開拓者(フロンティア)たちの肖像〜
中野理惠 すきな映画を仕事にして
第19話 恩人の退社 それでも仕事は続く
<前回 第18話はこちら>
別の大恩人の退社
ビッキー(櫛引順子)さんは「辞めたい」と言うのだ。どうやら決意は固い。何があったのか皆目見当がつかない。暫く後に、現代書館の菊地社長が、
「アンタなア、会社をやめたい(閉じると言う意味)と言わなかったか?」
と聞いてきた。
ちょうど、「東京おんなおたすけ本 PartⅡ」(第16話参照)の失敗が判明した頃だった。
「しょっちゅう、言っているよ」
とケロッと答えると、
「ビッキーはなあ、それを聞いて不安になったんだよ。絶対にそんなことを言っちゃあダメだ」
以後、決してそのようなことは口にしないと心した。不思議なことに、それからは、債務超過の時期もあったのにもかかわらず、会社を閉じたいと思ったことは一度もなく、従って口にすることもなく、今に至っている。
「東京おんなおたすけ本」の編集を手伝ってくれた大野邦代さん(故人/第11話参照)から、
「ビッキーは、アンタを決して裏切らない人だから大切にするんだよ」
と、言われていた事が記憶に残っていただけではなく、会社設立以前から一緒に仕事をしていたので、ビッキーさんに去られたのは辛かった。だが仕方ない。身から出たサビだ。受け止めるしかない。あれから25年ほど経つ。ビッキーさんはパンドラの礎を共に作ってくれた大恩人の一人である。
『幻舟』と『八重桜物語』 〜オーストラリアの同業者との交流〜
仕事は続く。『幻舟』(1990年公開)配給時に知りあった花柳幻舟さんは小学校中退だった。幻舟さんは、大学入学資格検定試験を受けようと猛勉強をしていた。幻舟さんの自宅のお手洗いには英語の単語表を貼ってあった。今年になり、20数年ぶりに電話をいただいた。当時と全く変わらないつやと張りのある声で、電話の向こうから今の政治状況を嘆く言葉が聞こえてきた。嬉しかっただけではなく、励まされた。
『幻舟』(原題:EAT THE KIMONO/1989年/キム・ロンジノット監督/イギリス/60分)
『八重桜物語―オーストラリアに渡った戦争花嫁たち』(1990年公開)では、渡豪した日本女性が集うと「炭坑節」を歌い踊っているのに、驚いたが、<海を渡る>ことの背景が、このシーンだけで物語られている、と気づいたものだ。
契約相手のオーストラリアのRONIN FILMS(RONINとは浪人の事だ)社長のアンドリュー・パイクさんは、パンドラを始める前に働いていた外国映画配給会社(フランス映画社という)の取引相手として、時々、書類を書いていたGardner and PikeのPikeさん当人だとわかった。そのような縁もあり、お互いの関心が近かったので、仕事上だけではなく、家族ぐるみの付き合いが始まった。パイクさんが若い男性スタッフを伴い、両親が暮らす伊豆の家を訪れ、義兄運転の車で、英単語のしりとりを楽しみながら、伊豆半島一周をしたことや、仕事のグチをこぼしあったことなどを思い出す。彼は70年代には大島渚監督作品をオーストラリアで配給し、後には映画館も経営、「AKIRA」などの商業映画も配給していたが、2000年代に大病を患い事業を縮小していた。快癒して、東京で再会を果たした際に、
「これから映画配給は厳しくなるから、社会教育用の作品を手掛けないか」
と、自分たちの新事業を説明し、具体的に助言してくれた。パイクさんが知らなかっただけで、パンドラも社会教育用DVDを手掛けていたから、お互いの方向性が偶然一致したことに驚いた。でも感謝の念に代わりはない。
『八重桜物語ーオーストラリアに渡った戦争花嫁たち』 ※クリックで拡大します
(原題:GREEN TEA AND CHERRY RIPE/1989年/スールン・ホアス監督/56分オーストラリア)
5館に断られた『レニ』の公開
1990年前後から数年間の記憶がごっちゃになっている。それと、どうしても写真が見つからないので、『レニ』(1995年公開)へと一気に5年以上先に進む。
第2話で書いたように、The Horrible and Wonderful Life of Leni Riefenstahl はサンフランシスコの映画館で、一観客として見て、買い付けた作品である。東京ロードショーがBOX東中野に決まるまで、5館に断られた。ドイツのドキュメンタリーでしかも188分の長尺、というだけで、見ようともせずに門前払いの映画館もあった。だが、当時のBOX東中野の山崎陽一支配人は、日本語字幕のない3時間を超える本編を見て、「面白かった」と。
この一言でRS(ロードショー)劇場を求める放浪の旅は終わった!
『レニ』(原題:DIE MACHT DER BILDER:LENI RIEFENSTAHL/1993年/レイ・ミュラー監督/ドイツ/188分)
レニからの礼状 ※クリックで拡大します
字幕に数か月かける
RS劇場が決まるとすぐに字幕に取り掛かる。英仏独語に堪能な旧知の伊藤明子さんと二人で手掛けた。何度聞いても「フント(Hund/ドイツ語で犬のこと)」と聴こえるのだが、採録シナリオでは、そう書いてないと発見し、伊藤さんに褒められたことを覚えている。世田谷の伊藤さん宅に通い、二人で数か月間かけた。字幕が間に合わず、最初の試写を延期した記憶がある。それほど、字幕に時間がかかった。映画に引用されている『オリンピア』の記録映像で、実況放送のアナウンサーが「ブロイケ」と言い、英独両方の採録台本にも「ブロイケ」と書かれた人物が登場する。だが、西洋人っぽく見えず、入賞しているようなのに、日本語で書かれたオリンピックの記録にも名前が見当たらない。それもそのはずであった。
(つづく。次は11月15日に掲載します。)
字幕つながりで、このころの仕事「字幕仕掛人一代記―神島きみ自伝―」(1995年、パンドラ刊)。
フィルムの時代には、画面の右横に縦書きか下に横書きで(まれに例外もあり)、フィルムに字幕を焼き込んでいた。本書のカバーはアレクサンドル・ソクーロフ監督『日陽はしづかに発酵し・・』の一場面
左が著書の神島きみさん。字幕会社の先駆けとなった<テトラ>という会社の社長だった。真ん中が中野、奥の男性は、同業者のパイオニアシネマディスク社の丹羽ちゃん。
中野理恵 近況
知人たちの手掛けた新刊本が送られてきた。いずれも読みごたえのある内容です。
・「ホフマニアーナ」(前田和訳/エクリ刊)タルコフスキー幻の8作目
・「モダンガールの娘」(山中登美子著/星の環会刊)
YIDFFにも2日間だけだったが参加できた。世代交代が進んでいる中で、BOX東中野の山崎さんを始め旧世代(すみません)映画人にも多数再会できて嬉しかった!