沖縄県東村高江の集落を取り囲むように、米軍(海兵隊)の北部演習場はある。やんばるの美しい森にかこまれた上空から、狙いをつけるようにオスプレイが飛行する。新設されるヘリパッドの建設の予定地を、旋回するように飛び回る。
かりに私たちの家の隣に基地があったとすると、どうだろう。夜10時までヘリが上空に飛び交い町中に轟音が鳴る。日中は林から訓練する兵士が顔をだす。それが、戦後から現在までつづく沖縄の日常である。
映画『標的の村』は、沖縄県東村高江の集落をキャメラの中心にすえている。おもに基地と住民の関係を映しこんだキャメラは、日本と米国の関係性まであぶりだしていく。住民たちはヘリパッド新設に抗議して22時間普天間基地に座りこんだ。彼らは豊かな自然を壊すなと私たちに問う。
ヘリパッドの反対運動は、なぜ6年間つづけられているのか。キャメラは、国、県、村と、住民たちの衝突を映しだす。ヘリパッドが建設されてしまえば、住民たちの生活は奪われる。基地をめぐる問題に、ドキュメンタリー映画『標的の村』は深いメスを入れた。
冒頭、怒号が飛びかうなかで、高江の集落の者たちの座りこみが映される。防衛局が計画見直しの要請を無視してヘリパッドの工事をはじめてしまったのだ。集落の者たちの顔は、怒りと戸惑い、また悲しみに彩られている。オスプレイは、墜落事故が多発して、また爆音・爆風による騒音、森の生態系の破壊をまねいてしまう。
キャメラは、反対運動の中心的な人物である安次嶺さん、伊佐さんの生活へ入りこんでいく。安次嶺さんの場合は農地の栽培とカフェ山甌(やまがめ)の経営。伊佐さんの場合は、木工職人としての生活である。集落の者たちのごくふつうの生活が、ヘリパッドの建設によって壊されてしまう。座りこみの運動は2007年からはじめられて、一触即発の状態がいまもつづいているのだ。
キャメラは座りこみの現場を映しながら、国が住民を訴えるという聞きなれない「SLAPP(スラップ)裁判」、高江の住民が米国の仮想敵として狩りだされたという「ベトナム村」の問題を指摘する。ともに高江の住民をとりかこむ問題から、沖縄、ひいては日本の歴史的な背景をさぐりはじめる。
本土にいる者は、沖縄の反対運動をになう者たちの声があまりに素直にあらわれているのに、すこし違和感を抱くかもしれない。私ははじめ、彼らの生活や座りこみをなぜ不自然なく撮影できるのか疑問だった。だが、すぐ疑問は氷解した。地元の琉球朝日放送というローカルテレビ局が制作したドキュメンタリーだからだ。撮影をはじめたのは2006年というから、キャメラは、集落の者たちと関係性をじっくりと構築していったのであろう。
座りこみの現場で、集落の者が工事関係者と言い争うシーンがある。記者は、小型のキャメラをあつかっている。ショルダースタイルのキャメラでは入りこめない現場に小型のキャメラは簡単に入りこめる。ほぼ身動きのとれない現場では非常に有効な方法である。とくにリアルタイムな事件の現場で効果を発揮するのだろう(ブラジルのリオデジャネイロのバスハイジャック事件を撮影したジョゼ・パジーリャ監督『バス174』のように)。小型のキャメラからショルダースタイルのキャメラを使い分けた映像の構成は、人の姿を能動的にとらえる。反対運動をする者と、キャメラを持つ者の情熱がシンクロするのだ。冒頭の空撮から、ティルト、ズームイン、パンまで、高度な技術がキャメラにはある。ディレクターの演出があったとしても、ごくささいなものだったろう。
先にいった「SLAAP(スラップ)裁判」、「ベトナム村」は、くりかえすが、ともに高江の住民をとりかこむ問題である。では、彼らは誰にとりかこまれているのだろうか。
高江は、まず米軍(海兵隊)の演習場にとりかこまれている。冒頭の空撮でみる高江は象徴的である。1960年に狩りだされたという「ベトナム村」の問題をみてもうなずける。しかも彼らは、米軍だけでなく日本政府からも道交法違反で訴えられた(「SLAAP裁判」)。つまり彼らは日本政府・米国の両国にとりかこまれているのだ。『標的の村』は、日本政府と米国が敵で、住民たちや、支援者が味方という構図をえがいている。日本政府と米国を縦糸に、沖縄と日本(人)の関係性を横糸に配置しているのだ。
沖縄の基地は、米露の冷戦構造から、台頭する中国や、北朝鮮のテロの脅威から日本を守る楯、もしくは軍の母体とされた。2001年の9・11の同時多発テロ以降は、在日米軍が再編されている。高江のヘリパッドの建設は、普天間基地の移設とセットで語られるべき問題ではないか。
その点で同じ琉球朝日放送が撮影した特別報道番組『海にすわる~辺野古600日間の闘い~』は出色の出来である。内容はもっと全国的に知られていい番組である。こちらは「沖縄の加害性」に着目している番組だ。アメリカのベトナム戦争、イラク派兵ともに沖縄は最前線の基地とされていた。住民たちはつねに胸を痛めていたという。住民たちはボーリング調査のため建てられた海のやぐらへ座りこみ、基地建設反対を訴えた。基地建設反対は、すなわち戦争反対へつながる。つまり、反対運動は憲法を遵守させる闘いでもある。住民たちは最終的に辺野古の基地建設に待ったをかけた。だが、1996年のSACO合意により、ひそかに基地計画案が持ちあがってしまったのだ。
普天間基地移設の問題で「最低でも県外」と鳩山元首相は言った。2012年、「沖縄タイムス」は、普天間基地移設は辺野古を断念したと報道した。現在はオスプレイの追加配備にたいして住民たちが「NO」の声をあげているのだ。ヘリパッド新設に待ったはかけられないのか。映画『標的の村』は、そんな記者たちや住民の熱い魂が生んだドキュメントなのだ。
ただキャメラは、『海にすわる~辺野古600日間の闘い~』とは別で、沖縄や高江の「被害者」としての心性を映しこんでいると私はみた。ここでの「加害者」は日本政府と米国(米軍基地)である。
ここで疑問を解消しておきたい。はたして「加害者」は本当に日本政府と米国なのか。むろん『標的の村』の高江の現状をみれば、それはあきらかなのだが、私はキャメラのやや断定的なものの言い方に、少々、面食らったのである。
ちょうどよく、私は2013年7月末に沖縄へ飛んでいた。8月6日の、宜野座のヘリ墜落前である。墜落後に日本の世論は沸騰した。私は、本土に帰ってからヘリの墜落を確認した。沖縄にもうすこし滞在していればと悔やんでいる。基地問題の動向が変わるかもしれない。現場でそれを見ておきたかったのである。
私は普天間基地野嵩ゲート前で米兵の一人と出会った。「フェンスの先に、私の家がある。私たち米軍は日本を守っているのだ。なぜ彼ら〈日本人〉に抗議活動をされているのかわからない」。彼は、反対運動をする者がフェンスにくくりつけていくリボンをはがしながら、言った。
また別の住民は言う。「基地は沖縄のものではないのだ。日本のもののはずだ。はやく沖縄から日本へ持ち帰って欲しい」。
そもそも「沖縄を基地化すれば日本本土に軍隊は必要ない」といったのは他ならぬマッカーサーである。天皇も「長期の――二五年から五〇年ないしそれ以上の――貸与」という条件付ではあれ、沖縄の基地化を望んだ。戦後まもなくは沖縄に選挙権がなく、憲法制定時の国会に代表者はいなかった。日本の憲法と戦後民主主義は、沖縄を除いた自国中心の平和主義として定着していった背景があるのだ(※)。
「基地は沖縄のものではない」という意見もまた、住民たちの本音なのではないか。だが、考えて欲しい。基地を日本へ持ち帰ったからと言っても、問題が解決するわけではないし、もとは「沖縄を基地化すれば日本本土に軍隊は必要ない」と言ったのは、他ならぬマッカーサーであるのだ。
この発言は、本土を中心とした平和主義にたいする反発なのだ。つまり彼らにとって本土の「戦後」は「戦後」ではなかった。なぜなら占領(半植民地化)は沖縄でつづいていたのだから。同じように「本土復帰」は、ほんらい彼らが望んだ復帰ではなかったのだ。住民は「復帰は期待していた方向とは別となってしまった」とこぼしていたのだ。
私は、もはや完全な復興を遂げた沖縄を歩きながら、考えた。果たして、問題の解決の糸口はどこにあるのか。そして、私たち日本人はこの問題にたいして、いかなるアプローチをすべきなのか。もはや戦後から遠く離れ、観光地化された「沖縄」しか知らない私のような世代に、戦後の沖縄を理解しろと言われても、じつは雲をつかむような作業なのだ。
日米両国の安全保障の問題を解決すれば、基地はなくなるのだろうか。自衛隊は違憲なのか。今後、憲法9条はどうなるのか。そんなことを考えつつ、課題の多さに、しばらく頭を抱えてしまったのである。
『標的の村』は、高江の集落の豊かさを映しだしている。また、沖縄県東村高江の住民を中心としながら、沖縄の史観を展開していると私はみた。彼らへ寄りそうというよりも、撮影者自身も当事者なのだという気概をもって集落を映しこんだと言っていいのかもしれない。だが、観終えた後にふと疑問がよぎる理由は、ふだん私たちが見慣れている、もしくは感じ取っている日本人=ヤマト中心の思考をずらしているからではないか。恐らくそれは、沖縄だけではない。他国でも言えることなのではないか。
(※)『憲法九条はなぜ制定されたか』(岩波ブックレット 古関彰一著・2006年)より
【上映情報】
『標的の村』
(2013年/HD/日本/91分/ドキュメンタリー)
ナレーション:三上智恵 音楽:上地正昭 構成:松石泉 題字:金城実
編集:寺田俊樹・新垣康之 撮影:寺田俊樹・QAB報道部 音声:木田洋
タイトル:新垣政樹 MA:茶畑三男
プロデューサー:謝花尚 監督:三上智恵
制作・著作:琉球朝日放送 配給:東風
公開中
東京・ポレポレ東中野/大阪・第七藝術劇場ほか
9月7日(土)より、沖縄・桜坂劇場にて公開
ほか全国順次公開
公式HP:http://hyoteki.com/
監督インタビューはこちらから
【執筆者情報】
岩崎孝正(いわさき・たかまさ)
1985年福島県生まれ。フリーライター。現在相馬市在住。せんだいメディアテークの「わすれン!」に参加しています。