© 2014 – LES FILMS D’ICI – PROACTION FILM
あなたが望むなら故郷も捨てる—
故郷を捨てたのだろうか。彼、オサーマは異国に留まり、遠い地、故郷シリアに思いを馳せる毎日である。
ネット上で日々更新される故郷、彼にとっての故郷は断片的な映像の累積となって届く。立場も信条も異なる、匿名の市民たちの見た光景である。
どれほどまでに故郷は分断しているのか。力のある者、立ち向かう者、傷つける者、痛めつけられる者。様々な人々の目を通して、彼、オサーマは故郷を思う。
しかし、彼はそこにはいない。当事者ではなく、傍観者である。そのことにどんなに彼が心を痛めようとも。インターネットは擬似的に故郷を体感させるものに過ぎない。
冒頭で響く声、「私は見た」。彼は「見た」と言えるのか。「彼は何も見ていない」と言ってもいいのかもしれない。彼は故郷を捨てたのだろうか。
空が落ちてきて、大地が崩れても—
彼女、シマヴは、破壊され尽くした故郷シリアに留まり、自らの信念に従い生きる。常にその生は死と首の皮一枚で繋がっているようなものだが、彼女はそこにいる。
彼女自身の生もさることながら、かの地の日常は昨日の笑顔が今日は死に顔と化し硬直した眼差しで生きる者を見つめる毎日である。あえてそう言う、死に顔がこちらを見つめる、と。
彼と彼女はSNSで出会う。彼女は彼に問う、「あなたがここにいたら何を撮っていた?」と。彼は答える、「すべてだ」
匿名の第三者が匿名の大勢に向けて投げかけた視線を受け止めるしかなかった彼は、初めて故郷について対面で語れる存在を得た。インターネットは擬似的に相手の存在を実感させるものでもある。
彼女は彼の対話相手、彼の目となる。彼女は彼に代わって故郷を見、見たものは電子音と共に彼に直接届く。
「私は見た」彼は彼女を通してそう言えるようになった。
匿名の第三者の視点をつなぎ合わせて彼は映画をつくる。コラージュのように。
彼女が送ってくる映像を彼は見る。
多くの匿名の者たち、そして彼女の声が響く。「私は見た」と。
彼女は「友よ」と呼びかける。彼に。あるいは彼が自らを無数の故郷の民として位置づけるならば、「1000と1」の友に。複雑に対立しあった友に。
この作品は、対話によってつくられた、パーソナルな記録である。
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ここで、彼らの対話をさらに傍観する者に意識を向ける。
彼、オサーマが大勢の目を通して観察する故郷、シリアの状況は、血と死と被虐と加虐、抵抗と抑圧に溢れている。我々の多くはその容赦のなさに大きなショックを受けることであろう—もっとも、我々は、とひとくくりにすることはできない。容赦のない現実を生きる人々も少なくないからである。筆者が用いる「我々」という包括的な呼称は、実は非常に限定されており、もしかしたら筆者ただ一人なのかもしれない、ということに留意したい—。
我々の多くはそれを見慣れていない。表立って伝えられるシリアの状況は、その苛烈さは語られても、「市民の死」については言及のみにとどまり視覚的に訴えてくることはない。彼、オサーマが日々目にする映像は、これ以上なくまっすぐにそれらが映し出されている。彼らの紡ぐ物語に絶えまなく現れる「かつて生命を宿していた」物体は、耐性のない我々に対して大きなショックを与えることであろう。特に子どもの死体をおさめた映像がどれほどのインパクトを持つかということは、例えばごく最近、海岸に流れ着いた子どもの死体写真が、難民問題に揺れるヨーロッパの世論を変えてしまった、ということを想起させる。
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我々の社会はいつから「残虐」なものにヴェールをかけるようになったのだろうか。どんなに多くの命が失われ、死体が野に晒されても、我々はその場で当事者にならない限りその光景を目にすることはない。我々は、遠いどこかの出来事を、匿名の第三者の目を通して見るしかない、という意味では、彼、オサーマと大した違いがないのである。困ったことに、我々は、ある事実について「見たい」「知りたい」と思うことを自ら選び取ることが難しい。何を見せるべきか判断するのは我々ではないのだ。彼らが見せたい、知らせたいと判断したもの以外は普段は巧妙に伏せられている。伏せられているもののひとつが、「死体」である。この作品は、そんな公にはされない衝撃的な映像に溢れている。
パリにおいて、彼、オサーマが、わざわざネットの動画サイトを見て、その映像を繋いで作品とした、ということは、事情はフランスでもそれほど変わらないのかもしれない。「見たい」「知りたい」と思ったことは自ら探しに行かなければならないのである。
ここで一つ気付いたことがある。
抑圧する側が撮影したと思しき映像は、「人が殺されゆく様」を映している。
それに対し、市民、あるいは彼女、シマヴが撮影した映像は「そこにある死」「事実としての死」である。
編集したのは彼、オサーマであり、彼は、様々な対立を内包した故郷の人々を、全て等しく捉えているように見せている。この作品は彼が見た「故郷シリアの現実」である。我々は、それを見て、ただ感じるのみである。
彼らのカメラは死を直視する。そして死者が遺した生ける者たちをも直視する。まるで死者の眼差しが駆り立てるように、カメラは人々を直視する。
死者の眼差しは、生きるものに罪の意識を抱かせる。既に死んでいる者の訴える声が聞こえるのだ、「私を殺さないで」と。
死んだ仲間の亡骸を担ぎ上げて走る姿、葬列の映像。生けるシリアの民は、自らの生命を危険に晒してまで、死者に敬意を払う。我々は、彼、オサーマを通して、彼らの営みを見る。
埋葬、という儀式は、死者の声が届いた者の贖罪なのかもしれない。それは非常に崇高なものとして映る。
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故郷シリアを想いつつ、パリで日々を送る彼、オサーマは、決して故郷を捨てたわけではない。故郷の悲惨を真正面から受け止めつつ、人々の視線をつなぎ続ける作業は、祈りであり、贖罪である。シリアに生きる人々の代弁者としての、彼。生ける者と死者、全てのシリアの民衆、そして、破壊され尽くした街で生き抜く彼女、シマヴの「私は見た」という声を、我々は彼によって届けられる。
「私は見た」「いや、君は何も見ていない」 アラン・レネ『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』(59年)におけるジレンマの、オサーマによる回答である。
シマヴは音楽を聴く。エディット・ピアフの「愛の讃歌」である。日本では恋人たちのパーソナルなラヴソングとして良く知られるこの歌は、実は、信じるもののためには全てを犠牲にする、といった強い覚悟を歌ったものである。
空が落ちてきて、大地が崩れても、自ら信じるものを貫く覚悟。
あなたが望むなら故郷も捨てる、どんなことでもやる、という覚悟。
シマヴは自らの境遇と重ね合わせてこの曲を聴いたのだろうか。彼女はクルド人であり、それだけで迫害の対象となりうる。エディット・ピアフも警察に幾度も逮捕された経験を持ち、対独レジスタンス活動にも参加していた。二人の女性を重ね合わせて見ることは、傍観者のただの思い入れに過ぎないのだろうか。
子どもたちのために生きるシマヴ。残念なことに、彼女が撮影する子どもたちの姿は、安易な希望を抱かせるようなものではない。しかし、彼女はそこに留まり、彼、オサーマとの対話を続け、彼の「目」であることを選んだ。
「あなたが望むなら」—あなた、とは誰のことだろう。子どもたちであろうか。自らの内なる声であろうか。
この作品は2011年から2014年の早い時期までの記録であろう。まだその頃シリアではそれほど「イスラム国(IS)」の影響はなかった。その後まもなくISが一気に勢力を拡大する。加えて、世界各国がシリア内戦に介入し、事態はさらに混迷を極め今日に至る。漂着遺体となってヨーロッパに衝撃を与えた子どももそういえばシリア難民であった。この『シリア・モナムール』が完成した後、2015年の初秋のことである。
時は流れ、刻々と状況は変わり、彼、オサーマが見たシリア、この『シリア・モナムール』もすでに過去のものとなりつつある。シマヴは無事なのだろうか。
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【映画情報】
『シリア・モナムール』
(シリア・フランス / 2014 / 96分)
監督・脚本 : オサーマ・モハンメド ウィアーム・シマヴ・ベデルカーン
編集 : アサド・メゾン
追加編集 : ダニ・アボロー レア・マッソン
オリジナル音楽・ヴォーカル : ノマ・オルマン
協力 : 山形国際ドキュメンタリー映画祭
配給・宣伝 : テレザとサニー
2016年6月18日(土)よりシアター・イメージフォーラムほか全国順次公開
公式サイト:http://www.syria-movie.com/
【執筆者プロフィール】
井河澤智子(いかざわ・ともこ)
「ことばの映画館」メンバー。セミナーの影アナ、選挙のウグイス、会議司会、謎のアプリ声優など、こっそりと声の仕事をしてきました。そろそろ表に出てみたい、とノミとトンカチで壁をカチカチ削っているところです。