アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の映画は、見るものを未体験の困惑にいざなう。特に初めて見た時は不可解すぎてほとんど寝てしまったし、同じ映画を見た人とも話が噛み合わず狐につままれたような体験をした。そうした分かりにくさにもかかわらず、『ブンミおじさんの森』(2010)でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞して以来、日本の一般の映画ファンにも注目されるようになり、昨年は特集上映、『光りの墓』(2015)公開、さいたまトリエンナーレ、個展、今年に入って舞台『フィーバー・ルーム』の上演と、めざましい活躍を見せている。なぜ彼の作品は人を惹きつけるのか。彼はいったい何者なのか。本書はそんな才気あふれるアピチャッポン・ウィーラセタクンに迫る多彩な論考に、監督本人のインタビュー、映画&アートの作品レビューも網羅した、日本初のアピチャッポン決定版となっている。
アピチャッポンの作品が難解な印象を与える一番の原因は物語(ナラティブ)の解体にある。シカゴ美術館附属美術大学で実験映画を学び、映画と平行してヴィデオ・アートを制作し続ける彼は、初の長編作品『真昼の不思議な物体』(2000)で行商や象使いなどの人々に物語を創作してもらい、リレーのようにつなぐドキュメンタリーを作った。続く『ブリスフリー・ユアーズ』(2002)、『トロピカル・マラディ』(2004)、『世紀の光』(2006)は劇映画だが、それぞれ違う形で前半と後半が分かれる二部構成になっている。こうした作風に対して、研究者の中村紀彦はヴィデオ・インスタレーションにも共通するノンリニア性=デジタル時代との親和を見出し、批評家の渡邉大輔は双方向コミュニケーションの可塑性を指摘する。こうした構造的な特徴には建築を学んだ下地があるともアジア的時間概念があるとも言われ、彼の作品の重要なハード面を担っている。映画は確固たる物語を持つ、という固定観念に依存するほど、アピチャッポンに受ける衝撃は大きい。
森がたびたび登場するのも印象的だ。舞台であるタイのイサーン(東北部)はアピチャッポンの故郷であり、彼の作品にかかせないソフト面をになう。四方田犬彦によると「住民の大半はラオス系かクメール系」で非常に貧しく、「バンコクとは言語においても歴史においても大きく異なった場所」であり、「1970年代に独裁政権に反対する学生たちがタイ共産党のゲリラ組織に加わった」歴史を持つという。森は少数民族や共産主義者が逃げ込んだ場所でもあったのだ。この地ではタイに広く浸透する精霊(ピー)信仰が色濃く残り、『メコンホテル』(2012)では内臓を食らうイサーン特有の精霊ピー・ポップがもろに登場する。イサーンそのものがまさに彼のミューズなのだ。監督はインタビューでこう語る。「俳優のジェンジラー・ポンパットさんがイサーンにおいて経験してきた過酷な歴史というものは、両親が医者の中流階級の子どもとしてぬくぬくと育ってきた自分には、想像もつかない経験でした」 貧しく虐げられた土地で何不自由なく育ってしまったことが新たな発見を生み、土地の者ともよそ者とも違う独特の視点につながった。
インタビューでは何にでも答えてくれるおだやかな人柄だが、そこからは想像もつかない激しい一面をかいま見せるのが、2007年8月に監督本人が書いた「軍事政権下におけるタイ映画の愚かな現状とその未来」だ。『世紀の光』が検閲によって4箇所(僧侶がギターを弾くシーン、僧侶がラジコンで遊ぶシーン、医師が酒を飲むシーン、医師が恋人とキスして勃起するシーン)の削除を命じられ、削除しなければ国内上映ができなくなってしまった。これに対して監督は「文化省は我々の血税を用い、空虚な道徳観を謳って“国家の尊厳”を口実に権威をふるう」「私が間違っていると証明できる人がいるならひざまずき、その足をなめてやる」と憤る。結局、削除された箇所に黒いフィルムを挿入した『世紀の光 ——タイランドエディション』というバージョンで上映して政府を強烈に皮肉っている。日本人には実感することが難しいが、思えばイサーンを描き続けるということ自体、単なるノスタルジーなどではなく権力に歯向かう闘いなのだろう。
本書の20を超える評論は「アート」「文化人類学」「映画」という3パートのゆるやかなまとまりによって配置されている。しかしどれも与えられたパートからゆうゆうとはみ出し軽やかに領域をこえていく。ドキュメンタリー/劇映画、生者/死者、現実/夢、あらゆる境を無効化する作家について語ろうとすると、言葉まで境界を無くしてしまう。彼の作品を見る行為も同じだ。物語を追うことなく画面をただながめていると、たえず自分の内面に眠る記憶やイメージの片鱗が掘り起こされ、映像と心に浮かぶ光景の二重映しを体験しているかのようだ。見せる側と見る側の境界までもあいまいになって、知らないうちに創作に加担しているかのように。
編著者の金子遊は、世界中にある「東北」は単に中央から見た地理的周縁や辺境を意味するだけではないと言う。「その場所でわたしたちは目に見えない存在に対する感性をみがき、想像力をはぐくみ、さまざまな霊的接触をおこなう。それは実在する土地というよりも、魂の所業をつかさどる場としてある」 これはそのままアピチャッポン作品にあてはまる。見る者の感性をみがき、想像力をはぐくみ、魂の所業をつかさどってくれる人。それがアピチャッポン・ウィーラセタクンである。
【書籍情報】
『アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーティスト』
編著:夏目深雪、金子遊
執筆者:相澤虎之助、アピチャッポン・ウィーラセタクン、飴屋法水、綾部真雄、伊藤俊治、岩城京子、カレン・ニューマン、北小路隆志、キュンチョメ、佐々木敦、高野秀行、トニー・レインズ、中村紀彦、福島真人、福冨渉、福間健二、港千尋、四方田犬彦、渡邉大輔
定価:3,200円+税
ISBN 978-4-8459-1617-7
発行元:フィルムアート社
【執筆者プロフィール】
佐藤奈緒子(さとう・なおこ)
映画とドラマを通して世界を勉強しています。仕事でハリウッド作品を見る機会が多いので、自然とそれにあらがう作品を追い求めてしまいます。neoneo編集委員。