【文学と記録⑨】太宰治と「隠沼」〜後編:『春の枯葉』〜 text 中里勇太

 おそらく意図したことではないだろうが、「宿命とでもいうべきもの」の一端が、深浦の町で言及されているように思う。次の一文は、深浦の町で太宰がみた光景であり、作中でもっとも詩的な一文であると筆者は考える。
「漁師の家の庭には、大きい立派な潜水服が、さかさに吊されて干されている」

 潜水服が、さかさに吊るされ、潮風にも動じず、しかし微かな潮のにおいをあらたにまとわせながら、水分が抜けきるのを待つ。「何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じがする」と太宰はつづける。この、「何かあきらめた、底落ちつきに落ちついている感じ」において、太宰は「宿命とでもいうべきもの」の一端を示しているのではないかという直感とともに、もうひとつ、作中で松尾芭蕉の句を考察するところをみていきたい。
「ひるすぎ、私は傘さして、雨の庭をひとりで眺めて歩いた」

 金木の実家の庭も家も変わらずに保持している兄の努力を思いながら池のほとりに立つ太宰は、そこで「チャボリと小さい音」を聞く。蛙が飛び込んだのだ。

 太宰ははじめ、「つまらない、あさはかな音である」と考えるがすぐに改め、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という句をはじめて理解する。この句について、太宰は「私の受けた教育が悪かったせいで」、「名物にうまいものなし」と断じ、いやみったらしい句であるとさえ考えていた。教育とは、古池に蛙が飛び込んだ「どぶうん」という音の余韻が長々とつづき、「一鳥啼きて山さらに静かなりとはこの事だ」という教えであった。ここで太宰は、「どぶうん、なんて説明をするから、わからなくなってしまうのだ」といい、つぎのようにつづける。
「余韻も何も無い。ただの、チャボリだ。謂わば世の中のほんの片隅の、実にまずしい音なのだ。貧弱な音なのだ。芭蕉はそれを聞き、わが身につまされるものがあったのだ」

 ここで「芭蕉」を「私」と置きかえれば、どこか「隠沼」の一節と似たような印象を受けないだろうか。あるいはこのとき、「隠沼」の一節とおなじ意味において、太宰が「ぞっとした」としてもふしぎではない。このふたつの一節によせていえば、津軽を歩くなかで、太宰は、「かくれて見えない沼」をみて、「チャボリ」という音を聞いていたのである。では、そこで太宰のなかに訪れたものが、太宰の作品においてどのように表されているのか、その後、一九四六年に書かれた戯曲「春の枯葉」(*1)のなかから探っていきたい。

 戯曲「春の枯葉」は津軽半島の海岸にある僻村を舞台とし、ときは「昭和二十一年、四月」、国民学校の教師である野中とその妻の節子、そして野中家に間借りしている野中の同僚・奥田とその妹の菊代が主な登場人物である。舞台は、誰もいない教室の黒板に野中が書き散らした次の文字が書かれてあるところから幕があく。
「四等国。北海道、本州、四国、九州。四島国。春が来た。滅亡か独立か。光は東北から。東北の保守性。保守と封建。インフレーション。(以下略)」

 学童を引きずって教室に現れた野中は、なぜ荒城の月を歌っていたのか、いまのおまえたちの気持ちにぴったりなのか、と問うなかで、「新しい日本の姿というものをお前たちに教えたつもりだが」、しかし、「僕には何もわかっていないんじゃないか」という不安を訴える。やがて学童が去り、かわって菊代が現れる。そこで野中と菊代が津軽の春はいっときにやってくるという会話を交わすなか、タイトルにもある「枯葉」が現れる。
「青草? しかし、雪の下から現われたのは青草だけじゃないんだ。ごらん、もう、一面の落葉だ。去年の秋に散って落ちた枯葉が、そのまんま、また雪の下から現われて来た。意味ないね、この落葉は。(ひくく笑う)永い冬の間、昼も夜も、雪の下積になって我慢して、いったい何を待っていたのだろう。ぞっとするね」

 冬の間は雪の下に隠れて見えなかった枯葉が、春になって現れる。ここで野中をぞっとさせたのは、雪が消えてすがたを現した枯葉はそれでもそのまま腐り行くだけであり、冬の間を辛抱したところでどうにもなりはしないという恐ろしさである。つまり、「春の枯葉」とは「無意味」であると野中はいう。そのあとで「僕たちだって、こんなナンセンスの春の枯葉かも知れないさ」とあるように、「永い冬」とは「戦争」(またはその前時代も含む)と捉えるべきか。野中はまた、自分たちも十年以上辛抱してきたが、これからはただ腐っていくだけで、もう意味のない身の上になってしまったのではないか、とかさねていう。「新しい日本」を教え、「気持を明るく持つように」と子どもたちに促してはいるが、野中には信じるものがない、あるいは見失っているようにみえる。野中の言を、「案外、センチメンタルね」と払いのけた菊代が金の入った封筒を差し出す。それに対して野中は、東京から疎開してきた若いひとからすれば貧乏な生活にみえるかもしれないが、自分たちの家庭には自分たちのプライドがあり、かえっていまの部屋代も高すぎると思うくらい菊代たちに同情していると語る。しかし菊代からすれば、野中のいうことは真逆である。菊代の言をまとめれば次のようになる。野中たちは家も土地も衣類もたくさん持っているゆえに貧乏ではなく、それでもほんとうはお金を欲しがっている。東京の生活は戦前から楽ではなく、戦時は生きているのか死んでいるのかもわからないその日暮らしのなかでしまいに焼け出されてなにもなくなってしまった。いま着ている派手な着物もそれしかないからしかたなく着ているのであり、東京ではお金が無いならないなりにどうにか切り抜けられたが、田舎ではそうはいかない。田舎では人間の価値を現金があるかないかで決めるので、菊代は自分の貧乏を口にするのもできやしない。

 こうして菊代が語り聞かせるところを、太宰は同じく一九四六年に発表した連作「津軽通信」内の一篇「やんぬる哉」(*2)において、津軽へ疎開してきた「私」の中学時代の友人に、「疎開人としての言いぶん」としてその見聞を語らせている。友人は、隣家に疎開してきた東京の女性と自分の妻の論戦を陰から見ていたことがあると述べ、東京の女性がいわば「疎開人としての言いぶん」として、純朴といわれる田舎のお百姓さんほど恐ろしく、薄情で、意地悪なものはないというのに対し、妻は、それはあなた方に創意工夫がないからであり、東京が焼かれるのはわかっていたのだから、そのまえに田舎に根をおろした生活をしていれば困らなかったはずだ云々と答えたという話をする。この「疎開人の言いぶん」という穿った言い方をする友人に対して、「私」はあきらかに良い印象を抱いてはいないが、「春の枯葉」では、疎開してきたものに同情するという野中のまえで、東京から疎開してきた女性(=菊代)がおなじ話をしている。ただし、「やんぬる哉」の女性が最後に、わたしたちは田舎のひとたちになにか悪いことでもしたのでしょうか、というのに対して、菊代はその矛先を野中の妻・節子に向けている。菊代からすれば、節子はひどく取り澄ましていつでも一段高いところにいるように振舞っており、また、だれよりもお金をほしがっているようにみえている。

「春の枯葉」では、つぎに菊代の兄である奥田が登場する。野中家の奥の六畳間の縁側で、奥田と野中の義母であるしづが語らうなか、もともとは津軽地方のこの村にいた奥田一家が母の死を境に青森へ出て、奥田はそこで師範学校へ入り、父と菊代はその後東京へ出たことや、野中が野中家の養子であることが語られる。さらにしづは、野中の酒癖の悪さをあげつらね、養子を迎えた家のものの苦労を語るが、奥田にはそれが過去への固執や家同士の張り合いのようにしか思えない。
「野中のお宅のご主人は、いまは、あの野中先生なんでしょう? 過ぎ去った事よりも、現在が大事じゃありませんか。(中略)あんな大きなお父さんのお写真と、それからお兄さんのお写真を、これ見よがしに掲げたりなんかして置いては、野中先生もあれで気の弱いお方ですから、何だか落ちつかない気持になるんじゃないでしょうか」

 奥田は「春の枯葉」において、過去ではなく現在を、空想ではなく現実をみる存在として描かれるが、その奥田が野中との議論を回想する場面がある。そこで野中は、この世の中ではたくさんの裏切りが行われており、自分に対する裏切りをぜんぶ知ったならば、その人間は発狂するというのに対し、奥田は、人間は現実よりも空想に悩まされているものであり、「現実は案外たやすく処理できる小さい問題に過ぎない」と述べている。しかし奥田のいう「現実」とは、自ら「エゴイスト」と名指しているように、自分を中心に据えた「現実」であり、処理できる問題であるからこそ「現実」となると捉えている節がある。

 いっぽうで野中はといえば、村の漁師から買ってきた無色透明なウイスキーの一升瓶と平目を両手にぶらさげて持ち帰り、奥田を飲みに誘う。そこで漁師について語るなか、感嘆の声をあげる。
「まったく、あいつらのところには、何でもあるなあ」

 無色透明なウイスキーというのは、薬用アルコールに水を割っただけのものであり、それを高級品だという闇屋にだまされて漁師が仕入れてきたものだ。近所の仲間たちとそのウイスキーで酒盛りをしているところへ顔を出した野中に、「われらの口には少しもったいなすぎる酒だ。ぜひとも先生に一ぱい飲んでいただきたい」と漁師が茶碗をさしだす。野中はいちど躊躇するが、「しかし、僕は、あの漁師たちの、一点疑うところ無き実に誇らしげな表情を見て、たまらなくなり、死を決した」といい、「この愚かで無邪気な、そうして哀しい漁師たちと一緒に死のうと覚悟」して飲む。いがいにわるくない。そこで一升をわけてもらい、煙草もわけてもらって帰ってきたわけである。

 野中は漁師たちの疑いのない誇らしげな表情をみて、「哀しい漁師たち」というが、自らもまたその酒盛りのあいだ、「他の酒はまずくて飲まれん」などとお世辞をいいながら、「妙に悲しかった」という。そこにはお世辞をいうことでしかその輪のなかに身の置きどころがない、野中の悲しみがにじみあふれており、「まったく、あいつらのところには、何でもあるなあ」という感嘆もいくらかの妬みがまざった素直なものである。この漁師が仕入れてきた無色透明なウイスキーもまた「現実」であるように思えるが、奥田はそれを飲もうとはせず、野中がうたう流行歌にも興味を示さない。

 やがて妻の節子が調理をした平目を運んでくるが、節子も義母も食べていないことを知り、野中は平目ののった食卓をひっくりかえし、一口もたべてくれないとはひどいじゃないかと泣き声になる。節子は無言で平目を拾い集めるが、それを見て野中はまた、「拾い集めてもらって、また食べるなんて、あまり惨めだ。惨めすぎる。少しは、こっちの気持も察してくれよ」と訴える。ここには拒絶を受けたと考えるもののやり場のない怒りが含まれており、「こっちの気持も察してくれ」ということばからは養子という境遇も作用していることが窺える。しかし、すこしさきの場面において、砂浜で野中と節子が言い争うなか、「僕は、負けたよ」と野中が訴えるとき、「春の枯葉」の別の側面がすがたを現してくる。
「いったい、なんだい? お前たちのその強さの本質は、さ。封建、といったってはじまらねえ。保守、といってみたってばかげている。どだいそんな、歴史的なものじゃあ無えような気がする」

 野中がここでいう「お前たち」とはだれなのか。野中はまず「お前は、強いなあ」と節子に向かって呼びかけ、すぐあとに「お前たち」のつよさはなにから来ているのかと問う。養子という境遇を考えれば、節子と義母のしづと考えるべきだろうが、さきにもうひとりの登場人物である菊代の行動を振り返りたい。菊代はさきに述べた教室の場面のあとは間接的に語られるだけであるが、じつは子どもたちに荒城の月を教えたのは菊代であり、子どもたちと音楽会をひらいてお金を稼いだりしていたが、ばくちで警察に挙げられたという嘘を用いて節子を欺こうとする。それを見抜いた節子はつぎのように語る。
「菊代さんは、野中をけしかけて酒や肴を買わせて、そうしてわたくしや母にまでごちそうさせて、それから、そのお金は実は菊代さんがばくちでもうけたお金だという事を知らせて、いい気持でごちそうになっている母やわたくしがみっともなく狼狽するさまを、かげでごらんになってあざ笑うつもりだったのでしょうけれど、でも、それにしても、策略があくどすぎます。あんまり、意地がわるすぎます」

 ここで「お前たち」とはだれかという話に戻れば、先に引用した箇所のあと、野中はこう語っている。
「負けたんだよ、僕たちは。僕と菊代さんは、お前たちに叛逆をたくらんだが、お前たちは意外に強くて、僕たちは惨敗を喫したんだ。押せども、引けども、お前たちは、びくともしねえ」

 節子のことばとあわせて考えれば、やはり野中のいう「お前たち」とは、節子と義母のしづということになる。しかしながら、菊代の策を見抜いた節子がまず、「わたくしどもは、菊代さんに何か悪い事でもしたでしょうか」ということに着目したい。さきに挙げた短篇「やんぬる哉」においては、東京から疎開してきた女性が、わたしたちは田舎のひとたちになにか悪いことをしたでしょうか、どうしてわたしたちにこんなに意地悪をするのかといっている。もちろん同一作品ではないいじょう、視点が反転しているとはいえないが、これを手がかりにみていきたい。まずは野中である。「負けたんだよ、僕たちは。僕と菊代さんは、お前たちに叛逆をたくらんだ」と野中がいうとき、「僕たち」として菊代と自分を対にしているが、菊代からお金の入った封筒を手渡される以前に、それこそ「押せども、引けども」というほど、菊代とともになにかをたくらんだかは定かではない。じっさいは節子のほうが菊代の策を正確に見抜いているように思う。しかし節子にもまた「菊代さんを、あなたは、どうなさるおつもりです」といった野中と菊代の仲を疑うような発言があるが、同情するという野中に反論した際の菊代の「あなたたち」のなかには野中も含まれており、また、「あんまり、意地がわるすぎます」というのも節子の声であり、菊代に対しては、何か悪いことをしただろうかという疑念を抱くだけである。つまり、この戯曲の登場人物たちはそれぞれの立場や視点からものを述べているのであり、その会話には絶えず軋みが生じている。あるいはその軋みによって、敗戦直後のどうにもならない現実を描いているのだろうか。考えてみれば、野中はニヒリズムを根底にしていると思わせながらも、「僕たち」「お前たち」と安易に括ることで自らの世界に連帯や対立を生み出していく。節子もまた、「家の名誉を大事に守る」という保守性と閉鎖的な共同体のなかで自らに課した信念という、ある意味でのつよさを持ちながらも、「都会」と「田舎」の対比を安易に口にすることで、自らの正当性を訴える語り口となり、奥田もまた、しづや節子に対して現実の問題を冷静に諭しているようにみえて、自らが対処できないことがらは現実の外に追いやり、かかわろうとしない。かれらの発言はたがいの鏡となり、たがいの矛盾を露わにするいっぽうで、作者である太宰はいずれの立場にも肩入れはしない。そうして発言と矛盾が相互に提示されていくのに加えて、家の体面にこだわるしづや、田舎を憎みながらもしたたかに生きる菊代、それから漁師たち、それらが混在したまま提示されるのが「春の枯葉」である。
「いったい、なんだい? お前たちのその強さの本質は、さ。封建、といったってはじまらねえ。保守、といってみたってばかげている。どだいそんな、歴史的なものじゃあ無えような気がする」

 ここでいう「お前たち」とは、この群像劇に登場するすべての人物に太宰が投げかけた声であるといえば言い過ぎだろうか。かさねていえば、ここでいう「強さ」を太宰が手放しで肯定しているとは思えない。その点も含めて、「春の枯葉」は「宿命とでもいうべきもの」と太宰が対峙した作品のひとつといえるのではないだろうか。

(*1)太宰治「春の枯葉」(『グッド・バイ』、新潮文庫、一九七二年)
(*2)太宰治「やんぬる哉」(『津軽通信』、新潮文庫、一九八二年)

【書誌情報】

「春の枯葉」(『グッド・バイ』所収)
太宰治著
新潮社 2008年9月発行 605円 A6判 400p
ISBN 978-4-10-100608-6

【執筆者プロフィール】

中里 勇太(なかさと・ゆうた)
文芸評論、編著に『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(金子遊共編、響文社)。