【Interview】 土に生きる夫婦の「日々」を積み重ねて 『ふたりの桃源郷』佐々木聰監督インタビュー

現在ポレポレ東中野で公開中の『ふたりの桃源郷』は、山口県岩国市美和町の山奥で自給自足的な生活を送る老夫婦・田中寅夫さん、フサコさんと、その家族の姿を足掛け25年に渡り追い続けたドキュメンタリーだ。老いてなお山で暮らし続けるふたりの姿は山口放送(日本テレビ系列)や深夜の『NNNドキュメント』で放送されるたびに大反響を呼び、今、映画となって全国公開されている。

寅夫さん・フサコさんの姿が、とにかく強烈に印象に残る。美しい里山をバックに健気な寅夫おじいさんや、フサコおばあさんの寅夫さんへの「愛」、二人に忍び寄る老いと、それを支える家族…泣き所は満載だが、決してお涙頂戴の演出ではなく、抑制がきいていた。しかるに、どうして私たちは、このお二人に強く心をひかれるのであろうか。劇場公開はこれがはじめてという佐々木聰監督に、取材の仕方、おふたりとの接し方を中心に話を伺った。
諸事情あって掲載が遅れてしまったが、ご覧になった方は、映画の印象をかみしめながら読んでいただければ幸いである。

(取材・構成=佐藤寛朗 )


「日々」を積み重ねて作品を作る

——主人公の田中寅夫さん・フサコさん夫妻の存在自体がドラマチックで、とても印象に残りました。そもそも、この作品は映画にしようと思っていたのですか?

佐々木 はじめから映画にしようと意識していたわけではありませんでしたね。

僕の普段の仕事は、夕方のニュース番組の前にやっているローカル枠の情報ワイド番組の制作です。山口放送では他にも朝に情報番組を1時間、夕方にニュース番組を45分、月~金曜にベルトで3つのローカル番組を放送しています。その中で「特集」と呼ばれる5~10分程度のVTRを月に3~5本制作するのが、僕の今の主な仕事です。

僕らの仕事は、ひとことで言うと「日々」です。日々を一生懸命追っていくスタイルです。今回映画化となった老夫婦のようなヒューマンドキュメンタリーの取材もあれば、美味しいお店やかわいい動物の取材もあります。例えば、アトピーの子どもを育てるお母さんが、そのノウハウを生かして、子どもに食べさせられるような米粉でパンを作る「パン屋さん」を開業したというような話も。その奮闘記を朝から晩まで取材して、10分ぐらいにまとめて放送するんです。

そのような「日々」、つまり取材と放送を何度も繰り返して積み重なってできたのが、この『ふたりの桃源郷』なんです。基本的には1回取材をしたら、1回の放送しなければいけないんですよ。だから、春に寅夫さんが苗を植えると言ったら、その1日を撮らせてもらって、それを放送する。秋に何かを収穫したら、それを放送します。その繰り返しです。そうやって素材がたまったものを何かの機会に長尺にまとめ、ローカルで放送したり、深夜の『NNNドキュメント』で全国放送したりします。終わればまた日々が始まります。ですから、僕らの作るドキュメンタリーは、決して映画がゴールではないんです。

——冒頭のシーンは、先輩が取材されていた時期の素材ですね。佐々木さんが取材を引き継がれた経緯をおしえていただけますか。

佐々木 「引き継いだ」というのともちょっと違う感じです。僕が入社した時には、先輩は寅夫さんとフサコさんの取材をすでにやめていたんです。僕は、入社して間もない頃、たまたま先輩が過去に作った番組を見る機会があり、その中のひとつが「桃源郷」で、寅夫さんとフサコさんを「素敵なご夫婦だなぁ」と思いました。その時は、それくらいの気持ちでしたが、7年後に改め番組を見る機会があって、今度はものすごく会いたくなったんです。「もう80歳を過ぎただろうが、元気にしているのか?」とか、「山の中の生活はもう続いていないのだろうか?」とか、いろいろなことを感じました。先輩に「取材を再開させていただけませんか」と申し出たんです。先輩は快く了承して下さいました。それですぐに会いに行ったんです。

先輩は、寅夫さんとフサコさんをご自分の両親と重ねていて、“高齢者の自立”というテーマで番組を制作していました。先輩は、自分の両親に対して何もしてきておらず、申し訳なく思っていたそうです。ですから、電気も水道も無い所で、元気に生活する寅夫さんとフサコさんを取材したのだそうです。でも、寅夫さんとフサコさんも70代後半になってくると、自立とは言えなくなってきていたから、先輩としては取材を続けたいという気持ちが薄れていったそうです。

僕は、寅夫さんとフサコさんを自分の祖父母に重ね合わせました。ちょうど桃源郷の取材をはじめた頃、祖父母を亡くした直後でした。ですから寅夫さんとフサコさんの喋り方だったり、匂いだったり、手触りだったりが、全て自分が失ってしまったものだから、最初は、それを感じに取材を重ねたようなものです。ですから、最初の3年間を先輩が取材、その後7年のブランクを経て、2001年からの15年間を私が取材しています。
『ふたりの桃源郷』より©山口放送

取材というより、共に時間を過ごした日々

——終始、共に時間を過ごしているような感じの映像が、とても心地よく感じられました。現場では、どのようなことを考えながら取材をされていたのですか。

佐々木 まさに、取材というよりは、一緒の時間を過ごさせていただく感じでしたね。初めての取材の時、寅さんはぜんそくでゼェゼェいいながら、そんな80過ぎのおじいさんが、その瞬間だけパワーが出て、見事に薪を割るんですよ。僕もやらせてもらいましたが、とてもできたものじゃない。どこからそのパワーが出てくるのか。薪をひとつ割るのにもあんなに大変なのに、今もあそこで暮らし続けている。その「凄み」を感じると、「これは伝えなくてはいけない」と思いました。そして、また「会いたい」と思って、会いに行く。その繰り返しでした。お二人と会うたびに、自分の祖父母に対する思いと、純粋にすごいな、という思いが混ざり合って、この人たちのことを「伝えたい」という気持ちが持続するんです。

取材を進めていく上で、やはり、ぼんやりとでもテーマを考えるんです。先輩は「老人の自立」と捉えていましたが、僕はちょっと違う感覚でした。自立していることがすごいとか、何がすごいとかではなくて、人として、一生懸命に生きている寅夫さんとフサコさんがすごいと思ったんです。老いると自立はできなくなっていくものですが、それを、日々乗り越えながら歩いていこうとしている。そんなお二人のまっすぐな姿勢に胸を打たれたんです。自分の祖父母も、もしかしたらそうしていたのかもしれないと思って。ともすれば、孫のような私のほうが一生懸命に生きていないんじゃないかと思わせてくれる人たちでした。ですから、生きていくことの素晴らしさを伝えなければならないと思ったんです。

——取材に行っている間は、どのような感覚で過ごしていたのですか。

佐々木 寅夫さんとフサコさんからすれば、僕はもう、完全に孫の扱いでしたね。寅夫さんはとにかくやさしくて、何でも教えてくれました。自分の祖父とは2つ違いですが、こちらが物事を知らなくても、何でも笑い飛ばしてくれて。それでも全然恥ずかしくない、と思わせる何かがあったんでしょうね。でも寅さんは「佐々木さん」と呼んでくれたから、取材する側とされる側の一線は引いてくれていたのかなとも思います。

スタッフも、一緒にお二人との時間を過ごそう、という気持ちで取材に臨みました。何かを捉えようとして、むやみにカメラを回すということはありませんでした。お二人を「記録したい」ではなく「見つめていたい」と。社内にいても「今日も元気に山に行っているかな」とか「この間は具合が悪かったけど、今どうしているかな」と。会いたくなったら車に乗り込んで出かけるような感じでした。うちの会社は、「行きたいんです」と言ったら、取材に行ってもいいんですよ。お金をかけなければ。お金は交通費しかかかりませんから。でも無闇に「行くな」とは言いません。全てがそうとは言いませんけど、その代わり、納得してもらえるものを放送し続けないといけないんです。

——行きたいと思ったら取材に行く、というスタイルは珍しいですよね。どのようなかたちでお二人と連絡をとられていたのですか

佐々木 基本的には、寅夫さんとフサコさんが山にいる時は連絡がとれません。様子が気になると思ったら、実際に行くしかないんです。

——寅夫さん・フサコさんと過ごした時間は、佐々木さんにとって、特別なものでしたか。

佐々木 他のどの取材も、基本的には同じ気持ちで向き合っています。ただ、あのご夫婦やご家族に関しては“向き合う”よりは“一緒にいさせてもらう”感覚のほうが強かったですね。

車で帰る時、寅夫さんとフサコさんは、いつも、僕たちを見送ってくださるんです。それも、ふたりで寄り添いながら、見えなくなるまで手を振ってくださるんです。ですから、帰りの取材車の中は、いつも温かい気持ちがあふれているんですよね。ご夫婦が見えなくなった後、スタッフたちは、ひとりずつ自分の話を始めるんですよ。反省会というよりも、お二人と時を過ごした時間を、自ずとみんな自分自身のことと重ね合わせるんです。そんな感じで毎回取材を終えるので、次に行く時に撮れる映像の「濃さ」も違ってきますよね。そうやって一日じゅう一緒にいて、寅夫さん・フサコさんの「何か」を切り取らせてもらいます。お二人の生き様の、「カケラ」のようなものを。
『ふたりの桃源郷』より©山口放送

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