2012年6月18日より、東京のアテネ・フランセ文化センターで始まる特集上映「記録映画作家・土本典昭」は、2008年6月に逝去された土本典昭監督その人について撮られた3本の映画とともに、土本作品を一挙上映するまたとない上映企画です。生きる人間の魅力にあふれた作品群と、対象と真摯に向き合う作家の横顔は、後世のドキュメンタリー作家たちに多大な影響をおよぼしつづけています。
neoneo webでは、今回の特集上映に際した特別企画として、土本典昭監督の仕事をみずからの仕事につがえてきた三人の映画作家のかたがたに、土本作品の魅力について自由に書いていただきました。
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|熊谷博子 映画監督(『三池~終わらない炭鉱(やま)の物語』)
心に残る言葉
土本さんのことを書こうと思っている時に、原田正純さんの訃報を聞いた。もう直接お目にかかれないのだな、と悲しく思いながら、『医学としての水俣病』や『不知火海』のいくつかのシーンがすぐ頭に浮かんだ。美しい海岸で、胎児性患者の少女にもう治らないのか、と原田先生が問いつめられるあの光景などである。そして「記録なければ事実なし」という土本さんの言葉が胸につきささってきた。
実は最近、水俣に関する作品を断片的にではあるがまとめて観る機会があり、生活の中から水俣病を撮る意味を、初心から自分自身に問いかけているところであった。
私は多分、番組制作会社の駆け出し時代に、土本さんとカメラマンの大津幸四郎さんに出会わなければ、今もドキュメンタリーをつくり続けているかはわからない。
初めてアシスタントとしてついたのが、偶然にも土本さんであった。ある地方都市で起きた、東大を目指す受験生がライバルの級友を刺し殺した、という事件だ。ただショッキングで終わりそうな話であったが、日々スタッフ間で繰り広げられるディスカッションは、まさに目からうろこであった。それぞれの役割はあれど、誰もが平等で自由に発言していた。そこから思いもかけないような発見が生まれていった。教育の底にあるものが浮かびあがってきた。
後で土本さんから、「スタッフワークはドキュメンタリー芸術の要だよ」と教わった。
そして、また別の時に言われた。
「人を好きになったら抱きしめたいと思うでしょ。撮るというのは、カメラでその人を抱きしめる行為なんだよ」と。
「カメラが間にあることで駄目になる関係もあるけれど、カメラがあることで強固になる関係もあるんだよ」とも。
他にいくつもあるが、今また改めて、受けた言葉の数々は作品で返したい、と思う。
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|鎌仲ひとみ 映画監督(『ミツバチの羽音と地球の回転』)
優しさに支えられた映画
大きな仕事を成し遂げた巨人、偉大な先輩について、小さな私が何か書く事の僭越さを感じます。
それでも土本監督との出会いは私にとってかけがえのないものでした。「六ヶ所村ラプソディー」を撮る時、「海盗り」や「原発切抜帖」がなかったら途方に暮れていたでしょう。映画の技法というよりも人間として権力や大きな経済というものにいかに対峙するか、という姿勢を教えていただきました。そして誰も真似ることのできないその底なしの優しさ。土本監督は厳しく、怖い人だと噂もありますが私にとってはとことん優しい人でした。映画に映し出される人々は小さな人生を大きな時代の波によって足下からすくわれている、そんな人々を視るまなざしが暖かく優しい。その優しさを保つことがいかに困難であったか、それがいつも私の胸を衝いてきます。
土本映画の根底にいつも流れている人間の質、それが伝わる映画こそが素晴らしく、価値があるのだと作品を観るたびに志を新たにするのです。
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|松林要樹 映画監督(『相馬看花 第一部 奪われた土地の記憶』)
実は今回の原稿の執筆依頼がきて困った。すでに他界した世界的に評価のほぼ出来上がっているドキュメンタリー映画作家について、私のような若僧が何やらモノを言うことは容易ではない。だが若僧のコメントが、べた褒めでは味気ない。一九二八年に生まれた土本典昭さんは私にとっては、親の世代というよりも祖父母の世代にあたる。土本さんのことを、本や作品でしか知らないと言ってもいいが、生前にお話したことがある。まずはそれを書きたい。
二〇〇三年春、ボックス東中野(現 ポレポレ東中野)で「アクションドキュメンタリー映画特集」があった。私は映画学校の学生だった。「森達也」「原一男」「平野勝之」「小川紳介」そして「土本典昭」の映画が上映されていた。まとまった形でドキュメンタリー映画作家の作品群に触れるきっかけだった。
ちょうどその頃、イラク戦争が開戦された。その日は一九六四年製作の 「ドキュメント 路上」を見た。上映後、舞台上でトークイベントがセットだった。あいさつで土本さんはイラク戦争に触れ「映画では戦争は止められないが、映画を作り続けることは、どこかで戦争に反対することにつながっていると思いたい」と話をしていた。
上映後、人だかりが土本さんを囲んだ。少し待っていると土本さんは一人になった。思い切ってロビーで土本さんに話しかけた。もじもじして聞いていたにもかかわらず、きちんと耳を傾けてくれた。質問することが目的だったので、何を聞いたか覚えていない。あこがれの人であったが、実は土本さんの作品は、「パルチザン前史」と「ある機関助士」だけしか見たことがなかった。水俣の一連の作品群をまだ観ていない状態だった。その状態で水俣の作品を作り続けた動機についても質問した。すると「まずは、観てから聞いてください」と言われた。今から思い出すと顔から火が出るくらい恥ずかしい。しかし、それで映画館に通い続けさせるきっかけになった。それから毎日足を運んだ。
世間では旧作だったが、私にとってははじめて見る新作ばかりだ。私の頭の中では土本さんに対する情報が、あまりにも真っ白の状態だった。その後も特集のイベントのため劇場にときどき土本さんは顔を出されていたので、そのたび作品に触れ、印象が新鮮なその日のうちに話ができるという恵まれた機会を得た。
二〇〇五年秋に私はテレビニュース番組用に二ヶ月間アフガニスタンへ国会議員選挙取材のために行っていた。アフガンの映画館ではインド映画が上映されていた。かつてこの地でどういう映画が作られたのか関心があった。ソ連占領時代に土本さんがアフガンで撮った「よみがえれカレーズ」を日本へ戻ってから観た。
撤退するソ連軍の戦車の砲口に花束が差し込まれていたカット。見送る住民。統率のとれた正規軍、対照的なゲリラ兵。ソ連軍の撤退の様子が見事に演出されていた。私が見知っている二〇〇〇年台のアフガンと違い、ソ連がいた当時は美しかったのだと印象を持たせた。ソ連がアフガンでしたことにはまったく触れていなかった。そして、将来のアフガンはソ連が撤退した後、どうなるかわからない、結論は観客に思考を託される素晴らしい映画だった。
土本さんは製作時の一九八〇年代後半、ソ連をどうとらえていたのだろうか。土本さんは何に支えられてドキュメンタリー映画を作り続けてこれたのか。社会主義の信条を貫いただけではない。つくり手は、信条に依っていいものだろうか。土本さんがそこに無自覚だったはずはない。今回、またその作品が上映される。ただ今回はどういう印象を持つのだろうか?
原発事故による未曾有の災害を経験し、多くのつくり手が手探りのなかで福島の現場と格闘している。もしこの時代に土本さんが生きていたら時代をどう捉え、行動していたのだろうかと画面を通じて想像したい。今後、福島ではもっと苦しみや悲しみにあふれた現場に直面するだろう。後世にとっては、一つの道しるべのような土本さんの作品群だ。とくに水俣における作品群には圧巻させられる。もう直接お話はできない。今後、つくり手がどう作品と向き合うべきなのか、この特集は、それを考えさせてくれる。私も足を運ぶつもりだ。