【Interview】『ビラルの世界』プロデューサー イーッカ・ヴェヘカラハティ氏インタビュー text 水上賢治

 

フィンランド公共放送YLEのドキュメンタリー・プロデューサー、イーッカ・ヴェヘカラハティ氏。彼の名を知る人は少ないかもしれない。でも、その手掛けた作品名を知る人はきっと多いことだろう。日本でも大反響を呼んだ『ダーウィンの悪夢』、ヴェルナー・ヘルツォーク監督が盟友クラウス・キンスキーとの交流を描く『キンスキー、わが最愛の敵』など、数々のドキュメンタリーの傑作を生み出している。

また、若手ドキュメンタリストのクリエイティブ支援でも高い評価を受け、国際共同制作のドキュメンタリープロジェクトでも手腕を発揮。彼の主導した世界の民主主義の現状を問う国際共同制作ドキュメンタリー・シリーズ“Why Democracy”では、アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞に輝いた『米国“闇”へ』や想田和弘監督の『選挙』などが取り上げられている。

気鋭のプロデューサーとして世界各国を飛び回る彼が、9月に<ドキュメンタリー・ドリーム・ショー――山形in東京2012>で初来日。これまでの軌跡を訊いた。

――大学卒業後15年間、世界中を旅しながら執筆活動をされていたと聞きます。自国にとどまらず、その自らの視線をより広い世界へとむけたきっかけは何だったのでしょうか?

イーッカ もう覚えていないなぁ(笑)。大昔のことですから。振り返ると、3つ要因があったと思います。まず、私が生まれ育った場所はフィンランドの田舎町。都会からは遠く離れたローカル・エリアでした。皆さんそうだと思うのですが、特に好奇心旺盛な14~17歳ぐらいの多感な年頃になると、自分の住んでいるエリアから遠く離れた世界のことをもっと知りたくなるものです。私もそうでした。ただ、ほんとうに田舎でしたから、都会だったら入ってくる世界のニュース・ソースもなかなか届いてこない。その中で唯一、世界とつながれるのがテレビでした。言い換えると、当時、私はテレビでしか、世界を見て知ることができなかったのです。

その中で、最も私の世界への好奇心をかきたててくれたのが、のちに勤めることになるYLE(フィンランド公共放送)の制作するドキュメンタリー作品の数々。今でも鮮明に覚えている番組があるほど夢中になって見ていました。これが1つ目の要因です。

また、私は少年時代から本と映画が大好きで。この2つも世界を知る窓口となってくれ、フィンランドとは違う文化や歴史があることを教えてくれました。よく本を読みながら、まだ見ぬ世界に思いを馳せたものです。これが2つ目の要因ですね。

それから大学時代、1960年代後半から1970年代にかけてのことですけど、当時は世界が大きく変化し始めた頃。1960年の前半には多くのアフリカ諸国がヨーロッパから独立を果たし、世界の地図が大きく変わっていった時代でした。当時、ヨーロッパ諸国、日本もそうだったと思うのですがフィンランドも学生や若者たちの政治運動が活発になり、おのずと自分の目も世界へと向けられていきました。

そのとき、私はひとつの衝動に駆られたのです。“この世界が変わろうとしている瞬間を現地に立って自分の目で確かめたい”と。“今、世界で何が起ころうとしているのか?”を自分の目で実際に目撃したいと思ったのです。これが3つ目の要因。以上が相まって、フィンランドから世界に飛び出した気がします。

――その間、ジャーナリズム、メディア論、環境問題から思想や芸術についての執筆、講演を数多く重ね、フィンランド最大の新聞でアート評の担当記者にもなられる。そこから転じて1987年からは映画作家としての活動をスタートさせ、数多くのドキュメンタリーを制作されていきます。作品について論じる側から、作る側であるクリエイターに転じた理由は何だったのでしょう?

イーッカ これは偶然としか言いようがない。執筆活動をしている間に、TVニュース用の短い映像素材などを作った経験はありました。ただ、ディレクター願望のようなものはまったくなかったのです。というのも、当時はカメラもフィルムもとても高価なもの。編集や撮影についても技術や才能が必要と思っていて、とても自分などがなれるものではないと思っていました。当時の僕の中では、映画のような映像作品を作れるのはエリートでお金持ちじゃないと、という考えがどこかにあったんです。いまやハンディカメラで誰もが映像作品を作れる時代になってしまいましたけどね。

それなのになぜ作る側になったかと言うと、おばあさんからの一通の投書がきっかけでした。それは、インドに取材にいったときのこと。インドのハンセン病指導者として世界的に知られるババ・アムテ氏を取材しました。アムテ氏はすばらしい志の持ち主。当時、“慈善をくれるな、可能性をよこせ”というスローガンをもとに国にも頼らず、援助も受けないで3,000人のハンセン病患者を受け入れたコミュニティ施設を作り上げていました。その取材は最終的に新聞記事になったのですが、ある日、その記事を読んだひとりのおばあさんから投書が届いたんです。そこにはこう書かれていました。“あなたの記事を読んでいると、まるで映画を観ているようだ”と。

そのとき、ちょっと頭にひらめいたんです。“この施設を題材に映像作品が出来ないか?”と。それで早速、企画書を書き上げて映画制作会社に提出してみたら、これが通ってしまい製作費が確約されて。トントン拍子で制作できることになってしまった。ただ、この時点でも、僕としてはあくまで企画者ぐらいの気持ち。ところがいざ僕がインド入りしてさあいよいよ撮影スタートとなったとき、緊急事態が発生。なんと同行する予定の撮影カメラマンがバンコクでトラブルに巻き込まれて、インドに来られなくなってしまった。もうこうなると選択肢はひとつ。自分でカメラを回すしかない。見様見真似の独学でカメラの取り扱い方をマスターして、どうにかこうにか撮影し、最後はなんとか作品にすることができました。

ですから、自分の意思で作り手になったというより、もう自分で撮影して編集して作品に完成させないといけない状況に追い込まれたといった方が正しい(笑)。これが、私が映画作家に転じた事の真相です。ちなみに、この作品は好評で、いまだに世界をめぐっていて。2年前にもある映画祭で上映されました。人生はわからないものです。こんな経験をしていますから、私は“誰にでも映画は撮れる”と思っています。

――そこから今度はYLE(フィンランドの公共放送)の編成担当プロデューサーへと転じ、現在に至ります。映像制作者から公共テレビの番組プロデューサーというのも異色と思うのですが?

イーッカ 私自身もまさか自分がテレビの仕事をするとは思っていませんでした。テレビというのは大組織。組織や団体の中に入ることは多かれ少なかれ、なにかしらの自由を奪われてしまう。それまで個人のジャーナリスト、制作者として活動してきた身としては、やはりその自由の領域を侵されるのは許しがたい。組織に属するというのも何か抵抗がある。子供たちからも“テレビ局なんて組織に属するなよ”と言われましたよ。ですから、局サイドから打診があったのですが、受諾するか否か正直迷いました。最終的に“1年だけ”という条件で受けたんです。それが現在にまで続いてしまって……。テレビ局に所属して私はすっかり保守的な人間になってしまいました。以前はもっとラジカルな思考の持ち主だったんですけどね(笑)。

 ――テレビ局のプロデューサーに対して失礼な質問なのですが、テレビというメディアにはやはり弊害があると?

イーッカ テレビがメディアとして社会に与える影響は今も大きい。成熟した国や社会を築く重大な役割を担っているといっていいでしょう。でも、一方でテレビというのは人間のクリエイティビティを壊すところがあると思います。はっきり言ってしまうと、作らないでいい番組が多すぎます。

 ――その中で、ご自身が手掛ける作品で心がけていることはどういったことなのでしょう

イーッカ うれしいことに決済権の一切は自分に委ねられているので、どういう番組を製作して、支援していくかの判断は独自の判断で決められます。今の状況を話すと、もちろん公共放送ですから自社の製作部と一緒に作ることも可能なのですが、私自身はインディペンデントの制作会社や作家と組むケースが多い。

なぜかというと、ここ10年、フィンランドで作られた作品で言えば、海外映画祭で賞を数多く受賞し、放送時にいちばん多く視聴者に見られ、いちばんメディアで批評されたのは、いずれもインディペンデント製作会社が発表した番組です。これは言うまでもなく優れた番組だからこういった実績を上げたわけです。ですから、私としてはそういった多くの人の心に訴える優れた企画や、それを形にできる優れた才能あるクリエイターたちを積極的に支援していきたい。そういう意味で、今のポジションはインディペンデントの才能ある人たちを応援するにはとてもいいと考えています。世界中の作家と手を組むことができますからね。

――今、世界中の作家と手を組むことができるとの発言がありましたが、イーッカさんが手掛けられた作品を並べてみると国際共同制作に積極的な印象を受けます。

イーッカ 私は世界中を訪れ、様々な国の人々と出会い、ときに仕事をしてきました。その中で、いかにひとつひとつの国の文化や伝統や歴史が違うのか痛感してきました。でも、一方でこういうことにも気づいたのです。国や人種がどんなに違っても“共通点も多いな”と。

例えば私とあなたは容姿も生まれた国もまったく違う。でも、今こうして話した中で、すでに共通項もいくつか出てきています。ともにジャーナリストであるとか、ドキュメンタリー映画に興味があるとか。私は人種や国とか関係なく、人と人は同じ思いを共有できる可能性があると思っているんです。よく考えてみると、ドキュメンタリー・フィルムでも絵画でも映画でも優れた芸術作品は普遍性をもっています。普遍性のある作品は国も人種も超えて、世界中の人々の心をとらえるのです。ですから、私は普遍性のある作品をサポートしていくという気持ちさえ自分にあれば、言語や国の違う相手とでも手を取り合って作品作りに向かっていけると考えています。

共同制作の際、コミュニケーションに障害を感じたことはありません。ただ、共同制作に限ったことではないのですが大切にしていることがあります。それは作り手とYLEのプロデューサーではなく、イーッカ・ヴェヘカラハティ個人として付き合うこと。

会社という組織はやっかいなものです。個人と個人ならば直接会って済む話が、組織同士になってしまうと、派閥や上下関係、利害関係など様々な問題が生じて、クリアするのにいくつもの過程を経なければならなくなってしまう。なので、わたしは作り手とは個人として付き合うことを心がけています。個人同士のコミュニケーションを重要視しているのです。例えば、私が主導して手掛けた南アフリカの若手監督によるHIV差別を問うドキュメンタリー・シリーズ「Steps for the Future」は、個人同士のネットワークで成立したといっていい。映像作家や各放送局のプロデューサーといった人々が個人としてつながる。こういった個人関係がいくつも出来て、いつしか大きなネットワークの輪となった。その結果、世界に届くプロジェクトになったのだと思います。

――そういう中で、『ダーウィンの悪夢』や『アルマジロ』など数々の映画賞に輝く名作ドキュメンタリーを手掛けられているので、いくつかの作品についてお伺いしたいと思います。『キンスキー、わが最愛の敵』。ヴェルナー・ヘルツォーク監督作品ですが、彼との仕事はどんなものだったのでしょうか?

イーッカ ヘルツォークと仕事をしたなんて恥ずかしくて言えません。どういうことかお話しましょう。プロデューサーの作品への関わり方は3パターンあると思います。まず1つ目のパターンはお金の手配のみ。とにかくいろいろなところと交渉して資金を調達して、作り手をサポートしていく。2つ目のパターンは、そのお金の手配に加え、ある段階でラッシュなどをみて、作家にアドバイスして作品の道筋をつけていく。3つ目のパターンは、前の2パターンをやるのは当たり前のことで、作品が生まれようとする立案や企画の段階から関わって世に出るまで関わる。最初から最後まで作家と一緒に歩む。私としては3つ目のパターンで関わったものだけ、“仕事をした”と胸を張って言えるのです。『キンスキー、わが最愛の敵』に関しては1つ目のパターン。でも、この作品でヘルツォークの仕事をサポートできたことは誇りに思っています。

――ちなみに『キンスキー、わが最愛の敵』どういった経緯でプロデュースすることになったのでしょう。

イーッカ これもまた偶然の出会いで。YLEのプロデューサーになって1年目のことだったんですけど、カンヌ国際映画祭に行きました。夜、映画祭関係者のパーティがあって、そこである人を紹介されたんです。でも、隣にいる人に話しかけられても聞こえないぐらいうるさい場所で、彼が何を言っているのかまったくわからない。その中で、“ヴェルナー”と“クラウス・キンスキー”という言葉だけかろうじて聴こえて(笑)。それで紙を取り出して、冗談半分で“チャンスがあるなら、フィンランド放送はそのヴェルナー・ヘルツォークの作品の北欧分の権利を全部買います”と書いて渡したんです。そうしたら翌日、その人物が僕のところを訪ねてきた。ヘルツォークのプロデューサーだったんです。で、その場で彼は“冗談ではなく本気か”と。

僕もまだ新米のプロデューサーで後には引けないし、意地になってね。北欧諸国から出資者を募って、作品をバックアップしました。後で聞いたら、このときはほんとうに作品が頓挫する危機にあったようで、このサポートがなかったらどうなったかわからなかったそう。だから、さっき言いましたが、ヘルツォークと仕事をしたとは言えないけど(笑)、サポートできたことは誇りに思っています。

――日本公開となった『ビラルの世界』はどうでしょう。ソーラヴ・サーランギ監督はイーッカさんとのやりとりを「毎日4~5時間、映像素材を観てはディスカッションした。それは自分の作品を外の目で見る訓練となり、世界観を鍛える時間だった」と振り返っているのですが。

イーッカ 監督が私のどのような言葉で、そう思ってくれたかはわかりません。私としてはプロデューサーとしてベストを尽くしただけ。よく“本当に大変で、最後の最後に俺がこの作品を救ったんだよ”と自慢するプロデューサーがいますけど、後日、監督に話をきいてみると大概が“あのプロデューサーが大変で作品が危なくつぶれるところでしたよ”なんてことになっている(笑)。そういうプロデューサーにならないように気をつけただけです。

『ビラルの世界』で僕がすばらしいと思うのは、ソーラヴ・サーランギ監督の姿勢。彼はものすごく情熱的で被写体を愛していることが企画の段階からわかりました。作品を観てもらえばわかるように、ビラルの周囲の世界と現実を脚色することなくそのまま撮ろうとしている。ビラル一家の生活はほんとうにギリギリです。でも、その悲惨な現状にだけ目を向けるのではなく、そこにもある希望や未来をきちんと捉えている。ビラルを貧困の被害者にしていない。やんちゃでいたずら坊主のビラルの“いま”をそのままみつめている。その結果、この作品は非常に貧困を描いているにも関わらず、落ち込む映画ではない。むしろユーモアと喜びが溢れている。そこが世界中の人々の心に届いたからこそ、いろいろな映画祭で受賞を重ねたのだと思います。

『ビラルの世界』©ドキュメンタリードリームセンター

――最後にシンプルながら難問と思える質問を。なぜドキュメンタリー作品を手掛け続けるのでしょう?

 イーッカ よく“ドキュメンタリーは世界を変えられるのか?”“ドキュメンタリーの作り手は世界を変えられるのか?”との問いがあります。私は可能と信じています。優れたドキュメンタリーの作り手は、子供のような無垢の目を持っているといっていいかもしれない。その澄んだ目で映し出される作品は、様々な問いを投げかけます。でも、私を含め多くの人間はいまある世界の不条理や社会の歪に目をつぶってしまい、何の疑問を持たず、流されて日常をやり過ごしてしまうのです。

優れたドキュメンタリー作品は、そういった我々に気づきを与えてくれる。だからこそ、ドキュメンタリー作品は意義があると思います。あと、やはり私はドキュメンタリーに魅力を感じます。ドキュメンタリーを見ると被写体となった人の人生そのものが映っている。例えば『ビラルの世界』の主人公ビラルは、年月が経ったいまも彼自身の人生を送っているのです。そこに思いを馳せることができる。ビラルはビラルとしてインドのどこかで生きている。ここがフィクションの劇映画との大きな違いではないでしょうか。ドキュメンタリーを観ると、人生がより豊かになると私は思っています。

【作品情報】

『ビラルの世界』
(2008年/インド/ベンガル語・ヒンディー語/カラー/DVCAM/88分)

監督・撮影・録音・編集:ソーラヴ・サーランギ
製作会社:ソン・エ・リュミエール(インド)
共同製作会社ミレニアム・フィルム(フィンランド)
助成:フィンランド外務省、ヤン・フライマン・ファンド(オランダ)、フィンランド公共放送YLE TV2
日本語字幕翻訳 中沢志乃
配給:ドキュメンタリー・ドリームセンター
配給協力:シネモンド、こども映画プラス、コミュニティシネマセンター
協力:山形国際ドキュメンタリー映画祭、シネマトリックス

※公開中
横浜:シネマジャック&ベティ 11/24〜12/7
大分:シネマ5 12/15〜21
大阪:第七藝術劇場 12/22~12/28
高崎:シネマテーク高崎 2013/1/5~18

※公式サイト:http://www.ddcenter.org/bilal/

【執筆者プロフィール】

水上賢治 みずかみ・けんじ

映画ライター。日本映画専門ブログ「ホウガホリック」、ガイド誌「月刊スカパー!」などで執筆中。