日々は無為に過ぎていく。視線は宙を漂い、その視線がなにかを捉えることはない。それが日常というものだ。
人が生きることを実感するのは、この視線が何かを捉えたと感じる瞬間ではないだろうか。だが、その瞬間も、永遠に続いていく現在にすぐに押し流されてしまう。私たちの生活は、惰性的で弛緩した時間に支配され続けているのだから。だからこそ写真家は、その日常の中に顔を覗かせる一瞬の裂け目を記録しようとするのかもしれない。
牛腸茂雄の『見慣れた街の中で』を前にして、私の視線は宙吊りにされる。この写真集には、彼の他の写真集『日々』や『SELF AND OTHERS』で感じることができるある確さがないのだ。『日々』には、日常の中では見落としてしまいそうな、些細な瞬間を捉えているという確かさがあった。その日常の手触りを確かめることが、有限の人生を自覚することもあるかのように。また、『SELF AND OTHERS』では、自己と相対する他者の存在を捉えているという確かさがあった。他者を見出し、その他者から見つめ返されることが、自己の存在を確認することでもあるかのように。だが、『見慣れた街の中で』において、その視線が明確に何かを捉えることはない。何かを掴みかけても、次の瞬間には、その手から逃れていってしまう。この感覚は、私が日々感じている日常の感覚そのものだ。そして、何も捉えることができずに宙吊りになった視線は、写真の外の今現在である、写真を見ている私の日常へと返ってくる。
牛腸茂雄の仕事は、かつてはコンポラ写真として位置づけられていた。コンポラ写真とは、1960年代後半に出てきた流れで、大袈裟なテーマや作家の主張を持たない、何気ない日常を見つめたものだ。これは、政治の季節にあって、同時代に活躍したプロヴォークの作家や批評家からも強く批判された。ここには、作家の強い意志も、問いかけもないと。ただし、コンポラ写真もプロヴォークの作家の実践も、コインの表裏であり、共に旧来の写真という在り方、見るという行為の中に潜む近代的な認識そのものを相対化しようとしたものだという捉え方もあった。そもそも、個々の写真家によってもその実践は様々であり、このような図式的な対比によって作品を解釈することには限界がある。それどころか、作品の意味を矮小化する危険性もある。それでも、2011年3月11日に震災を、原発事故を経験した現在、そして、憲法改定などが現実味を帯びてきたきな臭い日本の社会情勢の中で、芸術が捉えどころのない日常を扱うことの危険性と可能性は、再度考え直される必要があると感じる。
当時の議論自体が、単純に社会批評性の有無だけが問題だった訳ではなく、そこには作家の主体性の在り方など、様々な問題が孕まれていた。この文章でその点を細かく検討することはできないので、乱暴だが、『見慣れた街の中で』における社会性の問題だけに絞って話を進める。
『見慣れた街の中で』には、視線が決定的な何かを捉えているという感覚もなければ、その捉えた対象から見返されているという関係性も見出せない。そこでは、見る者の意識は常に宙吊りにされる。それは、牛腸の見つめるものが、自分自身の内部でも、具体的な他者でもなく、自己を取り囲んでいる世界そのものに向かっていたからではないだろうか。
牛腸に政治的な意味での社会意識があったとは思わない。写真にそのような社会への批評性が無意識に写し取られていると言いたい訳でもない。ただ、人が、自分を取り囲む世界に意識を向ける時、そこには社会が内包されていると言いたいだけだ。社会に流れているが明確に形を成すことのない空気のようなものが。
そこで、牛腸自身が社会に肯定的な視線を向けていたのか、批評的な視線を向けていたのか、写真からはわからない。本人も明確な判断などできなかったのではないか。なぜなら、その判断を下した瞬間に、それは、捉えることができる形を持った対象となってしまうのだから。
『見慣れた街の中で』にある作者の主体性は、自分を取り囲む社会へ意識を向けるというところに留まる。その点を批評性のなさと批判するのは簡単だが、私にはその作者の顔の透明さが、とても居心地のよいものに感じられる。居心地がよいと言うと、鑑賞者を安息させると言っているように聞こえるかもしれないが、それはむしろ逆だ。押しつけがましい作者の顔がなく、その顔が透明であることによって、作品の主人公は、作者ではなくその鑑賞者へと変転する。そこで鑑賞者は、安息を味わうどころか、極めて危険な場所に立たされてしまう。それは眼前に鏡を突きつけられるようなものなのだから。
彼の今までの作品でもそうであった。彼の作者としての透明さが、鑑賞者を主人公にした。『日々』では、鑑賞者に日常の中の小さなものへの意識を喚起した。また、『SELF AND OTHERS』では、他者を見つめ、見つめ返されていたのは、作者の牛腸茂雄だけではなく、写真の鑑賞者自身でもあるという構造にもなっていた。だから、この写真集には、牛腸自身のポートレイトも写っているのだ。勿論、鑑賞者でもある牛腸が、自分で自分を見つめているという二重の構造にもなっているのだが。いずれにせよ、鑑賞者は「あなたは誰ですか」と問われているのだ。
『見慣れた街の中で』では、作者の顔が透明なだけではなく、視線が捉えるべき対象も明確には見出せない。そのまま視線は画面を漂い続ける。そして、そこで宙吊りにされ、行き場を失った視線は、写真の外の鑑賞者の現実へと直接的に返ってくる。私が生きている世界へと。
確かに存在するが、自分もその中に浴しているから見えない何か、内から見ても見えなければ、外から対象化して見ようとしても見えない何か、そこに漂っているものを『見慣れた街の中で』は捉えようとしているのではないか。そして、それを鑑賞者自身の日常へと問い返しているのではないか。少なくとも2013年9月20日の私の眼には、この写真群はそのように見えた。身勝手な解釈かもしれないが、牛腸自身も、鑑賞者各々の身勝手な解釈を望んでいると思う。それが、その写真を自分の実人生に重ねて見ているということに他ならないのだから。
写真の中を漂った視線は、対象を捉えられずに私の日常へと返ってくる。平和そうに日々は過ぎていくが、何かがおかしいと感じるような日常に。だが、そこでも視線は対象を見いだせずに彷徨い続けるしかない。そして、この場所で私は生きていかなければならない。
【写真展情報】
牛腸茂雄展 第一部「見慣れた街の中で」
【会期】– 9月22日(日)
【会場】恵比寿・MEM map <http://mem-inc.jp/about-mem/>
【open hours】12:00-20:00
【問合せ】tel. 03-6459-3205
本年は牛腸没後30年にあたり、2冊の写真集『新装版・見慣れた街の中で』山羊舎、『こども』白水社)が新たに刊行されます。この出版にあわせてMEMでは牛腸茂雄展を二部構成にて開催致します。第一部は牛腸が1981年に自費出版した『見慣れた街の中で』の中から、20点程のカラー写真を展示いたします。また、このカラー写真のシリーズが誕生するきっかけとなった、牛腸の写真が掲載されている70-80年代の横浜市の広報誌も併せて展示致します。
牛腸茂雄展 第二部「こども」
【会期】9月24日(火)– 10月14日(月・祝日)
牛腸が数多く撮影した子供のポートレートを、飯沢耕太郎氏の解説と共に編集したオリジナル版『こども』が白水社より刊行されます。第二部では、精選した子供のポートレートを、モノクロプリントで展示致します。
牛腸茂雄関連 短編映像作品上映会
【会期】10月18日(金) – 20日(日)
牛腸茂雄が制作に関わった映像作品を特別上映いたします。
詳細は随時Web等で告知致します。
■映画『SELF AND OTHERS』(2001,監督:佐藤真)公開
『SELF AND OTHERS』(2001年/日本/53分)
監督:佐藤真/撮影:田村正毅/録音:菊池信之/音楽:経麻呂/スチール:三浦和人/編集:宮城重夫 /ナレーション:西島秀俊
【期間】2013/09/21-2013/10/04(2週間限定公開)
【会場】渋谷、ユーロスペース2
【時間】連日21:15〜
【料金】一般1200円/大学・専門学校生・会員・シニア1000円
※トークイベントあり
9月21日(土)上映前 ゲスト:飯沢耕太郎(写真評論家)
9月28日(土)上映前 ゲスト:今福龍太(批評家)、上野俊哉(批評家)
【執筆者プロフィール】
岡本和樹(おかもと・かずき) 映像作家
1980年生まれ。映画美学校にて佐藤真の教えを受ける。自己と他者/社会をテーマに、現実と関わる表現の新たな方法論を模索している。埼玉県川口市で市民にカメラを渡しワークショップ形式で街の姿を記録した作品『隣ざかいの街‐川口と出逢う‐』(2010)を指揮。最新作は、ワークショップ作品の第二弾として、川口市民と共同で脚本作りから演技まで行ったフィクション映画『雲のりんかく』。現在上映準備中。