【連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜中野理惠 すきな映画を仕事にして 〜 第9話 text 中野理惠

滞在していたころのNYの街角

開拓者(フロンティア)たちの肖像
〜中野理惠 すきな映画を仕事にして


第9話   ニューヨーク滞在は一か月半

<前回(第8話)はこちら>

当初、一年間はニューヨークに滞在するつもりだったが、翌1987年1月末には戻らざるを得なくなった。理由は、女性用の手帳や企画していた書籍編集の業務が主たる要因であったが、退社直前ごろから、フリーライターになると思われたのか、書評やインタビューなどの原稿書きや取材が増えたために、その業務も控えていた。「原稿用紙を落としながらアメリカに行った」と、当時、一緒に事務所を借りていた櫛引順子さんことビッキーさんに言われたのを覚えている。

もし1986年から1987年の頃、自分の人生の来し方行く末をじっくりと考えていたら、仕事と私生活の拠点をニューヨークに移し、今とは別の人生を歩むことになったかもしれない。だが、そのようなことにはならなかった。ニューヨーク行きは会社を辞めるための方便であり、日本ですでに動いていたプロジェクトを見直し、原稿書きを断ることなど、あり得なかった。フリーの鉄則は<くる仕事は断ってはいけない>である。

当時は、ただただ毎日が楽しかった。『雪国』(川端康成)の<長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった>ではないが、自分との長い闘いに区切りがつくと、そこには、抜けるような青空のもと、自分と同じ言葉を話す女たちがいた!リブ運動を通じて、終生の友となる人たちとも出会い、自分を表現する方法がみつかっただけではなく、それが仕事として成立し始めたことが、嬉しくて、楽しくてたまらず、方向転換などは考えもしなかった。


さまざまな企画

女性が自由に生きることをテーマに思いついたアイディアは、多岐に渡っていた。書く仕事も新鮮で発見があったが、自分のアイディアを商品にする試行錯誤も楽しかった。最も具体的だったのは、生理を記録できるカレンダーを付けた女性用の手帳の製作と発売である。欧米では、1970年代頃から作られていて、日本でもリブ運動の中で企画はされていたが、実現化はしていなかった。

「月日ノオト」を持って

手帳の企画に参加した当初(1980年ごろだったと思う)から、リブにかかわる女性だけに使われるモノにはしたくなかった。何よりも求めたのは一般性であり、リブを知らない人たちにも使ってもらえる手帳、誰もが自由に立ち寄れる文具店やデパートに並べられる商品にしたかった。女性用の手帳は、1982年に商品化して3年間続けたが、グループ解散。その後、独自に企画を進めて、1986年にオリジナル健康手帳<月日ノオト>の名称で商品化し、1987年版から2000年版まで発行した。

手帳以外にも、立体裁断の下着、女性のための情報誌、書籍、映画等々。下着と情報誌も商品化できた。だが、手帳は文房具、下着はアパレル、情報誌は出版と業種が異なるため、作ってはみたかったが、すべての継続は考えていなかった。


動きやすい下着を作る

下着は、リブ運動で知り合い、終生の友人の一人となった濵田博子さん(通称ハマダ)と二人で企画し販売した。当時、ハマダの本職は地方公務員。<男女雇用平等法を作る会>会員として、新宿に事務所のあったジョキこと<女性解放合同事務所>にしょっちゅう来ていて、彼女には「マイクを回すな」、と言われるほど、よく喋る人として映っていた。

私は女性の権利の法制化活動には積極的には関わっていなかったが、ジョキを拠点として活動していた女性たちとも交流はあった。1983年12月24日、男女雇用平等法成立を求めて、都内をバトンタッチして走るイブ・リブリレーをしようとの案が持ち上がり、私もランナーの一人として参加した。その時にハマダとは知り合ったのだ。知人に、プロのデザイナーの河村美津子さんを紹介してもらい、その伝手で下町の縫製工場に行くと、新しいことをしたい人には協力すると言う社長が快く会ってくれて、下着に相応しい布の特性から何から何まで教えてくれた。

その社長(男)の顔は思い出すのだが、お名前をどうしても思い出せない。とにかく親切にしていただいた。欧米では、下着は立体裁断だとも知った。お尻の丸みをすっぽり包むように作られ、身に着けていることを感じさせない履き心地の良いパンツ。1986年、2000枚作り、二人で袋詰めをした。「家庭画報」でそれを取り上げていただいたところ、あっという間に2000枚は売り切れてしまった。

 
オリジナル健康手帳<月日ノオト>

オリジナル健康手帳<月日ノオト>のスタートはさんざんだった。最初の発行の1986年には、まだ勤め人だったこともあり、某出版社が製作と発行を引き受けてくれたのだが、できあがったのは、まったく実用に即さないシロモノだった。「がっがりした」との反応も直接、耳に入る。猛省した。継続をやめようとも考えた。だが、ここで引き下がってはいけない、と思いとどまり、挽回を決意。翌年からは、発行も自分で担うことにして、企画からスタッフ構成まですべてを練り直した。銀座伊東屋の手帳の担当者を紹介され、何度も通って教えを乞うた。当時、爆発的に使われ始めたシステム手帳を考案したナラコンピュータシステムの社長さんに話を聞きに行くと、着ているベストが新案中のアイディアに溢れていたのに感心したのを覚えている。全て文房具の業界誌の編集長だった志村章子さんのご厚意だった。感謝している。

   
再起を期した「月日ノオト1987年版」の表紙と扉

再スタート後はラッキーだった、と今でも思う。発行を知った(たぶん、雑誌か新聞の紹介記事で見ていただいたのだと思う)ヘルスメーターの会社から大量の注文が入った。中野の民間アパートにあったその会社を訪ねると、ちょっと太めの鈴木さんという男性がいて、とても親切で感じよかったことや、代金が振り込まれた時、手帳作りを一緒にしていた嶋田ゆかりさんが「あの会社ってほんとにあったんだ」と言ったのをよく覚えている。後に社名を変えたそのヘルスメーターの会社は、今では新宿にビルを構えている。

(つづく。次は6月1日に掲載します。)

中野理惠 近況
GWにイタリア映画祭の合間に、姉弟で集うために伊豆長岡に帰った。駿豆線<伊豆長岡>駅には相変わらず<韮山反射炉を世界遺産に>のポスターは貼ってあるが、盛り上がりもなく、伊豆らしくていい、と眺めていたら、連れ合いが反射炉までの無料シャトルバスを発見!へええ、と思って戻った2日後から、しょっちゅう反射炉がテレビや新聞に出ている。反射炉を建造した江川太郎左衛門坦庵公が、第4話に書いた、母校韮山高校の開祖と言われています。と自分の事ではないのにジマン気味な気分。

韮山高校の校旗・江川太郎左衛門坦庵公胸像

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