【論考】 視覚と身体のZ軸(前編) 『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』 text 神田映良


3D映画というと、どうも、その大半がやたらと騒がしい映画という印象が拭えない。僕が3Dに期待するところは、アトラクション的な派手さなどではなく、物が、空間が、眼前に存在するというリアリティを、一段も二段も格上げするという特性なのだ。そうした面は、現状では3Dと殆ど縁のないドキュメンタリーによってこそ、より明確に実現されるのではないか。

空飛ぶ竜や、暴れまわる宇宙人といった、現実からはみ出すような対象を追い駆ける映画にも、フィクションならではの真実というものが内蔵されてはいるのだが、そうした嘘をつくことに対しては一応、禁欲的であるだろうドキュメンタリーは、浮薄な刺激性を要求されることから自由なはずだ。その、そこに在る対象を捉えることを志向する性格からして、僕が3Dに期待することとよく合致している。3Dによるドキュメンタリーはむしろ、フィクション以上に積極的に撮られるべきだと言いたい。
今回取り上げる二作品は、「3Dカメラによって撮られたドキュメンタリー」という共通項を持ちながら、「身体性」と「空間性」という二点に於いて好対照を成している。全ての話は何より、個々のカットなりシーンなりを語ることからしか始まらない。まずはしばらく、これらの作品の中に入っていただきたい。

 













© 2010 NEUE ROAD MOVIES GMBH, EUROWIDE FILM PRODUCTION



一つ目は、ヴィム・ヴェンダース監督が舞踊家、ピナ・バウシュの世界に迫った『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(以下『Pina』)。ピナ自身は既に亡くなっており、彼女が遺したヴッパタール舞踊団の面々が3Dカメラの前で舞踊を披露する。当然、この作品にあっては「空間」ではなく「身体」が主役だ。空間は、画面の中心を占めるダンサーらの身体との関係性、距離感から捉えられる。
それ以前にまず驚かされたのは、3Dであることから当然のこととはいえ、やはりダンサーらの身体の立体感だ。僕もこれまで、ヴッパタールに限らず、映画、テレビ等で幾つか、公演の記録映像や、ダンサーらによる映像作品の類いを観てきはしたが、いつもどこか不満を感じていた。それは、個々のカットのアングルや構図に対する不満や、なまの会場の熱気や匂いが映像では欠落せざるを得ない、といった理由にも因ってはいた。だが、『Pina』で初めて確認できたのは、これまでのダンス映像に致命的に欠けていたのは、身体と空間の立体性だったということだ。やはりダンスは、彫刻や建築などと同じくらいに三次元的な表現だったのだ。

《春の祭典》での、床に横たわる女性ダンサーの肉体が、その重みと質感を伴って眼前に現れたとき、その艶かしさに驚かされる。肉体の重みという要素は、ダンス作品のスペクタクルと詩情の両面に於いて重要になってくる。特に顕著なのは、《カフェ・ミュラー》の一場面。一人の男が、男女カップルの内、女の手を男の首に廻させ、男の腕に女を抱きかかえさせるが男は女を取り落とす、という一連の行為が、幾度も反復される。その反復が次第に激しく早くなるに従って、カップル自らが、抱き合う、落とす、という行為を夢中になって繰り返す。これは『モダン・タイムス』で工場労働者チャーリーが見せた、ネジ締め作業を機械的に繰り返したあまり、その動作を痙攣的に行ないながら暴れだすあの有名なギャグを想起させる。

だがカップルを狂熱的な反復へと導いたのは機械ではなく、幽霊のように寄り添う一人の男。これは、カップルにとっての第三者的存在を表わしているともとれるし(「彼にもっと甘えてみせなさい、愛情を示しなさい」とか、「彼女をもっと大事にしてあげなさい、愛してあげなさい」と助言ないしは圧力を与える他者等)、カップルの無意識的な、衝動と義務感とが混在した複雑な愛そのものの暗喩と見ることもできる。いずれにせよ、そうした些か抽象的な主題もまた、生身のダンサーの激しい息遣いや、床を打つ肉体の重量感などで生々しく表現されることになる。それがダンス作品というものだが、3Dは、ここでの最も肝心な点、眼前に提示される肉体の実感を、なまの舞台に迫るリアルさで獲得し得ている。映像という媒体とは相反するとも思えていたその感覚が実現されているということは、何もこの『Pina』に限ったことではないが、一つの映像史的な事件と呼ばれるべきだろう。

 














 © 2010 NEUE ROAD MOVIES GMBH, EUROWIDE FILM PRODUCTION

舞台上に用意された様々な物たちも、ダンサーの肉体との交感を「立体化」されている。薄い幕を降ろすことによる空間の多層化は、その本来の立体感を映像内で実現する。また、水飛沫や砂が舞台上を舞う光景。《春の祭典》の舞台に撒かれた砂が、ダンサーたちの汗ばむ背に貼りついているさま。《フルムーン》の舞台上に広がる水面も、その揺らぐ鏡面のような質感を際立たせる。《カフェ・ミュラー》の、目を閉じて歩く女性ダンサーが衝突しないように男性ダンサーが必死で払い除ける椅子も、障害物としてそこに在ることの実感が増す。故に、椅子が乱暴に払われる光景の、瞑目する女性への気遣いがそのまま暴力的な出来事でもあることのドラマ性も、より生々しいものとなる。

単に、なまの舞台に迫ろうとしているだけではない。時間と空間を自由に組み合わせることのできる映画の特性も活かされている。ダンサーらが舞台美術の模型を覗き込んでいるカットでは、模型のはずの物がそのまま実際の舞台となる。3D映像の「箱庭効果」を逆手にとったような仕掛けだ。写真機のフラッシュが焚かれた瞬間が静止画になるカットは、閃光を受けた瞬間に生身の肉体が、青白く輝く彫像と化した観がある。《コンタクトホーフ》で、男女のダンサーらが自らの歯、手の甲と掌とを観客の方に差し出して見せ、自らの肉体を値踏みさせているかのような場面では、唐突に老若が入れ替わることで、この場面に、より批評性やアイロニーが加えられていた。老いと若さという、肉体の持つ時間性さえ値踏みされているような冷酷さ。互いに他人であるダンサーたちが、一つの性に訪れる青春と老いという線に沿って、一つの身体性を描くことによる、肉体の個別性を喪失したような不気味さと、どんな人間にも訪れる時間という宿命を、肉体の個別性を越えて共に表現し得ていることの感動。

最後に、より「観る」側の立場から、3Dの効果を確認しておこう。舞台を、客席側の後方で見下ろす位置から捉えたショットでは、舞台を見つめる観客たちの後頭部が写り込んでいる。ボブ・フォッシー監督による『キャバレー』の舞台シーンでの、舞台を見つめる僕らの眼前を映画内の人物が通り過ぎていくあのカットの猥雑な臨場感とは比べられないにしても、僕らを映画内の観客席に招き入れてくれる効果はある。そう、劇場での鑑賞という体験は、周りの観客が視界に入るということと込みで僕らに記憶されているものなのだ。3D眼鏡は幸か不幸か、他者の存在を視界の端から排除してはいるのだが。『Pina』には、映画鑑賞のシーンもある。亡きピナの姿を捉えたフィルムが映写されるのだ。3D映画の中の2Dのスクリーン。この隔たりが、彼岸の人となったピナと、残されたダンサーたち、そして僕らとの距離を感じさせる。映写係が吹かすタバコの煙さえもが、このカットの立体的な空間性を醸し出すのに一役買っている。 (後編へ続く)




『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』
監督/ヴィム・ヴェンダース
2010年/ドイツ、フランス、イギリス/104分/カラー  公式サイト
ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿バルト9他全国順次3D公開中



【執筆者プロフィール】神田映良(かんだ・あきら) 1978年大阪府生まれ。大阪芸術大学芸術学部芸術計画学科卒。インターメディウム研究所・IMI「大学院」講座(現・IMI/グローバル映像大学)修了。2011年、第二回映画芸術評論賞・奨励賞受賞。