映画の始まりは、安藤忠雄のインタビューからだった。安藤は、独学で建築を学び、二度にわたる世界放浪を経て建築における独自の哲学を築いた人物だ。建築家になるための一般的なルートから完全に逸脱して、建築家として名を成したため、建築家の間では異端の存在として知られている。そんな安藤の独特な風貌や語り口、そして極めて異様なオーラが画面に緊張感を与え、それを目の当たりにした私は、不思議と彼のインタビューに釘つけにされる。捉えどころのない彼の魅力によって、映画は静かな色気を漂わせる。
どこか病んでいるような、何か悟っているような安藤忠雄の独特な風貌から感じるのは、得体の知れない近寄りがたさだ。しかし彼が発する言葉の一つひとつは、曇りなく真っ直ぐで勢いがよく、人を引き寄せる情熱を感じる。その絶妙なバランスが、彼独自の強い存在感を示している。
彼のその存在感からして、映画の出だしの掴みとしては強大なパワーが感じられる。映画の始まりを司る語り部としての重要性だけではなく、映画全体を象徴する「何か」を、彼は担っているように窺えた。
それは建築の歴史の流れそのものであり、建築のすべてがそこにあるようだった。本作の顔として、安藤忠雄の存在は欠かせず、その独特な風貌や語り口が、本作をしっかりとした一つの映画として成立させているようだった。
安藤が、「今の時代にはビジョンがない」と語り、それを引き継ぐ形で彼と同世代の名建築家である伊東豊雄のインタビューに瞬時に映像が切り替わる。編集の機敏さが、映画に躍動感を与える。
伊東も現代のビジョンのない社会を嘆いていた。それは安藤よりも、さらに的確で具体的だった。効率性を重視して、機械的に構築されたマニュアルにだけ従わざるを得ない現代の建築業界の事情とその仕組みを、論理的に、そして切実に嘆いていた。
伊東は、例えば一つビジョンを描いたとしても、地域住民やその地域の地方自治体からは賛同の声を得られるが、しかしそれでは予算がつかないと待ったをかけられ、結果としてマニュアルに従った建築をせざるを得ず、その現状に絶望的であるとすら語った。
いったい、建築の世界に何が起きているのだろうか?
冒頭の約三分間の著名な二人の建築家のインタビュー映像だけで、まるで闇の深みにはまるようにして、私は、本作の映像世界に自然と引き込まれていった。
本作を鑑賞する前の私は、建築物についてこれといった視点を持っていなかった。その時の私には、建築物は背景の一つか、平板な書き割りに過ぎなかった。建築物に関する情報量や知識量の少なさが、そうしたどうでもいい物を見るような感覚を育てたのだ。
しかし本作を鑑賞すると、そのような狭い視野を、まるで無理矢理縦に横に引き伸ばされ、さらに奥行まで構築されるような現象に見舞われる。それは私の視点や感覚から捉えた建築物が、平板な書き割りとしての物体から、紛れもない「建築物」という形のある物体に変化したと解釈できた。無色の風船に空気を入れるような感覚に近い。それも豊かで複雑な空気が風船を膨らませるのだから、色も赤に青に多様に滲み出て立体感を生みだす。
国内外の複数の著名な建築の専門家が建築について語り継いでいく映像の流れに、独自の物語性が感じられる。近代主義建築からポストモダン建築への変容、バブル経済、震災などによって移り変わる建築に求められる価値、そして現代の建築家のあり方など、数多くのドラマティックな歴史があったからこその物語性であり、フィクションの世界とは違った確かな説得力があった。
インタビューの合間に映し出される著名な建築物のショットも、ただの建築物の紹介に終わらない。そのショットの一つ一つに建築の歴史があり、変遷がある。台詞や説明を省いても成立してしまうそれぞれの建築物が独自に放つ歴史の力がそこにあるようだった。
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