【Interview】『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』 小谷忠典監督インタビュー text 小林和貴

小谷忠典監督

劇映画出身の小谷忠典監督に出会ったのは、前作『LINE』が公開された2010年のこと。朴訥で、どこか人懐っこい話し方とは裏腹に、作品に宿る凄まじい作家的執念のようなものに戸惑った。しかし、ある時ふと気がついた。「これもドキュメンタリーだ」と胸を張って言えるような1本の連なりが、彼の作品から見えることに。

映画には、どのように観られても良い自由があるが、今回も小谷監督の言葉を聞きながら、この作品をドキュメンタリー映画として紹介できることの面白さと貴重さを、改めて思った。
(構成協力・neoneo編集室 佐藤寛朗)
 

絵本「100万回生きたねこ」との縁

―――小谷監督と絵本「100万回生きたねこ」との出会いは、いつでしたか?

小谷 はじめて知ったのは子供の時です。児童養護施設で働いていた母親が、寝る前に、よく佐野さんの絵本を読んでくれました。本当に物心ついた頃ですから、感想は、世の中には死ぬとことがあるんだ、って思ったぐらいですね。実は「100万回生きたねこ」という物語は、1977年に出版された本ですから、今年で35歳。僕と同い年なんです。

僕にとっての佐野さんは、ずっと絵本の中の人でした。大人になってからは、エッセイも好きになって読んでいたりしたのですが、「100万回生きたねこ」という物語自体の魅力に惹かれたのは、もっと後のことです。

例えば友人が自殺してしまったりとか、自分のおじいさんやおばあさんが亡くなったりとか、周りの人の死に触れるうちに「100万回生きたねこ」のことを思い浮かべることが多くなってきました。僕自身が、死を通過する中で、この物語のぼんやりとした輪郭が、だんだんとはっきり見えてきた、というか。


佐野洋子さんとの出会い、そして死

―――実はその作者である「佐野洋子さんの死」というのが、映画にとって重要なモチーフだと思うのですが、佐野洋子さんご本人とは、そもそもどのように出会ったのですか?

小谷 僕は大阪の生まれで、ずっと地元で映画を作ってきたんですが、2008年に『LINE』という映画を製作したことがきっかけで、上京してきたんですね。それで、せっかく東京にいるんだったら、自分が一番会いたい人の映画を作りたいと思って、子どもの頃から大好きだった佐野洋子さんに手紙を書いて、出版社に送りました。

そしたらある日、佐野さんご本人から電話がかかってきて「悪いけど、そういうの、断っているのよ」と言われました。僕は引き下がることができなくて「会って話だけでも聞いて下さい!」と言って、何度かやりとりを繰り返した末に「じゃ、暇だから、会うだけならいつでもどうぞ」ということで、荻窪にある佐野さんのお家にお邪魔することになったんです。

ところが、最初にお会いしたときに「映画を撮ってもいいけど、私の姿は撮らないでね」と言われて。佐野さんの前では、カメラは一切回せませんでした。ひとつだけ、サインを書いている佐野さんの手が少し出てきますが、あれは30年間佐野さんと一緒にやってきた編集者の方が遊びに来たときに、たまたま撮れたんです。編集者の方が「手ぐらい撮らせてあげたら」と言ってくれたから(笑)。

姿を撮らない、という約束のもとで撮影をしていたので、最期まで、録れるのは音だけでした。だからお葬式の時も亡骸は撮りませんでしたし、撮れなかったです。

―――姿を撮れない、というのは映像作家にとってはものすごく大きなハンデだと思うのですが、初めて会って、いきなりそんな条件を突きつけられて、困惑しませんでしたか?

小谷 困惑しましたね。そのことで、佐野さんにはすごく怒られました。「アンタ、プロじゃないね。映像作家なら何をやりたいか、もっとはっきりさせないとダメなんじゃないの?」って。2回くらい、泣かされていますからね。「アンタと喋ってもつまらない!」とか「どういう人格なの?」とか、厳しいことも言われて。佐野さんって結構怖いんです(笑)。ただ、こちらとしては、佐野さんを記録したい、という気持ちだけは強くありました。

佐野さんは、僕と普通にコミュニケーションを取ることを望んでいました。だから最初、型式張った質問ばかりしていたときは、全然答えてくれませんでした。僕自身が腹を割って、自分の話をしはじめたら、向こうもやっと話をしはじめてくれました。他愛のない会話から話を重ねていった、という感じです。

―――佐野さんとお会いしたとき、「死の匂い」みたいなものは感じましたか?

小谷 佐野さんがガンに冒されていることは、エッセイに書かれていたので、はじめてお会いした時から知っていました。でもこの人が死ぬから記録する、というよりは、好きだから撮りたい、という気持ちで撮影を続けていました。

何度かお会いしていくうちに、余命わずかという事は、目で見てハッキリ分かりました。最初は一階のリビングで、面と向かって椅子に座って話していたのが、だんだんとソファーになって、ベッドになっていくんです。肉体的にも衰えて、歩けていたのが、歩けなくなっていったりとか。

そのことは、気持ち的にはすごくきつかったです。もうすぐ亡くなるという方に、いろんなことを根掘り葉掘り聞いたり、時には意見をぶつけたりするわけですから。加えて、もうすぐ死を迎える人に、映画を作りたいという不道徳な気持ちで関わっているというのが、自分の中でジレンマとしてありました。

―――姿が撮れない条件の中で、「アタシもうすぐ死ぬのよ」と飄々と話す佐野さんの声が、とても印象に残ります。

小谷 もう最初にお会いした時から、この人、文章もすごいけど声もすごいな、と思いましたから。それまで声は聞いた事がなかったからあらためて驚いたんですけど、とても強度があるんですね。声を映画の素材の一つとして成立させられる、というのは直感的に感じました。佐野さんがもともと持っている、本質的な魅力のひとつに気が付いたのだと思います。

あとは、話し方。エッセイでもそうなのですが、佐野さんはひとつの出来事を話すときに、様々な年代を全部混ぜこぜにして話すんです。子供の頃の話でも、青春時代も、晩年のできごとも、全部一緒くたにして話す。実に不思議な話し方です。あらゆる年代を通した記憶の断片なのに、聞くとまとまっていて、重厚で、時間を感じさせる話し方をされるんですね。その魅力は伝えたいと思いました。

『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より ©ノンデライコ、contrail、東風


「100万回生きたねこ」の読者を撮る

―――佐野さんの声と並行して、映画には、たくさんの女性が「100万回生きたねこ」の読者として出てきます。

小谷 姿が撮れないので、どこかで佐野さんを感じられるような、彼女の身体を代わりに語ってくれる人を撮りたいなと思いました。だからみんな女性だし、佐野さんの、今言ったような混ぜこぜな話し方をどこかで意識していたので、30代から70代まで、あらゆる年代の読者の方々を30人ぐらい、それぞれ同じ分量ずつ撮らせてもらいました。構成上、入らなかった方もかなりいます。

―――どこで知り合われた方たちなんですか?

小谷 渋谷で声をかけたりとか、いろいろですが、いちばん多いのは、僕の前作『LINE』(2008)を見に来てくださった方たちです。僕の映画を見て、自分自身のお話をしてくださった方が何人かいたんです。そのときに「今こういう映画を作っているので、出てもらえませんか」とお願いしました。

もちろん、佐野洋子さんの人生とどこか共通する部分がある女性、というのはお願いする基準のひとつしてありました。しかし、できれば佐野さんの声が、読者の方々の内なる声になれば良いな、と思いました。「100万回生きたねこ」という本は、心と身体、というのが断片的に出てくるのですが、一方でとても大きな、包み込むような繋がりを描いた物語です。だから「佐野洋子の物語」とか「読者の物語」だけではなくて、人と人、個人と個人がどこかで繋がっているという普遍的な関係の姿が描ければ良い。そう思いながら撮影をしていました。

最終的には、生きづらさを感じている方々の中でも、特に母子関係で問題を抱えている方に話を絞りました。絵本は母親が子供に読み聞かせるものだから、そこにクローズアップしたんです。

―――読者の方たちとは、かなり時間をかけて一人一人撮影したようですが、どういうコミュニケーションを取りながら撮影をしていたのですか?

小谷 何回か会ってお話させて頂き、シナリオのようなものを作って、何を撮るかを全部説明して、その通りに撮影していきました。僕の中でどういう映像が撮りたいのか、明確にしてから撮影したんです。でも、ドキュメンタリーだと、いくら作り込んだとしても、絶対にはみ出る瞬間というのがありますよね。その瞬間も狙いつつ撮影しました。

たとえば、親子が読み聞かせをしているという状況的なシチュエーションでも、子供が今何を感じているか、親が何を感じているかに着目することで、二人の関係が見えてくる。読者の方々の身体を通して、その方々の精神を見ているところが僕にはあります。ただコンセプトを作るだけでは、人間は撮れませんから。

―――ひとり、映画の真ん中で出てくるおばあさんだけが、異質だったような気がします。様々な悩みを語る女性が出る中で、あの方だけ人生を達観している、というか。

小谷 実は、あのおばあさんは、僕のおばあさんなんですよ。

―――えっ!?そうなんですか?

小谷 僕のおじいさんが、偶然映画を制作していたときに亡くなったんです。そのとき親戚のおじさんに、お葬式の風景を撮ってくれと言われたので、撮った映像なんですよ。当然ながら、棺桶の中にいるおじいさんが、僕のおじいさんです。

―――なぜ、ご自身のおばあさんを撮ろうと思ったのですか?

小谷 編集の段階では、映画の前半を生の時間、後半を死の時間にしたかったんです。前半の部分は、生きているからこその葛藤を抱えている人が出てきます。逆に映画の後半は、死の時間なのだと考えていました。そうなると、生から死へオーバラップしなければ繋がらない。構成上は、佐野さんが生きていて、真ん中ぐらいで亡くなって、そこから死の時間となっていく。その入り口として、お葬式の映像と、棺桶の中のおじいさん、夫を亡くしたおばあさんを登場させました。おじいさんの死から派生して、愛する身近な人を亡くした存在として、自分のおばあさんを撮らせてもらったんです。

『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より ©ノンデライコ、contrail、東風


北京でみつけたもの

―――映画の後半で、北京に行くシーンがとても重要になっていると思います。なぜ北京に行かれたのですか?

小谷 佐野さんが亡くなられてすぐは、佐野さんの死を実感できませんでした。ずっとファンで、一年近く話しをさせてもらっていた人がこの世からいなくなった、というのがどうしても受け入れられなくて。佐野さんは生涯で40回以上も引っ越しをしているのですが、亡くなってから、留学をしていたベルリンや、アトリエのある北軽井沢の別荘など、かつて住んでいたところを全て訪ね歩きました。佐野さんの手あかが残っているものを記録したい時期だったのかもしれません。ところが、画材がそのまま残されているアトリエなんかに行くと、佐野さんがまだ生きているように思えてしまうんですね。

北京には最後の撮影で行ったのですが、自分の中ではかなり追い込まれていました。北京というのは、佐野さんにとって、幼少期に、敗戦後の引き揚げで離れざるを得なかった、とても重要な場所です。僕はいちばんはじめに会った時に言われた「アンタ、私が死ぬこと、どう思っているの?」ということに対して、この映画で決着を付けないといけないのに、何も付けられないまま北京に来てしまいましたから。

でも、北京に行って、かつて佐野さんが住んでいた胡同の路地裏が壊されているのを目の当たりにしたときに、本当に佐野洋子さんという人が、この世からいなくなってしまったのだと、実感することができたんです。

―――先ほど映画の後半は「死の時間」とおっしゃっていましたが、むしろ北京のシーンでは、佐野さんが生きていたことを、小谷監督が必死に映画に刻み付けようとしていた感じがしました。

小谷 そうですね。後半は、もしかしたら死の時間ではないのかもしれない。物理的に死んだという情報はあっても、僕の中では生きていたのかもしれません。佐野さんという人が生きていた前半があって、後半は、死を認められない時間がある。その中で北京に行き、やっと死んだということが認められた。認められた瞬間に、自分はまた生きていかないといけない。いや実際生きているんですけど、そういう普遍的な輪廻のようなものを、北京では感じられたように思います。

―――北京のシーンでは、女優の渡辺真起子さんを起用されています。なぜ渡辺真起子さんだったのですか?

小谷 渡辺さんは佐野さんとはもともと友人で、仲が良かったんです。佐野さんがまだ生きている段階でお会いしていて、はじめは、あらゆる年代の読者のひとり、という役割で撮影をさせて頂いていました。ところが途中から、彼女が映画にとってどのような意味があるのかが分からなくなって、撮影を中断してしまった時期があるんです。

他の読者の方々は、佐野洋子さんのことを知らないから、ある意味フラットに佐野さんについて話せるし、「100万回生きたねこ」についても、自分の中の解釈で話せるんです。しかし渡辺さんにとっては、どうしても佐野さんありきの「100万回生きたねこ」になってしまう。それがカメラに映るんです。そのことと、彼女が俳優であることを、映画としてどう消化すれば良いのか、悩みました。

それでも渡辺さんに出演して頂いたのは、渡辺さんが僕にとって、今回の映画作りの間、ずっと一緒にいてくれる存在だったからです。撮影の2年間、どこかで意識を共有していた、と言ってもいいかもしれません。佐野さんが亡くなられたときも、渡辺さんとはたくさん話しをしました。僕にとって渡辺さんと北京に行くのは、ごく自然なことだったんです。

―――北京での撮影は、大変でしたか?

小谷 この映画を面白くするにはどうしようか、ということを、渡辺さんと僕でずっと議論していたのですが、分からないしロケに行っても見つからないしで、お互いフラストレーションが溜まるばかりだったんです。しかしある日、晩ご飯を食べている時に、「私だって見つけらたいのよね」と渡辺さんが誰かと話しているのを聞いた瞬間、北京の路地を歩いている女の子が、縄跳びを見つけて中に入って行く、というシーンが思い浮かんで。そこでようやく求めていた輪廻の形が見つかったかな、という感じです。

―――俳優の渡辺さんを起用したというのもあると思いますが、北京のシーンは、虚実の入り交じった、不思議な印象を受けますね。

小谷 僕は自分の想像を、映画の中に平気で入れてしまうところがあるんですね。自分の中の想像をひとつの現実としてドキュメンタリー映画の中に取り入れる、ということを、積極的にやってみたいと思うんです。だから北京では、フィクション的なカットもたくさん撮りました。結局は全部落として、都会から胡同へ、歴史が、街並が、だんだんだんだん古くさくなっていくという、動きのある映像だけになりましたが。

それと、もうひとつ。これは渡辺さんと一緒に北京に行った大きな理由でもあるのですが、今回の映画では、俳優さんに出ていただく、という事に僕はとてもこだわりました。俳優さんは、いろんな人生を演じるじゃないですか。ふつうの人は自分の物語しか持っていないけど、俳優さんは仕事で色々な方の人生を演じることができる。「100万回生きたねこ」に出てくる猫も、色々な人生を生きていますしね。ある種、読者の代表じゃないけど、そういう存在としての俳優さんにこだわっていたんです。「100万回生きたねこ」の物語が、俳優に近い、とも思ったのだと思います。

『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より ©ノンデライコ、contrail、東風

 
撮影を終えて

―――撮影を終えて、「100万回生きたねこ」という絵本に対する意識の変化はありましたか?

小谷 「100万回生きたねこ」は読む人によって解釈の仕方や、意味が変わってくる物語だと思います。佐野さん自身は、理屈で考えた物語ではなく、ある日突然イメージが降りてきた作品だと言っていましたが、僕なりの解釈で、作者である佐野さんにとっての「100万回生きたねこ」がどういうものか、分かった瞬間があるんです。

佐野さんが亡くなったあと、エッセイや絵本を読み直したり、佐野さんがいた場所に行ったりしたときのことです。佐野さんは、かなりの数のエッセイや絵本を書いていますが、それらが全部、死者に対する弔いの意味で作られているものではないか、ということに気づいたんですね。「100万回生きたねこ」は、その代表なんです。自分のすごく好きな人が亡くなったときに感じた弔いの気持ちを作品にしたのだ、と僕は思っています。

―――先ほどから「輪廻」という言葉をよく使われていますが、撮影を通して、小谷監督自身の「生」や「死」に対する気持ちに変化はありましたか?

小谷 「100万回生きたねこ」という絵本の中でも、僕は最後のページにこだわっているんです。猫が不在の風景に、雑草がゆれている、あのページ。あそこで終わるんじゃなくて、もう一回1からそのページをめくれないかと。映画を撮る前は、「100万回生きたねこ」という絵本は死で終わるのだと思っていました。でも映画を撮り終わってからは、最後のページからもう一回めくることで、巡りみたいなのがこの絵本にはあるんだ、ということを実感しました。だからこそ、長い間、読み継がれているんでしょうね。

(2012年11月26日 東京にて)

『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』より ©ノンデライコ、contrail、東風

【公開情報】

『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』
 2012年/日本/91分/HD/ドキュメンタリー

監督・撮影:小谷忠典/出演:佐野洋子、渡辺真起子、フォン・イェンほか
プロデューサー:大澤一生、加瀬修一、木下繁貴/編集:辻井潔/ 構成:大澤一生
整音:小川武/音楽:CORNELIUS/協力:オフィス・ジロチョー、講談社
助成:文化芸術振興費補助金/製作:ノンデライコ、contraile、東風

12/8(土)より、渋谷・シアターイメージフォーラムほか 全国順次公開

公式サイト:http://www.100neko.jp/
予告編: http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=uo8rhXWoV1g

【監督紹介】

小谷忠典 こたに・ただすけ
1977年、大阪出身。ビジュアルアーツ専門学校大阪在学中より監督した『子守唄』(2002)が、京都国際学生映画祭コンペティションにおいて準グランプリを受賞。『いいこ。』(2005)は、大阪シネ・ヌーヴォでの異例の動員記録後、第28回ぴあフィルムフェスティバルにおいて招待上映。初のドキュメンタリー作品『LINE』(2008)は、山形国際ドキュメンタリー映画祭主催「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形in東京」で特集上映後、劇場公開され、海外国際映画祭において入選・招待されている。