映画と現実の間の裂け目を歩く
-ソ・ヒョンソク『From the Sea』(前編)
夏目深雪
あれは映画ではなかったか
観客参加型ツアーパフォーマンス演劇。2014年秋にF/T(フェスティバル/トーキョー) 14の「アジアシリーズvol.1 韓国特集 多元(ダウォン)芸術」シリーズの一つとして上演された『From the Sea』を一言で言えば、そうだろう。ただそう言ってしまうと抜け落ちてしまう部分があまりにも多いように感じられる。
出発地点からゴーグルを目に、イヤホンを耳に装着し、移動中はほぼ視覚が遮断された状態で異性(※1)の俳優に誘導されて品川の街を歩く。『From the Sea』の概要はそんなところだろう。特徴的なのは、ツアーパフォーマンスでありながらツアーして回るポイントに鑑賞すべき作品が用意してあるわけではなく、周る土地の風景や歴史もあくまで後景であることだ。主役は何かというと、イヤホンから流れてくる演劇内のモノローグのような台詞とパートナーとの会話によって引き出される観客自身の記憶、その蘇生と変容であろう。
その意味で、「脱劇場」が特徴とされるPort Bのような劇団が行う「ツアーパフォーマンス」とは違う。2013年までのF/Tのように、「劇場を出て演劇を都市(まち)に広げる」というコンセプトに沿って、俳優も観客も劇場の外に出ているわけでもないだろう。『完全避難マニュアル』(2010年、Port B)のように「現在の東京」に一番の興味があるわけでも、『光のないⅡ』(2012年、Port B)のように被災地と東京都の距離に興味があるわけでもない。
もちろん、ソ・ヒョンソクは土地についてのリサーチを行い、それに沿ってテキストを構築している。ヒョンソクは舞台として北品川を選んだ理由についてこのように語る。
「フェスティバル/トーキョーのスタッフには、昨年『つれなくも秋の風』を上演した急な坂スタジオ(元結婚式場)のように、過去と現在とでは使われ方が異なっている場所や、人々に忘れ去られてしまったような場所を探してほしいと頼みました。最初に出てきた候補の中には上野近辺の下町や、今回の舞台にほど近い北品川の商店街もありました。そして、北品川商店街を見て回った際に、鈴ヶ森刑場や大井競馬場の存在を知り、自分なりにリサーチを重ねた結果、今回の上演地域を決めました。」(※2)
一方で、ヒョンソクはこのようにも語る。「私は鈴ヶ森の刑場にまつわるさまざまな歴史的エピソードを知っています。でも、そういった具体的な変化の過程や出来事を引用するつもりはなく、この場所が持つ記憶を皆さんが間接的に感じ取れればよいと私は思います。確かに昔の姿を、今、目で見ることはできない。でも、感じることはできると思いますし、目に見えないものだからこそ、私は「記憶」に興味を持っているのです。」(※2)
あくまでヒョンソクの興味が土地や土地の記憶を観客に「見せる」ことではなく、それを観客が感じ、観客自体の記憶が立ち上がるところにあることが分かるだろう。
『From the Sea』で私がした体験が、私固有のものでしかないとしても、私はそれを至高の体験だったと声高に主張したい誘惑に抗えない。それは重層性が高い、土地の持つコンテキストと緻密に絡めた台本により誘導され、蘇生した私の記憶と、それによる俳優との対話が、どんな演劇のそれよりも私の魂に響いたからであろう。
ただ、もう一つ、私は言ってみたいことがあるのだ。「あれは映画でなかったか」と。
なぜ『From the Sea』が映画的なのか
『From the Sea』のラストはこうだ。私は橋の上からゴーグル越しに夕景を眺めながらイヤホンから流れるモノローグを聞いていた。モノローグが終わって、ふと横を見たら、今まで同伴者でいてくれた“彼”がいなかった。その代わりに女性のスタッフがいて、「これで終わりです」と告げ、帰り方の説明をしてくれた。
その時、私は良質な一本の映画を観たような感触を覚えたのだ。終わってしまったことの衝撃で涙がこみ上げそうだったが、ふらつきそうになりながらも、躊躇なく駅に向かって歩き出した。その一歩が、新しい世界での一歩になることが分かっていたからだ。自分が生まれ変わり、より深く世界を愛せそうな感覚――映画館を出る時に感じる、映画狂(シネフィル)がそのまま映画に囚われてしまう元凶である感覚だが、それらを確かに感じた。
私はなぜこの演劇を映画的だと感じたのか。様々な緻密な仕掛けが絡み合って観客にそう感じさせるようになっている。順に見ていってみよう。
まずストーリー性が高く、それが観客に密着したものであること。これは個々の俳優の技量にもよるところも大きいのかもしれないが、私のパートナーは私の急所をつき、喋らせるのが上手かった。大事なことを思い出させ、考えさせ、結論までを私に出させた。パートナーの質問に抗えず、自分の過去や秘密を喋ってしまったのは、移動のほとんどの時間、ゴーグルで視界を遮られ、パートナーに頼るしかない状況に置かれたこともや大きいだろう。
私は私の中にある、触れないでいた傷のいくつかを思い出し、それを75分の演目の中で乗り越えた。この論を書くにあたって、俳優やスタッフに渡してあった進行表を見せてもらったが、するべき質問と、どこで手をつなぐのかなどが細かく指示してあった。劇作家の作った緻密な台本を基にした、即興劇の中に放り込まれたのだと実感した。
映画でも演劇でも、登場人物に感情移入することが映画的あるいは演劇的な感動のもとになっているが、この演劇が持つのはもっとダイレクトで強烈な感情を呼びおこす設定である。なにしろ、自分の記憶の中から構築されたストーリーの自分役を演じるようなものだ。それが一番自分の琴線に触れるものである可能性が高いストーリーの、ヒーローあるいはヒロインを演じることが、感情移入以上の刺激と陶酔を与えないと主張する方が難しい。さらに、もちろん好みでないなどの例外はあるだろうが、「吊り橋効果」なのか、自分の秘密を明け渡してしまったからなのか、徐々に恋愛感情に近い感情を抱くようになってしまうパートナーが、相手役を務める。ツイッターで見かけた「韓流ドラマ万歳!」という感想も、「JKリフレとどう違うの」という疑問も、あながち言い過ぎではない。
しかしそれだけでは、「演劇的な演目」という感想でいいのではという疑問があがるだろう。「演劇的」ではなくなぜ「映画的」なのか。
進行表を見ると、モノローグが流れるタイミングや質問をするタイミングだけでなく、ゴーグルの蓋を開けるタイミングまでが細かく指示してある。移動中は閉められていたゴーグルの蓋が、公園や、川辺や、橋の上などのビュースポットに着くとパートナーの手によって開けられるが、この観客の視覚の制御の徹底性が何よりも演劇らしくない。このこだわりは演劇よりも、どのショットの後にどのショットを繋げるか、編集で膨大な時間をかけ吟味し、観客に対して最大の効果を上げるべく構成される映画を想起させる。
そして何よりも、ゴーグルの蓋が開けられた時に目に飛び込んでくる、黄色いガラス越しに見る風景が、映画館で見るスクリーンのようであったのだ。ゴーグルの枠がスクリーンと同じ横長の長方形というのがまずあるのだが、今まで暗闇だったところに、文字通り景色が「飛び込んでくる」のが、映画のショットのような役割を果たしているように感じた。
これはヒョンソク自身がこう語っている。「一瞬のイメージを重ねて見せる映画のように、ゴーグルをつけることで、観客の目に風景を焼き付けることができないかと考えたんです。そのことによって、観客自身が風景の中に自ら溶け込み、俳句のように瞬間をつかむことができるんじゃないか。」(※2)
後日行われたアーティストトークの際にソンヒョクに質問してみた。「ゴーグルの蓋を取った瞬間がショットを現しているように、この演劇自体、映画から得たものが多いのではないか?」ソンヒョクの答えはこうだった。「現場で生々しい体験をしたと思うんですが、それとは反対の人為的な側面を作りたかった。ゴーグルを黄色く塗ったのは、映画的であることを狙ったのもありますが、〔ここではない〕という感覚を作りたかった。〔こうかな〕と思ったら〔そうではない〕異質なものをぶつからせようとしています」(※3)
▼page 2 「見る」という行為の変化 につづく