【Review/Report 】『北朝鮮・素顔の人々』&『金日成のパレード』、そして素顔の北朝鮮 text 小林蓮実

『北朝鮮・素顔の人々』より

「北朝鮮住民が命がけで撮影したドキュメンタリー」
子どもたちの哀切な歌声に何かを感じたら……

「2000年代中盤、北朝鮮住民が命がけで撮影した映像をもとに制作されたドキュメンタリー」。これが、『北朝鮮・素顔の人々』のキャッチコピーである。わたしは、「製作にかかわった人民に、何ら害が及びませんように」と祈らずにはいられない。だが、別の顔をもつ北朝鮮の「現在」がきっと存在し、もちろんこの国家の言い分だってあるはずだとおもう。だから、この国を単純に批判するのでなく、感じることがあるなら自ら主体的に、同じ目線での交流によってかかわりたいと考えている。それが、わたしのスタンスである。

まず、住宅街や川辺と思われる、自由市場の風景が映し出される。川辺のものは、ジャンマダンと呼ばれる、大きな市場のようだ。自由市場の存在をまったく知らなかったとはいわない。わたしが耳にした話では、「(共産主義が変わることはないが)『過渡期』の現象として黙認されている」とのことだった。

ここで、椎野礼仁さん著『テレビに映る北朝鮮の98%は嘘である』(講談社)より引用する。ちなみにこの講談社+α新書は、近年の平壌、そしてそこにかかわる人々の「真の姿」をあますところなく、しかもフラットな目線とユーモラスな視点とで捉えた、必読の書である。この中で、デイリーNK東京支局長の高英起(コウヨンギ)さんは、「1990年代半ばに国の経済が破綻して、配給が途絶えた。国が何もしてくれなきゃ、餓死しないためには、自分で稼ぐしかない。(中略)僕は草の根資本主義と呼んでるんですが、日本の戦後のヤミ市と同じですね。政府も、その市場がないと、食べ物や生活必需品が廻っていかないとわかっているから、黙認しているんです」という。また、朝鮮で暮らすある日本人によれば、「改革開放経済のもたらす貧富の格差を前提とした『富裕層だけの富貴栄華』ではなく、すべての国民が豊かになる、文字どおり『社会主義富貴栄華』を全国民に約束(中略)個人単位の市場経済を過渡的に利用して人民生活を豊かにするというのが、いまの自由市場の性格といったところです」とのことだ。

ただし、ここ日本でも、今なお餓死者はいる。人口動態調査をもとに国会図書館社会労働課が作成した資料から高橋ちづ子議員が作成した表をみれば、「食糧の不足」による死亡数は、2003年93人、05年77人、08年63人、11年45人など、一定数の餓死者が存在するのである。

また、公開処刑の様子も映し出される。よくぞ、これを隠し撮りしたな、とおもう。そして集まった人々には、自首などによる「恩赦」「情状酌量」の余地があることなども伝えられる。特に、死刑囚の家族が強制的に、この処刑を目にさせられることは、

【Review】『北朝鮮強制収容所に生まれて』(マルク・ヴィーゼ監督) text 小林蓮実

で知っていた。ちなみに、わたしの考え方等は、リンク先の映画評執筆時と基本的には、まったく変わっていない。

冤罪をなくすことは実質不可能であり、刑罰は被害者の復讐にもならない。であるにもかかわらず、死刑制度存置の国に生きているわたしたち。それをおもうとき、順番としては、やはり自分の国から人権と民主主義と本当の自由とをつかんでいかなくてはならないと考えてしまう。日本で耳にするように「韓国の番組を観ただけで死刑」というのが本当なら、また、先日わたしが観た「シークレット・ミッション」という韓国映画のようにスパイ活動をしていても命令ひとつで死ななければ立派な革命家でないというようなことが北朝鮮の姿なら、朝鮮に他の国、特に周囲の国が根本的な安心感をもたらさなければならないとも考える。

この作品の中で最も印象的なのが、コッチェビの姿だ。コッチェビとは、路上に生きる孤児たちのことを指す。映像の中で彼らは、捨てられた食物をむさぼり食う。ただし、免疫力が高くなっているため、腹をこわしたりすることはないそうだ。そして、歌を歌い、食べ物を求める。そのあまりに美しい歌声に、切なさや哀しみを感じてしまう。解説によれば、朝鮮の歌の歌詞の一部に厳しい暮らしや母親への思いにまつわるものを加えており、これはたぶん大人がコッチェビのためにつくった歌詞ではないかとのことだ。これを観るだけでも、この作品の価値が感じられるかもしれないとおもうほどの名シーンである。胸をギュッとつかまれるような、哀切な歌声が、路上に響き渡るのだ。

『北朝鮮・素顔の人々』より

朝鮮の方に聞くと、1990年代後半の「『苦難の行軍』の時代は本当に大変でした」という。実際、地方を中心に、餓死者は多かっただろう。それに対し、政治に携わる人々にはその影響があまりなかったようにみられることについての批判は多いかもしれない。

前出の椎野さんの新書においては、この「苦難の行軍」の時代について、「仕事を終えてアパートに帰っても部屋は真っ暗、壁にはツララ(中略)でも、いまは国が大変なんだからガマンしなきゃ、といい聞かせてるんです。(脱北して)逃げる人は逃げたけど、私たちは国のことを思ってここに残っている。だから革命家なのよ」と語る看護師を紹介。また、朝鮮で暮らす日本人の、「代用食を工夫する。(中略)それでも足りないときは植物の根、木の皮を煮て汁をすするなどということもあったと聞きます。そういったことを職場、農場、地方行政単位でも工夫して(中略)」という声も掲載されている。もちろん、わたしは脱北の人を責める気などまったくないし、「基本的に人は好きな場所で好きなように生きられるべき」と考えている。念のため。

コッチェビたちの姿からは、「生きる」ためのエネルギー、生命力を人はもっており、仲間は存在するものであることを感じる。そして、生きることが困難ならば、そこに支援が急務であるとおもう。2000年代半ばから現在までに、コッチェビが減ったりいなくなったりしたかどうか。平壌を2回訪問しただけのわたしには、わからない。そしてわたしはまた、日本国内の野宿を余儀なくされている方々、生活保護を受けずに餓死する人、ネットカフェの別々の部屋で何年も生活を送る母と娘が存在するようなこの国の現状をおもう。

あわせて試写を観て、同時上映もなされる『金日成のパレード』は、ポーランドのアンジェイ・フィディック監督が手がけた朝鮮政府公認の作品だ。朝鮮のカルチャーの力は大きなものがあり、そこにわたしがおもう「朝鮮の情念」のようなものがあいまって、あのような大きなパレードにより人民の心が高揚せられるのだろう。実際、2013年に観た「アリラン」では、わたしも感動に打ち震え、強い共感を抱いたものだ。ただし、文化の力の政治利用について、複雑なおもいを抱かずにはいられない。自由と人間(性)の解放の対極に位置しがちな発想であり、特定の文化の弾圧につながりやすいものだからだ。そういえば現代アートの国際展であるヨコハマトリエンナーレ2014のコンセプトには、焚書をテーマとした「華氏451」が取り入れられていた。ただし、朝鮮でも、エンターテイメント集団である牡丹峰楽団(モランボン楽団)の音楽を聴くことができる。文化や報道機関の恣意的な選択や利用、プロパガンダ、いっぽうに存在する多様性。これもまた、一国に限った話であるはずはなく、日本にとって無関係なはずもない。

『金日成のパレード』より

▼Page2  2014年9月の平壌の様子  そして朝鮮人民の思いの一端へ続く