【Report & Interview】ゆふいん文化・記録映画祭~地方の映画祭の可能性を探る~ text 藤田修平


乙丸公民館での懇親会の様子02_中谷健太郎さんが挨拶
温泉で有名な大分県由布市の由布院盆地には二つの映画祭が存在する。
ひとつは湯布院映画祭。日本で最初の地方の映画祭であり、1976年の誕生以来、37年の長い歴史を誇り、毎年、夏になると全国から映画(邦画)ファンが集まり、映画関係者を交えて映画漬けの日々を過ごしている。

そして、もうひとつがゆふいん文化・記録映画祭。湯布院映画祭に比べると、全国的な知名度は高いとは言えないが、地域の人たちが企画・運営を行い、観客の多くも湯布院町周辺の人たち、という地元志向の映画祭で、今年で16年目を迎え、この6月28〜30日に開催される。

若いスタッフの姿が目立ち、公民館大ホールが満員状態になったり、講演会に熱心に耳を傾ける聴衆の姿があったりと、独特の熱気があり、文化映画や産業映画、PR映画、ニュース映画などを発掘するプログラムと合わせて、文化・記録映画祭は湯布院映画祭に負けない個性を持つに至っている。現在、地方の映画祭は苦戦を続けているが、この文化・記録映画祭は一つの成功例として考えられるだろう。

さて、ここで地方の映画祭の歴史をざっと振り返ってみると、湯布院映画祭が誕生した後、その成功は話題になったものの、その試みがすぐに全国に拡がることはなかった。というのも、多大な労力(ボランティア)と資金(赤字の補填)が必要であったからである。しかし、公的な支援が入り始めるとその状況は変化する。1980年代に入り、地域の文化行政が首長の下で行われるようになると、「まちおこし」の目玉として映画祭を企画する自治体が現れる。(ふるさと創生基金を使ったゆうばり国際ファンタスティック映画祭がその代表例である。)1990年代にはバブル経済の崩壊によって、大規模な映画祭は開催されなくなるものの、国の外郭団体から国内の映画祭への助成が始まり、そこに地方自治体からの支援も加わって、日本各地に小さな映画祭が次々と誕生していく。

2007年にコミュニティシネマ支援センターが行った「映画祭に関する基礎調査」に目を通すと、なんと127もの映画祭が記載されているのである。例えば北海道であれば、ゆうばりの他に、neoアジア映画祭inあさひかわ、星の降る里芦別映画学校、さっぽろ映画祭、札幌国際短編映画祭、SHINTOKU 空想の森映画祭、函館港イルミナシオン映画祭、北海道ユニバーサル上映映画祭。東北地方では@ffあおもり映画祭(青森県)、あきた十文字映画祭(秋田県)、ショートピース! 仙台短篇映画祭(宮城県)など。

しかし、それから5年も経たないうちに、今度は一転して、映画祭の「突然死」が立て続けに起こり始める。上で挙げた映画祭では20年続いたさっぽろ映画祭は2008年を最後として、14年続いてきたneoアジア映画祭も2009年を最後として、それ以降、開催はない。しかも、その終了に関して詳しい説明がなされた様子がないのである。

こうした映画祭の「突然死」と都内でミニシアターが次々と閉館していった背景には共通性があり、そこには作家の映画、特にフィクション映画に対する関心の低下があるように思われる。映画館を訪れて気付くことは、海外の映画祭で高く評価されたフィクション映画の場合、観客の年齢層が高く、ドキュメンタリー映画になると若い人たちが増え、全体的な観客数も増えるということである。(20年前にドキュメンタリー映画ばかりが上映されるといった状況を誰が想像できただろうか。)こうした現象が地方の映画祭でも起こり、若い人たちの参加が減り、世代交代が進まず、活動の停止につながったと推察される。そう考えると、あの長い歴史を持った湯布院映画祭も安泰とは言えないかもしれない。というのも、実行委員長の世代交代が行われておらず、観客の高齢化が進んでいるからである。

その一方で、ゆふいん文化・記録映画祭では世代交代が行われた。この映画祭は由布院盆地のまちづくりのリーダーであり、湯布院映画祭の創設に深く関わった中谷健太郎さんが提案して1998年に始まったが、中谷さんは第10回まで実行委員長を務めた後は、その運営を若い世代に委ねた。現在は実行委員長の清水聡ニさんと事務局長の小林華弥子さんを中心とした体制に代わったが、この時、新しい試みが行われることにもなった。

それはドキュメンタリー映画の特徴を活かして、映画を一つのきっかけ(口実)として、地域の人たちが社会の問題を考えたり、講演会を行ったりする目的のために使うという試みである。昨年、印象に残った上映会に、小児ガンを扱ったドキュメンタリー映画『大丈夫。-小児科医・細谷亮太のコトバ-』(2011、監督:伊勢真一)があった。司会を務めたのは、子供を亡くされた女性で、会場は立ち見の場所もない超満員となったのだが、それは映画に登場する医師の細谷亮太さんの講演があったからで、映画は講演会の前座として使われたのである。そして、その上映の後、地域で同じ悩みを持つ女性たちが司会者の女性と細谷さんのもとに集まる、という光景が見られた。

事務局長の小林さんは、映画祭を地元の人たちが自分たちの思いを届ける場所として考え、映画祭の枠を地元の人たちに開放した、と語る。これは地域と映画祭の関係を考える上で、とても興味深い取り組みであり、地方の映画祭のあり方を考える上で参考になるかもしれない。また、それは近年のドキュメンタリー映画の人気を説明する手がかりにもなるかもしれない。暗闇でじっくりと作品を鑑賞するために映画館に行く、というより、映画館に足を運ぶことが、映画が取り上げた社会の問題と関連した活動に(間接的に)参加する、という意識が観客のなかに存在するように思われるからである。そのため、ドキュメンタリー映画の上映ではゲストトークが重要になる。

ここではゆふいん文化・記録映画祭の特徴(地元との関係)や近年の試み、そして、6月末に行われる今年の映画祭について、小林華弥子事務局長と清水聡ニ実行委員長のインタビューを紹介する。

 (藤田修平 ゆふいん文化記録映画祭「松川賞」選考委員)


 事務局長の小林華弥子さんb小林華弥子さん

ゆふいん文化・記録映画祭事務局長。エチオピア生まれ、香港・東京育ち。外資系金融機関を経て、中谷健太郎氏のもとで亀の井別荘にて勤務。2004年に湯布院町議会議員となり、現在は由布市議会議員。ゆふいん文化・記録映画祭には第1回からスタッフとして参加。



地域の人たちが参加できる映画祭を目指して~素人を逆手に取る〜
湯布院映画祭との違い

湯布院町のまちづくりでは夏の湯布院映画祭が、ゆふいん音楽祭、牛喰い絶叫大会と並んで三大看板と言われていたのですが、私も湯布院に来て、まちおこしイベントのスタッフをやっているなかで分かったのは、湯布院映画祭に対する批判がすごく大きくなっていたことでした。

映画好きの人が勝手に東京からやってきて、スタッフも湯布院の人でなく大分の人で、夏休みの一番忙しい稼ぎ時に行われると。映画祭に関わっていない人には、湯布院という名前を使って、よその人たち、映画オタクの人たちが勝手なイベントをしているように思われていた。だから、中谷健太郎さん(亀の井別荘の経営者、由布院温泉観光協会長)が文化・記録映画祭を始めると言い始めた時、地元の人たちが観に行ける、地元の人たちが関わることのできる映画祭にしたいね、と話しました。そして、とにかく地元の人で実行委員会を作ろうと。

とはいっても、映画祭のノウハウを知らないので、最初は映画評論家の野村正昭さんとか夏の湯布院映画祭の事務局長の横田茂美さんに入ってもらって、映画祭のノウハウを教わりました。だから第1回、第2回、第3回の作品選びはほぼ100%、野村さんと横田さんと、実行委員長の中谷健太郎さんが中心になって決めていた。

地元の人達にとっては、こういう記録映画の世界があることを知らなかった。この世界で食べている人達がいるとか、こんな映画、どこで上映しているのだろうとか、新しい世界が開かれたような面白さがあって、野村さんの言葉で言えば、出すもの、出すもの入れ食い状態でした。土本典昭さんや小川紳介さんの映画を観たことがなかったし、松川八洲雄さんという名前も存在も知らなかった。そういうところから始まった。

 ※注 湯布院映画祭は1976年に始まった映画祭で、文化・記録映画祭と同じ会場で8月に行われる。地域名を冠して行われる地方の映画祭としては日本で最初の映画祭で、由布院盆地のまちづくりのリーダーであった中谷健太郎さんが大分市の自主上映団体であった「大分良い映画を見る会」に提案する形で始まった。

二つの方向性をめぐる議論

ただ、第4回目あたりから今年、何を上映するかという時に、作家性を重んじる野村さん、横田さんの傾向と地元の私たちの傾向が食い違い始めた。野村さんや横田さんにしてみれば、土本さんの作品を味わいたいということで作品をラインナップしようとした。私たちは題材のテーマに興味があるから映画を観たいので、映画の作品としての良し悪しよりも、知らないことを知らせてくれるということのほうが面白いということになって、作品選びで議論が噛み合わなくなっていった。

その頃から文化・記録映画祭をどういう方向にしたいのという議論が活発になり、第4回にNHKのテレビ番組を上映した。もっと普通の人、一般の人が観られるものをやろう、映画でなくてもいい。たまたま映画になっているけど、演劇やってもいいし、講演会やってもいいし、という話になって、湯布院文化祭でもいいのではという形に第4回、5回、6回あたりからはなってきた。とにかく湯布院に関わる人を集めてなんでもありの場にしようと。

それで第6回目から、映画祭の夜の打ち上げの場所を、由布院地区の中心にある乙丸公民館に移しました。それで、地元の若い人たちに関わってもらって、なるべく映画色を薄めようとしていったのね。映画の素人であることを逆手にとってみようと。よく山形と並べて言われる人もいるのですが、素人の人たちが映像を媒介にいろいろなことをやっているだけで、立派な映画祭をやるのではないという気持ちがあるのです。それに湯布院町には映画祭にかかわらず、世界中からいろいろな人達が来てくれて、筑紫哲也さんとか、池内了先生だとか、ずっと古くから由布院を愛してくれていた人たちがいて、その人達のご縁を映画祭の場所で使わせていただこうと思っています。

新しいゆふいん文化・記録映画祭に向けて

——第一回から実行委員長を務めていた中谷健太郎さんが退き、清水聡ニさんと小林華弥子さんがそれぞれ実行委員長と事務局長に代わりました。変わった点や新しい取り組みはありますか。昨年の映画祭では『大丈夫』や『しんかい』の上映とその後の講演が印象に残りました。

湯布院町にはいろんな活動をしているグループが本当にいっぱいあって、それを集めてやれば面白いものができるのではと考えていました。『大丈夫。-小児科医・細谷亮太のコトバ-』(2011、監督:伊勢真一)を企画した女性たちは、映画祭と関わったことも、来たことがないという人たちです。この映画のことは新聞で知って、床屋の若い人に「湯布院町って映画祭やっているでしょう。自主上映会とか各地でよくやっているけど、この映画、観るにはどうしたらいいか、映画祭の人に聞きたいのだけど」と話したことから、私に電話がかかってきた。

『大丈夫』の上映後の細谷亮太さんの講演_02

同じ例としては、その前の年に取り上げた『王墓を掘る男』(1975、製作:九州朝日放送 )。これは北九州の伊都国の邪馬台国九州伝説を捉えた考古学者のドキュメンタリーテレビ番組で、考古学にすごく興味がある人がこの作品を持ってきた。

さらにその前の年は『アリサ・ヒトから人間への記録』( 1986、監督:山崎定人)。これは保育園の女の子が成長するのをずっと追いかけた映画で、湯布院町の歯医者さんの奥さんが幼児教育に興味があって、そういう映画の上映をやりたいと。

これらは私達がやりたいと思ってやった企画ではなくて、“スタッフ持ち込み企画”と呼んでいて、本人たちにスタッフになってもらうのだけど、もちろんみんなで試写していいとか悪いとか言うのですが、その枠については作品の良し悪しとか、文化・映画祭的であるかどうかは一切問わない。企画をしたい人の熱意を買って、どんなにつまらない映画でも、面白く無い映画でも、それを使ってその人が何かを訴えたい、みんなに投げかけたい、という思いを尊重して、そのことのために一つの場所を提供しようと考えています。それは映画祭じゃなくて、かつて、この映画祭は文化祭になってもいいよね、といったことと通じていて、この場を町の人たちがみんなで思いを発して、いろんな人たちと共有できる場に使ってくださいと考えています。

その最たる例が昨年、上映した『大いなる海のフロンティア~しんかい6500~』、(1990、企画:三菱重工)『有人潜水調査船 しんかいの系譜』(2011、企画:独立法人海洋研究開発機構、監督・脚本:五味和宣)。企画した人は潜水艦や船が大好きで、これを上映して、JAMSTEC(海洋研究開発機構)の人を呼んで、話を聞きたいと言ってきた。それで試写したら、全然、映画としては面白くないの。だけど、そういう世界の現場で働いている人の話を聞いてみたいというスタッフの思いがとても強くて、この場を使ってもらおうと。

『大いなる海のフロンティア 〜しんかい6500〜』上映後の櫻井利明さんの講演

ただ、それだけではプログラムにならない時もあるのですね。例えば、去年で言えば『ヒマラヤを越える子供たち』(2000、監督:Maria Blumencron)。チベットの子供の里親になっている方が、チベットの問題をみんなに知ってもらいたいから、ゆふいん文化・記録映画祭の場を使って是非、上映して欲しい、と持ち込んだので、どうぞということになった。ただ、それだけではプログラムにならない。だから、他の映画『Tibet Tibet』(2008、監督:キム・スンヨン )を探してきて、それと一緒にセットにしてお客さんにも楽しんでもらえるようにしました。こうしたプログラム作りは私達がやります。

昨年は原発事故から2年目で、急に3・11のことを忘れたかのようなことはしたくないという思いがあって、それでどうする、という時に、原発記録映画『岩礁に築く発電所』(1975、監督:樋口源一郎 )を見せ、時代的に追っかけていって、火力発電『海壁』(1959、監督:黒木和雄 )を見せ、原発建設の是非で揺れた作品『続・原発に映る民主主義 ~そして民意は示された~』(1996、新潟放送 演出:宮島敏郎 )を見せ、このラインナップでこの人達の話を聴かせるという、そのパッケージを面白がってほしいと。

あと、文化・記録映画祭って、私の性格につながるひねくれたところがあって、ベタなことをやりたくない、同じ原発問題でも、ちょっとひねってやりたいというところはあります。だから、今年の『日本国憲法』(2005 、監督:ジャン・ユンカーマン)は最後までスタッフの間で揉めて決まらなかったのです。

地元の人たちの参加を促す運営

以前は事務局がいろんなことを決めて仕事をスタッフに割り振っていった。そうすると事務局長の手伝いをするだけになって面白くない。だから、第11回目からは担当者を決めて、好きにやってもらうことにしました。例えば、会場ではお弁当を売っていますよね、それまでは事務局で発注して、いくらで売ってとかも全部決めて、スタッフはザアア取りに行くだけだったけど、食事担当を決めた後は、好きなお店探してきてそれを売ってもいいし、自分たちで作っても売ってもいいし、会場のお客さんがなにか食べられればそれでいいから、好きにやってと任せました。

会場のレイアウトや装飾も、事務局でここにあれを貼り付けて、ここにポスターを作って、と割り振るよりも、それが好きなスタッフに好きにやってよと任せた。そうすると、面白がって工夫してやってくれます。本の担当も本だけじゃなくて、グッズを探してきて売ってきて、それが好評だったりと。それがスタッフの醍醐味じゃないですか。

それと、湯布院町には若者グループがいくつかあって、一つは観光協会の青年部組織である催事企画委員会、それに新町青年会といって、駅前地区の青年団、それに温湯若衆という金鱗湖の周辺の観光地区の若者グループ、あと商工会青年部といった若い人たちのグループがあって、それぞれに夜の映画祭の打ち上げで屋台風のお店をやってもらうことにしました。

ところで、ここ2,3年のことですが、文化・記録映画祭はいいねと言って、快くお金(寄付)を出してくれる事業所の人がいっぱいいます。スタッフも地元の人なので、映画祭との距離が近くて、劇映画と違って馴染みやすいし、映画ファンでなくてもいいし、1本でも2本でも興味のあるものだけ観に来ることができて、あれは面白いね、と言ってくれる人が多くなっていますね。