【Review】『ベニスに死す』を向こうに見つめて――『世界で一番美しい少年』 text 吉田晴妃

稀代の美少年

2012年ごろのことだったと思う。絵を描く友人が、ものすごい美少年の画像をネットで見つけたのだと見せてくれた。ビョルン・アンドレセンといって、『ベニスに死す』という古い映画で主人公のおじさんにただただ追い回される美少年を演じていた時の姿だという。こんなに美しい人がいるなんてびっくりした、彼は真の美少年だと友人は言っていた。ルキノ・ヴィスコンティの名前も知らなかった頃の思い出だが、ブロンドに彫りの深い顔立ち、クラシックな雰囲気のセーラー服を着たその少年の姿は私にとってもやはり印象に残っている。後に『ベニスに死す』を観てからも、その姿は俗世と切り離された手の届かない美を体現するに完璧な存在のように思えた。
あまりにたわい無い個人的な思い出から書き出してみたのは、映画に描かれた一人の人間の容貌を観客の個々人がどのように受けとめるのかが、実はたわい無いのではなく大事なことだったのではないかと『世界で一番美しい少年』を観て感じたからだ。(とはいえ、実はそれだけでなく、本編中で池田理代子が「ビョルンの姿は絵を描く人みんなに強烈なインスピレーションを与えた」と語っているのに手を打って納得してしまったからでもある。)
『ベニスに死す』のタジオ少年を演じたビョルン・アンドレセンについて、手元にある書籍『ヴィスコンティ集成』(フィルムアート社、1981年刊行)を開いてみる。寄稿者の一人である渡辺祥子は、取材でのアンドレセンとタジオ少年とを比較して「映像の中に、あたかもギリシャ彫刻とルネッサンス絵画の最も美しい部分のみを結合させたような美しさを放った少年が現実にたち戻ったとき、そこにあるのは、少しばかりのういういしさと、平凡で健康な美しさでしかなかった。(中略)しかし、そのことで彼を責めるのは酷というものだろう。美というのは移ろいやすいものだし、とりわけ少年の美しさの命ははかないものなのだから」と書いている。平凡で快活なスウェーデンの美しい高校生を、完璧なタジオ少年へと仕立てあげたヴィスコンティの魔術を感じた、とも。裏を返せば、その文章は映画の中のタジオ少年の美は脆く儚いものであるからこその魅力があることを語っている。

一世を風靡したかつての美少年が、その姿と役柄において『ミッドサマー』で再び注目される現在に至るまでに何があったのか。それを私はこの映画ではなくネットのある記事で知った。その美貌とタジオ役で突然得た名声によって彼を見る周囲の目がどのように変わり、どのように彼の人生が狂わされていったのかを、どちらかというとセンセーショナルに喧伝するその記事は少し話題になっているようだった。とどのつまり、ストイックな美意識を持つ巨匠として今でも高く評価されているヴィスコンティや、あるいは得られる金のことしか考えていなかった自らの祖母といった大人たちによって、何も知らない立場の弱い少年が搾取され、彼の人生の歯車の狂ったきっかけこそが『ベニスに死す』との出会いだった、ということだった。

カメラの背後にあるものを語る映像

#Me Tooを例に挙げるまでもなく、ある分野での功績において尊敬されていた人物が、立場の弱い存在への暴力によってその評価が覆されることは往々にして起こっている。しかし『世界で一番美しい少年』に限って言えば、ヴィスコンティとの出会いやその後の道のり、あるいはその出生にいたるまで、ビョルン・アンドレセンの人生を遡ることで、『ベニスに死す』という作品やヴィスコンティ、あるいは強烈な美に群がり熱狂する人々を糾弾することを命題とするよりは、たぐいまれな美貌によって数奇な運命を辿ることとなった一人の人物の生涯を追っているようである。

しかし、本編中にはヴィスコンティがアンドレセンに対して酷い行いをしたことが垣間見られる映像も収められている。カンヌでの取材に於いて、16歳のアンドレセンを「今は全然美しくない。オーディションで出会った時が完璧だった」などと冗談混じりながらもはっきりと侮辱し、オーディションで初めて出会ったアンドレセンに対し、上半身を脱げと命令する。初対面の大人に囲まれ明らかに戸惑っている少年は、しかし拒否することはなかったのか最後には下着だけを身につけた姿でカメラの前に全身をさらしている。それを全く無遠慮に写すその映像は、記録に残した人間が何の罪の意識も持っていなかったことをはっきりと物語っている。
「(お披露目されたカンヌでの喧騒は)自分の周りに大量のコウモリが飛びまわりながら騒いでいるようでものすごく恐怖を感じた」、「身を守る術も無いままに突然巨大な竜巻の中に放り込まれたようだった」とアンドレセンや周囲の人々が『ベニスに死す』に端を発する当時の熱狂を振り返る言葉は、かなり的確に彼の混乱を表している。撮影中にヴィスコンティからアンドレセンに出された演技指導はおおよそ3つだったという。「歩け」、「立ち止まれ」、「ふり返れ」。演技指導というより動作の命令のような印象を受けるが、このことは同時に、アンドレセンがなぜ『ベニスに死す』で得た賞賛を身に余るもの、突然巻き込まれた混乱のように感じたのかということの理由の一つを示しているだろう。自らが何かを成し遂げたというよりも、その容姿がために突然祭り上げられているようにしか思えなかったのではないか。しかし、では、映像に写す人物を美しく演出することは罪なのだろうか?
『世界で一番美しい少年』では過去のアーカイブからのフッテージ映像が多く用いられている。『ベニスに死す』やそのオーディション、来日時の記録やCMなどの「ビョルン・アンドレセン」として人々に広く知られる姿を収めた映像の一方で、アンドレセン自身や家族についてのプライベートなホームムービーも多く引用されている。まるで少女漫画から抜け出たような衣装をまとった甘い雰囲気の少年と、ニコニコと笑っているあどけない少年。『ヴィスコンティ集成』で語られていたように、同じ人物を見ているのにそこから受ける印象は全く異なっている。
そして制作陣が取材したのだろう、現在のアンドレセンを捉えた映像もある。自宅のアパート、桜の咲いた東京への旅、あるいは寂れたホテル・デ・バンへの旅……。それらの背景も相まって捉えられたアンドレセンの姿はかなりフォトジェニックだ。現在の彼の姿を前に、作り手たちが彼をどのように映像に撮り、その人生を語りたいのかという構想を抱いていたのかが伝わってくる。かつてのタジオ少年が老いて醜くなったとは思わず、現在の姿に独自の魅力を感じていたのではないか。映画が主として語る内容からは外れているのだろうが、映像はその被写体のみならず、カメラの背後にある意識まで語りうるのだということを『世界で一番美しい少年』は静かに示している。

『ベニスに死す』とヴィスコンティの功罪

老いた現在のアンドレセンの姿と、死にゆく作曲家アッシェンバッハが見た輝かしいタジオ少年の姿を重ね合わせるようにして映画は終わる。ベニスの浜辺を歩くアンドレセンが、母親の最後に残した詩を自らの言葉として語り直すモノローグは、これまで追ってきた彼の生涯が集大成として結実したようにドラマチックだが、いっそストックホルムのアパートでただぼんやりしている姿でも良いから、できることなら『ベニスに死す』やタジオ少年への言及もないままに、ただの一人の老人の人生の物語としてこのまま映画を終わらせてほしいと思ってしまった。映画の後半にかけて言及される、彼の母親や出生、彼自身の娘や息子について、あるいは年若い恋人との現在については、タジオ少年のことは抜きに、ビョルン・アンドレセンという人がどのような人物なのかを再び捉えなおさせるようで、本作がただ美貌をきっかけに起こった悲劇をセンセーショナルに伝えるような映画ではないことを示している。ただ、アンドレセンにとっては『ベニスに死す』はあまりにも大きすぎる出来事で、彼の人生を語るには切ってもきれないものではあったのだろうことは本編からも察せられる。
あえてヴィスコンティと結びつけてこの映画を語るなれば、若く立場の弱いアンドレセンをヴィスコンティが我が物のように扱っていたということは、筆者個人の考えでは正直なところあまり意外ではなかった。『若者のすべて』のアラン・ドロンでも、『ルートヴィヒ 神々の黄昏』のヘルムート・バーガーでも、ヴィスコンティの映画の要となる美しい男性は、のびのびとしたその人らしさを感じさせられることは少なく、例えるならひとつの決定的な美術品のように、物語や映画の背後にあるだろうヴィスコンティの美意識に完全に支配されていると感じるところがあった。ただ、あまりに完璧に仕立てあげられた世界に、映画が一番力を持っていた過去の時代の一つの結晶を見るような気持ちで、驚くと同時に魅せられていたことも確かだ。
「人生においてあまりに多くを失い過ぎると、驚くべきことにあまり悲しみを感じなくなる」と語るアンドレセンの姿には悲哀を感じさせられる。その源に『ベニスに死す』があるのだとしたら、やはり映画やヴィスコンティについての認識は否定的なものへと傾くように揺らいでいく。いくつかの例を挙げるまでもなく、今までは高く評価されてきた作品とそれを作った人物の行いについての「作品と作者は別」なのか否かという議論は、#Me Too以降の現在においてとりわけ多く目にすることとなっている。
しかし同時にそのような変化を見ながら脳裏に浮かぶのは、ヴィスコンティの映画として触れた『山猫』での、「変わらず残るために、全ての物事には変化が必要」という言葉でもある。無論19世紀のシチリア貴族と、自らの生きる現代を重ねているわけではない。しかし、例えば2018年の映画『冬時間のパリ』で電子書籍に揺れる出版業界を表すにその言葉が用いられたように、ずっと昔に作られた、自分とは全く繋がりがないと思うような世界に生きる人の物語であっても、(何を変えないためにどのように変わっていくべきなのかという問題はあるにせよ)多くの価値観が変わってゆく、自分が生きる世界を考えることにも通じる何かを与えられることはあるのだと感じてしまう。だからこそ、筆者個人の中では、アンドレセンへの仕打ちを知ったからとてすぐにヴィスコンティの作品をもう観ることはないと否定することはできていない。

ただ一つはっきりしているのは、「世界で一番美しい少年」だったビョルン・アンドレセンも、もちろん今では年老いていながらも、その姿からはかつての完璧な美が枯れてしまったという悲しみや、『ベニスに死す』でアッシェンバッハが抱いていた醜い老いへの恐怖というものは感じられなかったということだ。
その点において『世界で一番美しい少年』は『ベニスに死す』と対を成している。
映画は芸術であり、『ベニスに死す』はその意味において高尚な、美意識を結晶にした稀有な作品なのかもしれない。ただ、それがどんなに完璧なものであっても、映画は同時に「夢」であることを忘れてはならない。その夢が何か助けになることもあれば、全く違うものをもたらしてしまうこともあるのだ。『世界で一番美しい少年』を鑑賞し、自分の中で幾度かの問いかけを経ても、そのように考えることしか今はできない。

【映画情報】

『世界で一番美しい少年』
(スウェーデン/2021年/英語・スウェーデン語・仏語・日本語・伊語/シネスコ/5.1chデジタル/98分)

監督:クリスティーナ・リンドストロム & クリスティアン・ペトリ
出演:ビョルン・アンドレセン 『ベニスに死す』(71) 『ミッドサマー』(20)

公式サイト:https://gaga.ne.jp/most-beautiful-boy/

画像はすべて © Mantaray Film AB, Sveriges Television AB, ZDF/ARTE, Jonas Gardell Produktion, 2021

全国順次公開中

【執筆者プロフィール】

吉田 晴妃(よしだ・はるひ)
愛媛生まれ東京育ち。会社員として暮らしつつ、ときおりWebサイト「IndieTokyo」などに映画のレビュー等を投稿しています。