【Interview】既成の枠を越えてジョナス・メカス×吉増剛造に迫る――『眩暈 VERTIGO』 井上春生監督インタビュー

前衛映画界を牽引したジョナス・メカスが亡くなって1年後、2020年1月のニューヨーク。メカスと長年にわたり深く親交をかさねた詩人吉増剛造がマンハッタン、ブルックリンをおとずれ、メカスゆかりの地を巡る旅をとおし、ジョナス・メカスと吉増剛造の交流の軌跡とその現在をとらえた井上春生監督『眩暈 VERTIGO』が2022年12月13日より、いよいよ日本で公開される。これまでもneoneoでは、「ドキュメンタリー叢書」の第1弾として刊行した『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』(2020年)において、吉増剛造氏と井上監督の対談「ジョナス・メカス、魂の波動、根源の歌」を収録し、その後も井上監督のコラム「現代日本最高の詩人吉増剛造がNYへ 米国前衛映画界の父・詩人の故ジョナス・メカスを悼む 映画『眩暈 VERTIGO』について」をneoneowebに掲載するなど、本作の現在地を折々においかけてきた。
現在、すでに国際映画祭では「40冠/34賞/17ファイナリスト」(2022年12月10日時点「公式ホームページ」より)をかぞえ、東京都写真美術館ホールでの公開以降も、各地での公開が予定されている『眩暈 VERTIGO』。本記事では、書籍『ジョナス・メカス論集 映像詩人の全貌』から井上春生監督の発言を引用しながら、日本での公開をむかえる今だからこそ発せられる、井上監督の最新の声を紹介する。
(取材・文=菊井崇史)

ジョナス・メカスとの出会い

「わたしもまずはメカスさんとの出会いからお話しいたします。映画『幻を見るひと』が完成して、吉増剛造さんと一緒に映画をつくりましたというご報告とともにDVDを事前にメカスさんにお送りしていました。その後『幻を見るひと』(国際映画祭十冠)がニューヨークの映画祭でキャスティングされて上映が決まり、二〇一八年にニューヨークに行ったのですが、滞在中、メカスさんがシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で講演会をするという情報を見つけてうかがったんです。新しい本の出版記念の講演会でしたが、ホールに一〇〇人くらい集まっていて、最後にメカスさんが本にサインしていたんですね。わたしも列に並んで、はじめて挨拶をしました。吉増さんの名前が懐かしかったのか「おお剛造!」って非常にウェルカムな状態でメカスさんは話してくれました。『幻を見るひと』にたいしても「ビューティフル」だと言っていただいた。(……)まだ人が並んでいたので、「明日、ブルックリンの事務所に会いに行っていいですか」とおうかがいすると「ウェルカム」とかえしてくれました。けれど翌日、約束の時間、ベルを鳴らしても出てきてくれない。在宅している様子はあったので、小雨が降る中、二時間ぐらいずっと待っていたら、二階の窓が開いた。上がって来いと手招きをされて、三〇分ならいいよということだったのですが、結局二時間ぐらいお話をさせてもらいました。メカスさんのお部屋を見ていると、冷蔵庫に予定表のメモが貼ってあるんです。その日の予定がこまかに書かれてありました。(……)メカスさんはものすごい闘士でもありますよね。「たとえ逮捕されてでも映画文化を守る」というようなこともあったり(……)視線は頭の後ろまで貫かれているみたいな静かな凄みを感じました」

「わたしが学生時代に最初に見たメカスの映画は『リトアニアへの旅の追憶』でした。エグザイル=亡命者を象徴しているジョナス・メカスの作品です。大学卒業後、東映京都撮影所にいたので、メカスの作品を念頭に、映画人としての自分の立ち位置を自身に問いつづけてきたようなところがあります。ジョナス・メカスの大きさは、今後『眩暈 VERTIGO』を編集していくなかで、あらためて見えてくることが多いのではないかとも感じています。一回二回お会いして理解したというには、メカスさんはあまりに巨大なので、撮影した映像とむきあって編集するなかで見えてくるものがあればいいなと思っています」(「ジョナス・メカス、魂の波動、根源の歌」より)

2020年の段階で「メカスさんはあまりに巨大なので、撮影した映像とむきあって編集するなかで見えてくるものがあればいいなと思っています」と述べた井上監督に、その編集を経て映画が公開される現在、あらためて「見えてきたもの」を尋ねると、それは「ジョナス・メカスの独特なまなざし」であり、そしてそのまなざしのありかたが映画の編集に呼応していると告げられた。

「作中、吉増さんがメカスさんの「フローズンフレーム」について語っているシーンがあります。映像フィルムを3コマずつとめて写真にした「フローズンフレーム」、そして僅かに違う3つの静止画を見つめる瞬間に「違いを見る目が動く」とメカスさんは吉増さんに話したことがあるようなんです。それを聞いてわたしも感銘を受けました。微細な瞬間の隙間へのまなざしをとらえること。そうして生まれたフラグメンタルな瞬間が新たな瞬間を生み出すんですね。

サウンドでも同じことが起こりうると思っているんです。この映画では、作中、吉増さんやメカスさん、メカスさんのご子息のセバスチャン・メカスの声だけでなく、インタビューや朗読をとおして、さまざまなかたの声が響いています。その声をどのように映画に編集してゆくのか。メカスさんがニューヨークに移民した頃に書いた日記を朗読するシーンがまさにそうなのですが、幾つかのテキストを多くの方々に読んでいただき、その声を5.1サラウンドのなかにかさね、ずらしながら構築していきました。そのときサウンドとしての「フローズンフレーム」を念頭にいれていました。そしてそのように編集をすることは、みなさんの声の一つ一つで詩の彫刻をかたちづくることでした。それがメカスさんのまなざしにつうじるのだと感じていたからです。フラグメンタルなものへのまなざしは、ジョナス・メカスにとってとても大事なもので、それは視覚だけでなく、声もそうだと思うんですね。

そのような声のすがたについては、編集する以前、撮影の段階から考えていることでもありました。朗読の声の出し方、テキストの読み方は、プロが読んだものであるとか、ただうまく読まれたものをもとめてはいませんでした。そういったことが重要ではなく、それぞれのかたがテキストを読み、自分自身の気持ちやおもいをこめて声にすること、そのときの言葉の響きが大事だと感じていたからです。その断片が集合したときに新たなエネルギーが、あるいは新たな声の響きが生じるようにと意図していました。それはメカスさんの本質だとおもっていますし、メカスさんの深い方法でもあると思う。だから朗読パートの録音を希望された皆さんにお願いするときには、ご自身がNGだとおもっても音声を消さないでほしい、そのテイクも残しておいてほしいとお願いしました。声の響きにOKもNGもないのです。フラグメンタルで、ときにフラジャイルな、生の声の響きや呼吸が集合するときに発するものをもとめていました。それが5.1サラウンドでどのように映画に響いているのか、ぜひ体感していただきたいです。

吉増さんの詩を幾人もの人に朗読してもらったシーンもそうでした。ニューヨークで道を歩いている人に声をかけてメカスの「難民日記」の一節を読んでもらったり、メカスさんの回顧展がひらかれていたフィルム・アーカイブスでメカスのファンに話をきいたときも、やはりその思いは一貫していました。アメリカは移民の国です。言葉を、声を出してくださるかたがたには、その一人一人の発声や声の呼吸があって、同じ街に生きているといってもそれぞれの背景は違っていて、それぞれの声の響きのやわらかな違いが伝えてくるものがあるんですね。これがメカスが聴いていた人々の声、その声の響きなのだろうと思っていました。

メカスさん自身は晩年「spontaneous」という言葉をよく使っていたと聞きます。自然発生的な、という意味です。日常の中に不意に生まれ出てくるフラジャイルな、壊れやすく脆いものをひろいあげる隙間のような空間に、この映画『眩暈 VERTIGO』は存在します。吉増剛造さんが「日記性の秘密」と作中でおっしゃっていますが、幸福な瞬間は日常に断片として転がっています。劇的でない微細なものへ向けるまなざし、それがジョナス・メカスなのかもしれません。」

越境してゆく映画

「ジョナス・メカスのHPには、「日記映画」が並んでいるんです。(……)多くの作家は、ボレックスの16ミリでクリエイターとしてデビューしたら、それを踏襲していく。けれどメカスは、フィルムからビデオの時代になったらそこで簡単に乗り換えてしまう。あの人にはそういう身軽さがありました。「日記映画」もフィルムかデジタルかではとらえられないところでなされたものだと思うんですね。メカスさんの引っ越し間際の事務所にはいっていったときに、棚に外付けのハードディスクがたくさん並んでいたんです。彼はハードディスクに直接に、素材の名前をマジックで書いていました。つまりデジタルのプライオリティである入れ替え、上書きはしない、一度撮って保管したらおしまい。こういうディテールを見ると何となく分かるんです。アナログ、デジタルの垣根を取っ払って突っ走っている」

「わたし自身、いろんな映像の仕事をしてきて、フィルムで撮るときとビデオで撮るときの違いは痛切に感じています。今回、『眩暈 VERTIGO』の撮影で、8ミリフィルムでもニューヨークを撮ってきたんです。確かに4Kと比べれば圧倒的に解像度もよくない。でもフィルムの持っている強みを感じる。ノスタルジックな感覚はリアルな手触りになることがある。自分たちが被写体と呼ぶものは、同時にこちら側の気持ちがうつしこまれてゆくものです。そういう意味でも『眩暈 VERTIGO』では、それをどのように拾い上げて、物語をつくるのかということが重要だろうという気がしています。吉増さんがおっしゃられたように、ドキュメンタリー映画という括りさえ『眩暈 VERTIGO』は突破したいと思っているんです。ドキュメンタリー、そしてフィクション。本当はそんな枠組みはない。(……)それはこの映画が、吉増剛造とジョナス・メカスを巡る映画だということも大きいと思います。メカスさんも吉増さんも、そのような枠ではないところで表現をなされている」(「ジョナス・メカス、魂の波動、根源の歌」より)

井上春生監督は、『眩暈 VERTIGO』を「日本語と英語のハイブリッドな映画」にし、国籍を取り払いたかったと述べる。まさに既成の「枠」を越えるために。「ドキュメンタリー映画という括りさえ『眩暈 VERTIGO』は突破したいと思っているんです。ドキュメンタリー、そしてフィクション。本当はそんな枠組みはない」と告げられた映画は2022年現在、すでに国境を越えて受けとめられている。

「先日、イランの国際映画祭から上映のため、ペルシャ語に翻訳したいから映画の日本語、英語の字幕テキストを送ってほしいという連絡をもらったばかりでした。メキシコの前衛映画祭からも同じような問い合わせをいただいたんですが、先方にあまり時間がなかったようで、スペイン語に翻訳するために数人の翻訳家と詩人がはいって一気に字幕をつくったらしく、その勢いにすごくパワーを感じました。速度感がすごかったんです。各国の映画祭で賞を頂いてわかったのは、インドや中南米も映画の新しい発信地になっていて、新たな映画のエネルギーを生み出すかたがたにも『眩暈 VERTIGO』が届いているということでしょうか。各国のキュレーターやクリエイターのなかに、メカスさんのファンがいて『眩暈 VERTIGO』に共感してくれている。新たに知った人たちもいる。そのように、映画は越境していくことができる。メカスさんや吉増さんがそうであるように「枠」を越えてゆくことができるんです」

ジョナス・メカスの生誕100年にあたる2022年、いよいよ『眩暈 VERTIGO』の日本での公開がはじまる。映画『眩暈 VERTIGO』は、ジョナス・メカス×吉増剛造が未踏の領域に描き出す軌跡を現在へ、さらにその先へと向けてうつしだすのだ。

【映画情報】

『眩暈 VERTIGO』
(日本・アメリカ/カラー/DCP/117分)

エグゼクティブプロデューサー・監督:井上春生
製作:HUGMACHINE
出演:吉増剛造、セバスチャン・メカス  ジョナス・メカス
プロデューサー:山本礼二

東京ニューヨークユニット
撮影監督:鈴木雅也 録音:森英司 カメラアシスタント:濱口一瑛
京都ユニット
撮影:安田浩一 録音:中村太郎

翻訳:岡本小百合
「眩暈」吉増剛造 英訳:遠藤朋之

主題曲:「新世界の夜」
作曲・編曲:佐野元春
演奏:Motoharu Sano & The Coyote Band
DaisyMusic

画像はすべて©HUGMACHINE

公式サイト:https://www.vertigo-web.com/

12月13日(火)より 東京都写真美術館ホールほか全国順次公開