴重な試金石となる。私たちはようやく、その試みの端緒にたどり着いたばかりなのだ。
【執筆者プロフィール】
大内 啓輔(おおうち けいすけ)
1990年生まれ。早稲田大学大学院演劇映像学コース修士課程修了。