【Interview】第27回イメージフォーラムフェスティバル 山下宏洋さんインタビュー

今年もゴールデンウィーク(4/27〜5/7)期間中、新宿パークタワーホールと渋谷・シアターイメージフォーラムで、「イメージフォーラムフェスティバル2013」が開かれている(その後京都、福岡、名古屋、横浜で順次開催)。イメージフォーラムがこれまで中心的に扱ってきた実験映画やアニメーション、個人映画というジャンルは、ドキュメンタリー映画と相互を刺激しながら発展してきた歴史があるのだが、とりわけ今年は「創造するドキュメンタリー、無限の映画眼」という特集上映として、例年以上にドキュメンタリーが大きく扱われている。なぜ、このタイミングなのか。その真意をプログラムディレクターに聞いた。
(取材・構成:佐藤寛朗)

イメージフォーラム 山下宏洋さん

——今回の特集のテーマを「創造するドキュメンタリー、無限の映画眼」に設定した理由を、まずは聞かせていただけますか。

山下:簡単に言えば、ドキュメンタリーをもっと広く捉えたい、ということです。ドキュメンタリーは、一般的には「事実を記録するもの」と考えられていますが、その狭義の意味に対して、ドキュメンタリーもクリエティブであるというか、物事を作る、世界を作ることが可能なのではないか、ということです。

ちょうど90年前の1923年に『カメラを持った男』(1929)のジガ・ヴェルトフが、「キノキ宣言」というのをしているんです。そこではカメラの眼というのは、人間の眼よりもどんどん性能が良くなる可能性がある、と。カメラというマシンの眼が良くなればなるほど、世界は拡がって行く。ドキュメンタリーにはそこに新たな知覚の可能性がある、ということを言っているんですね。

1920年代の時点で既にそういう事を言っているわけですが、カメラやメディアの技術的な性能は今の方がよっぽど上がっているわけで、ヴェルトフの宣言の延長線上で考えると、世界の知覚は相当広がっているはずですよね。ではその「カメラの眼」がどこまで拡がったのか、いちど検証してみようと。そこにはヴェルトフの考えた「映画的真実の表現」が、実はまだまだ探索しきれていないのではないか?という問題意識があります。

特集上映は全部で6プログラムありますが、中には「ふつう、これドキュメンタリーとは言わないんじゃない?」というような作品も入れてあります。でも、その問い自体がある種の制限というか限界を作っている、とも言えますよね。その限界を問う意味も含めて、統一的に「創造するドキュメンタリー」というテーマを設定してみました。

——ドキュメンタリーの概念を拡張するという意味では、わたしたち「neoneo」の試みにも近いのかな、と勝手ながら考えましたが、映像を中心にその拡張性を考えた、ということでしょうか。

山下:私自身はもう少し広い意味で考えたところがあって、ドキュメンタリー映像には、“カメラの知覚”という意味の拡がりもあるけれど、“カメラが状況を作る”という意味の拡がりもあると思うんですね。ここ数年、レポート性の高い作品というか、自分で状況を発信するタイプのドキュメンタリーや、現実の状況に積極的な形で関わるドキュメンタリーが増えている。状況を、撮影という行為によってクリエイトしていく、作品が如実に増えた感触があって、今回のテーマも、それをヒントに設定しているところがあります。

——今までドキュメンタリーと呼ばれてきたものにリアリティーが感じられないとか、世の中の現実が果たして本当に「現実」なのかを問おうとする意識が拡がってきているのかもしれないですね。

山下:従来の、いわゆるドキュメンタリーとして撮って「これが事実ですよ」と言われた時に、何が事実で、何がリアルなのかを捉える感覚が変わってきていますよね。それこそネットなんかが出てきて、誰もが映像にアクセスできるようになると、映像の社会や世界との関わり方が今までとは違ってくる。以前は“記録の重要性”が盛んに言われていましたが、もう少し作家が発信する事を意識するようになったというか、人間の関係性の変化が、映像自体に対する関わり方を変えてきて、それが表現の多様性として表出してきているような気がします。

もちろん私映画やプライベートフィルム、日記映画というのも伝統的にあって、今回のフェスティバルでも『ウォールデン』(1969)というジョナス・メカスの最初の日記映画を上映しますけど、ある種その延長線上にあるような作品でも、メディアが変わると、今までの映像的に伝わる事実というのと、デジタル化の時代——そう言うとちょっと大雑把ですが—–に映像的に伝わる事実が変わってきている、という部分もあります。日記映画、個人映画という枠を超えて、ある種プロジェクトを仕掛けちゃうような作品も出てきていて、例えば前田真二郎さんの『BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW Omnibus 2011-2013』という作品というか企画は、ある種カメラというか、映画ということに対して、世界により積極的、状況的に関わっていますよね。撮影者や制作者とは別の形で、撮る=撮られるの関係性以外の、映画との関わり方ができる可能性があると思うんです。

『BETWEEN YESTERDAY & TOMORROW Omnibus 2011-2013』

 —— 具体的な作品名が出たところで、今回の特集「創造するドキュメンタリー、無限の映画眼」で上映される作品の、個々の特徴を教えていただけますか?

山下:特集上映に関していえば、インタラクティブになりつつあるメディアの可能性を問う、というよりは、映像表現そのものを追求している作品をセレクトしたと思います。というのは、前提として『リヴァイアサン』(2012 監督:ルシアン・キャステイン=テイラー+ヴェレーナ・バラヴェル)が衝撃的だった、というのがあって、この作品にインスパイアされてプログラムを組んだ部分があるからです。

『リヴァイアサン』は、人類学的な記録ドキュメンタリーという伝統にのりつつも、すごく新しい形というか、記録の現在形が表現されているんですね。GoProという小さいカメラがあって、ウインタースポーツや山登りを撮るのに使うような超小型のカメラを使って実際の漁を撮るんですが、カメラを漁師にくっつけたりとか、マストの上につけたりとか、網の中につけたりできるので、海の中にドバーンとカメラが入っていって、網の中に入った魚が引き上げられる様子が捉えられているんです。安いカメラなので、壊れるかもしれないというリスクを承知で複数台を同時に使って撮影していて、きちんと音もついている。それによって得られるいままで観たことのないビジュアルと音響世界は、GoProというカメラの技術があったからこそ得られるものだし、それによって、ある種のリアリティが獲得されていて、いま世界中で評判になっています。まさにヴェルトフの言う“カメラの眼”が現代の技術で発展していったら、新しい世界が獲得できるのではないか、ということを示唆している作品です。

『リヴァイアサン』

——なるほど、言われてみればチラシのキャプションにも、作品への熱情がこもっている気がしました(笑)。とにかく映像が面白そうですね。

山下:何人かの映像作家がこの組織(ハーバード大学感覚人類学研究所)に属していて、作品を何本か発表しているんですけど、他の作品も含め、人類学的なアプローチということで、記録の側面が強いのです。『リヴァイアサン』に関しては、超小型カメラで撮る手法を得たことと、音響が、小さいカメラでクリアじゃないので、それが逆に変な空間というか感覚をもたらす、という意味でも、神懸かり的な作品であるとも言えますね。

 ——一方で、『リヴァイアサン』と同時代の作品、ということでは、『ステンプル・パス』(2012 監督:ジェームス・ベニング)が選ばれている。これについてはいかがですか?

山下:これも本当にドキュメンタリーと言っていいのか?という作品なんですけど、要するに、「映画というのは、ひとつひとつのショットの連鎖である」と皆さんは考えているが、ひとつのショットの中でどれだけの体験や、情報なり知覚が得られるか、そういうことを追求できるのではないか?ということを提示した作品です。

 監督のジェームス・ベニングは、フィルムの時代からずっと撮ってきて、1ショットが2分半(100フィート巻16ミリフィルムのワンロール)で構成されている映画をたくさん作っています。つまりこれまでも、ひとつのショットの中でどれだけ観客が体験できるかを問う、ということをやっていました。ショットのつながりを、編集的な意味というより構造的な提示の仕方で追求していたのですね。やがてデジタルの時代になって、フィルムだと自分の思うクオリティのものがなかなかできない、となった時に、彼の作品の魅力がどう変化していくのかなと思って注目していたら、ひとつひとつのショットが長くなっていった。今回の『ステンプル・パス』に至っては、123分で4ショットしかありません。ワンショットきっかり30分、全部同じ構図なんです。春夏秋冬、四季で4ショット。監督の中に、情報が分かりやすいものに画一化されていくなかで、黙視することによって得られる経験が忘れ去られることに対する危惧があるんですね。あとはお客さんも実際に体験してもらいたい(笑)。

 —— ショットの中に「ユナ・ボマーの小屋」という建物が映っています。何故ユナ・ボマー(*1)なのか、ちょっと気になりました。

山下:その「ユナ・ボマーの小屋」は、監督自身がレプリカを作って建てたものです。科学文明が大嫌いなユナ・ボマーは、山の中に住んで「今日はリスをつかまえてシチューにした」とか「爆弾をどこそこに送ったけど、誰も死ななくて悲しい」などという日記を書いていたのですが、作品でも、それがナレーションに入っています。ところが、どれだけ山奥に行っても、遠くでダイナマイトが爆発したり、上をヘリが飛ぶ音が聞こえてしまう。ユナ・ボマーはそのことに怒り狂うのですが、そのような人工音を映画で聞かせたりして、自然と人間文明の対峙みたいなことを、映画のひとつのテーマにしているのですね。いくら野生に帰れ、と言っても、人間の手がどこまでも入り込んでいる皮肉を描いて、ユナ・ボマーが逃げ切れなかった部分と、現在の監督の状況とを作品に反映させている。そういう意味ではドキュメンタリーと言えるかな、と思います。

『ステンプル・パス』

 —— 他の作品に関しては、いかがですか?

山下:70年代の作品でいうと『セントラル・リージョン』(1971 監督:マイケル・スノウ)という作品があります。実験映画の古典的な作品でもありますが、『リヴァイアサン』ともつながりがあって、ロボットアームにカメラを取り付けて、それをぐーっと動かして風景を撮る。映っているのは荒野だけです。しかし監督は、この時「映画の究極とは何か」を問い続けていて、ひとつの頂点というかたちで作品化されたものがこの『セントラル・リージョン』です。以前上映された『←→(バック・アンド・フォース)』(1968−69)も、教室の中をずっとカメラがパンしていき、最初はゆっくりなんですけど、徐々に授業を受けている人が出てきたりする。映画とはやはり時間と動きだということに最終的に行きついた、という作品です。

『ブルース・レイシー教授の人間王国』のブルース・レイシーという人も、映像作家というよりはパフォーマンス・アーティストなのですが、そのうちの1本『レイシー家の儀式』(1973)という作品は、ドキュメンタリーはこうだ、と思っている常識を逆転させていく映画です。ひとことでいえば、監督を含めた家族全員で演技をしているんです。朝起きて、コーヒーを入れて、歯を磨いて、お風呂に入る…みたいな事を、カメラを回して家族みんなで再現する。これは面白いですよ。子供たちに「○○ちゃんがいまからお絵描きをします、はい、スタート」という感じでやらせている。「フィルムが少ないからはやく描き終わって!」みたいなやりとりをしながら、一日の中で毎日やっている“儀式”を、カメラの前でみんなで再現して、作品を作っているんですね。

—— 鈴木志郎康さんが『15日間』(1976)で語していることを、家族にやらせてしまうみたいなことですかね?

山下:この人自体がパフォーマンス・アーティストなので、ある種演劇的な要素もありますね。演劇とドキュメンタリーは相反する要素がありながら、一方で似た要素もある。想田和弘監督の『演劇』(2012)も、カメラの前でプレゼンテーションする要素のある作品ですよね。『レイシー家の儀式』もそういう側面があって、観ていてとても楽しい映画ではあるんですけど。

『レイシー家の儀式』

—— カメラの中で何かを演じていく状況の記録、という意味ではドキュメンタリー的な部分がありますね。

山下:日常生活を映していく、という意味ではドキュメンタリーだけれども、全部、演出されていますからね。いつもやっていることではあるけれども、カメラの前で「はい、やろう」と言ってやっている。そういう意味では常識を疑うというか、問うような作品でもありますよね。

—— あとは『ウォールデン』(1969 監督:ジョナス・メカス)がありますが、これはけっこう有名な作品ではないでしょうか。日本での上映は珍しいのですか?

山下:日本では、もしかしたら通しでやるのは初めてかもしれません。なぜ『ウォールデン』かというと、まずジョナス・メカスが完成させた日記映画で、いちばん最初の作品であることと、メカスが昨年90歳になって、ポンピドー・センターで個展が開かれたんですが、そこでいろいろと作品がレストアされていく中で、『ウォールデン』にも日本語字幕がついて、上映の機運が高まった、というのもあります。あとはオルタナティブな意味としてのドキュメンタリー、という意味では、メカスは元祖みたいな人だと思うので。

—— 登場人物だけを見ても、ビートニクから何から、1960年代のニューヨークのシーンを彩った人たちが総出演していますよね。

山下:そういう意味では、ドキュメンタリーの「記録を撮るのは誰か」という問題に対して、拡がりを最初に持たせた人がジョナス・メカスだと思うし、あらためて今見ると、やっぱりすごいですよ。アンディー・ウォーホールとか、アレン・ギンズバーグみたいな有名人がたくさん登場している、という驚きもありますが、基本的に全て個人で撮っていますからね。みなメカスの友人で、実際に個人的に会いにいった時に撮っている。そういう意味では画期的な人です。

『ウォールデン』

—— 今、ざっとうかがった「創造するドキュメンタリー」という言葉で括られた6つの作品だけでも、実に多種多様な方向性がありますね。

山下:特集上映には入っていませんが、中国の実験映画プログラム(Kプログラム)も、特集のテーマに近い意識で撮られている作品がありますよ。例えば『誰かの眼』(2011 監督:タン・タン)という作品では、監視カメラの映像を使っているんです。監視カメラの映像の中で暴力事件が起きたりして、それがモニタリングみたいな分割した画面で出てくる。実際に監視カメラの映像を使用していると、何も起こらない画面というのがあったり、作家が作品のために撮っている画面があったりするんですね。それはドキュメンタリーかどうなのか。事実とは何か。誰が記録するのか。誰が記録されるのか。だから『誰かの眼』というタイトルなのですが、ドキュメンタリーに対する問いの意識が働いているんですね。

中国の実験映画事情は過去にも何回か特集していますが、意外に鮮烈でポップな作品もあって、バラエティに富んでいる。去年はアニメーションに特化しましたが、今年はもう少しいろいろな作品を入れています。ギャラリー系の作家もいれば、のちのち劇映画を撮りそうな人や、この人はアニメーション作家だ、みたいな人もいる。大々的な上映ができない分、ぐっと状況が凝縮されている感じがします、ドキュメンタリーも面白い作品がいっぱいありますもんね、ジャーナリスティックな視点を持っている人もいますし。『海への路』(2010 監督:グー・タオ)はドキュメンタリーですよ。とても審美的で、ポエティックな作品です。

『海への路』

——そのような作品はやはり、中国国内での上映機会はあまりないのですか?

山下:日本とは違う意味でいろいろ不自由な部分がある国なので、友人同士のDVD交換とか、ギャラリーでの上映がほとんどです。今回来日するチャン・ヤーシュアンさんという人が中国インディペンデント、アーカイブを設立して、作品の収集や配給事業をしており、トークショーもあります(5/4 18:45の回)ので、そのあたりの事情が聞けるかもしれません。

——それこそ日本でも60年代には実験映画と、ドキュメンタリーが相互に刺激を与えていた歴史がありますが、状況が並走している感じは面白いですね。

山下:作品自体が持っているエネルギーに60年代の終わり頃の熱のようなものが感じられますし、つまりは社会の変容期、ということですよね。裸になってパフォーマンスするような作品や、実存的な作品もあって、テーマ的には日本の60年代に近いものがありますけど、メディアは全然違いますから、今回これだけ紹介しても、まだまだ面白い作品が出てきますよね。どれだけの人に見られているかは分からないですけど。

——そのほかの公募作品や招待作品については、どのような感触をお持ちですか?

山下:ある種傾向のようなことしか言えないのですが、ここ数年アニメーションが増えて、手作り感覚の面白さを持つ新しいアニメーション作家が生まれてきた、というのがありましたが、今年は数的には落ち着いて、ある種、成熟してきたのかなとも思います。ドキュメンタリーも、パーソナルドキュメンタリーや、題材にこだわるドキュメンタリーが数の上では少なくなってきています。むしろ話の伝え方をテーマにしていたり、抽象的な表現が増えてきているという傾向はありますね。

——フィルムをテーマにした作品についてはいかがですか?

山下:純粋にフィルムで撮ってフィルムで上映する作品は既に2、3本しかないですけど、製作の過程でフィルムが介在する作品や、フィルムそのものがテーマの作品は多いですね。フィルムが持っている表現性というのは、まだまだ興味の対象にされていて、表現のインスパイアの元としてはまだまだあるようですね。『フィルム石磨きフィルム石置き去り』(2012 監督:鈴木余位)に至っては、フィルムで作った固まりを抱いて朗読する、というパフォーマンス作品でもあります。

——『DIGITAL-CINECALLGRAPHY』(2012監督:倉重哲二)さんのように、フィルムメディア自体を自分で生産してしまうような方も出てきました。

山下:フィルム自体は、インディペンデント・ラボと言って、個人でフィルムを作って現像しちゃおう、みたいな動きが世界各地で生じていますね。生産が中止され、フィルム表現が無くなってしまうかと言うと、しぶとく残っているでしょうし、まだまだ表現としても追求されていくでしょう。

——最後に、あらためて全体を俯瞰した上で、ドキュメンタリーという表現について考えることはありますか。

山下:単純に新しい表現は何か、今の作品とは何か、を考えながら作品を見ていくと、自ずとドキュメンタリーに行き当たる。そういう意味でドキュメンタリーは、きわめて現代的なテーマであると思います。現状においては一番刺激的なジャンルというか、テーマだと思うんですね。

ネットなんかでは、個人的に「こういうことをやりました!」という記録が、日々いろんな映像の形で溢れている。ある種記録と言うか、映像を撮ったからそれが事実というような、「証拠という意味での映像」として使われることが、あまりにも一般化している。果たして、そこに映っているものだけが事実なのか?それだけではないのでは?ということは考えたいですよね。このフェスティバルから生まれる「ドキュメンタリー」の可能性もある、ということは、これからも常に提示していきたい、と思っています。

*ユナ・ボマー(1942-)本名・セオドア・ジョン・カジンスキー。1978年5月から1995年にかけて全米各地の大学と航空業界および金融関係者に爆発物を送りつけ、3人が死亡、29人以上が重軽傷を負った事件を起こし、収監中。「ユナボマー」とはUniversity and Airline Bomberを短縮した造語。

会場のひとつ「シアターイメージフォーラム」(渋谷)

 

【映画祭情報】

『イメージフォーラムフェスティバル2013』
特集「創造するドキュメンタリー、無限の映画眼」


東 京:4月27日(土)〜5月 6日(月)パークタワーホール
    4月29日(金)〜5月 7日(土)シアター・イメージフォーラム
京 都:5月18日(土)〜5月24日(金)京都シネマ
福 岡:6月 5日(水)〜6月 9日(日)福岡市総合図書館
名古屋:6月12日(水)〜6月16日(日)愛知芸術文化センター

主催:イメージフォーラム/共催:京都シネマ
協賛:株式会社リビング・デザインセンター
助成:芸術文化振興基金助成事業、公益財団法人ポーラ美術振興財団 
協力:株式会社ダゲレオ出版
後援:オーストリア大使館/ オーストリア文化フォーラム

 【チケット】※当日券
東京/京都
1回券:1,200円
※シアター・イメージフォーラム会員/京都シネマ会員は会員証提示で当日1回券を200円割引
4回券: 3,200円
フリーパス券: 8,000 円

福岡/名古屋
1回券:1,000円
※シアター・イメージフォーラム会員/京都シネマ会員は会員証提示で当日1回券を200円割引
4回券: 2,500円
フリーパス券: 4,500 円

公式サイト:http://imageforumfestival.com/

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【Report】 出品作家から見た「イメージフォーラム・フェスティバル2012」
text 佐藤健人→http://webneo.org/archives/1798

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text 中村のり子→http://webneo.org/archives/1815