【寄稿】プリズムを束ねるー『禅と骨』を観てー text 鈴木一誌


『禅と骨』(プロデュース・監督・構成=中村高寛)を観ながら「新たな領域に踏み込んだドキュメンタリーだ」と感じる。が、作品を発表するとは、なんらかのかたちで新たな領域に踏みこもうとするのだから、『禅と骨』では「踏み込み方が新しい」と言ったほうが正確だ。その新しさをひとことで表わせば、「異なった要素を混ぜあわせ、組みあわせたもの」を意味する「ハイブリッド」である。この作品は、記録映像、再現ドラマ映像、アニメーションなどが混交したドキュメンタリー作品なのだが、それだけの理由でハイブリッドなのではない。

本作では、スタッフ本来の職分の境界線が滲み、役割分担が融合している。プロデューサーは、林海象と中村高寛のふたりになっており、映画制作の経緯がふたりのプロデューサーを求めたのだろうが、両者の役割は同じではなく、プロデュースの複数性は映画制作になんらかの影響を与えているはずだ。また、土本典昭監督と小川紳介監督はともに、「ドキュメンタリーでは、編集を他人に任せてはならない」と語っていた。ドキュメンタリーにおいては、編集作業につれてシナリオができていく。それゆえ、編集を任せると他人の映画になってしまう。中村は「構成」となっており、「構成・編集」が白尾一博である。中村は、「ドキュメンタリーでは、編集を任せてはならない」のを知ってのうえで、構成と編集の境目を揺動させた。『禅と骨』は、この点でもハイブリッドだ。

澤井信一郎監督は、自分の監督する劇映画では、シナリオにすでに編集を織りこんでおり、撮影後の編集でなんとかしようとは思わない、との発言をしている。中村は自身のキャリアを松竹の助監督としてスタートさせており、編集に対する考え方が劇映画的なのかもしれない。前作『ヨコハマメリー』からして、編集は白尾である。劇映画的な編集観とドキュメンタリー的な編集観の融合した場所はないのか、『禅と骨』の作り手がこう考えてもおかしくない。ここで言う構成が、なにに先行する構想だったのか。撮影前の作業を指すのか、編集の準備作業だったのか。

被写体であるヘンリ・ミトワと撮影スタッフとが言い争うシーンについて佐藤忠男は、「従来の映画作りの常識では、それらは隠されるはずのものだった」(『キネマ旬報』2017年9月上旬号)と書く。「従来の映画作りの常識では、それらは隠されるはずのものだった」との事態が、本作のあちこちで目撃できる。既成のワークフローが十分には機能せず、踏み込み方を新しくせざるをえなくなったのだ。

これまでの映画とのちがいがこの作品にはいくつもある。なかでもっとも大きな特徴は、映画全体が8章の「章立て」になっている点だ。映画と本のハイブリッドである。章が告げられる点では、ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』が思い浮かぶが、『禅と骨』のようには時制を行き来しない。『禅と骨』の章立ては、オムニバス形式でもなく、章ごとに、記録、ドラマ、アニメの映像が割り当てられているのでもない。

ふつう、映画はショットとシーンとシークエンスからなりたち、この作品では、それよりもさらに上位の構造が必要となった。これまでの映画では、章に当たる大きな切断面では、画面をガラリと暗転させたり、「10年後」といった字幕や事件名を「桜田門外の変」とタイトルで入れる、もしくは登場人物に年齢を重ねさせたりしてきた。

土本典昭監督の、「第I部 資料 証言篇」「第II部 病理 病魔篇」「第III部 臨床 疫学篇」三部作からなる『医学としての水俣病』や、小川プロ『1000年刻みの日時計 牧野村物語』のような長時間の作品では、章よりさらに上位の階層である「部」による構造化が伝わるが、章までを顕示してはいない。

『禅と骨』が観客に明示する「章」からは、単なるスタイルや手法ではなく、もっと切迫したものを感じる。『禅と骨』が向き合わざるをえなかったのは、「リニアなるもの」だったのではないか。映画は、上映される時間に添って継起的に流れていく。文章における継起性も強固だが、それでも行きつ戻りつ読める。映写ではそうはいかない。投影がリニアに進行するのを前提したうえで、「カット」を繋ぎの単位として考えるか、切断の手がかりと考えるか、その両方が成立する。フレデリック・ワイズマン作品は章立てとは馴染みそうもないが、その映画のなかには深い亀裂がいくつも走っている。

見出しのまったくない小説は、拾い読みはできても、意識的に順序を変えて読むのはむずかしい。しかし章立てされた本では、アクセスはかなり自由になる。参考になるのは、ゴダールの『映画史』ではないか。複雑な部と章によって編まれつつ、どのように観ようと観客にまかせている、との雰囲気が漂う。


『禅と骨』チラシのリード文には、日本人を母に、ドイツ人を父にもつ在日米国人で、京都・天龍寺の僧侶でもある主人公であるヘンリ・ミトワについて、「昭和を生きた、複雑で、胡散臭くて、滑稽で、愛おしい、ひとりの男の波乱に満ちた人生の物語」と記している。2012年に93歳で亡くなったひとりの人間の人生を、一貫した解釈でシーケンシャルに完成させるのが困難だと考え、章立てが選択された……。

捉えようとする対象が複雑であれば、構成も込み入ってくる。引用と参照の網目が張りめぐらされ、注記も入る。主人公がヘンリ・ミトワだったから継起的に描くのがむずかしかったのではない。あらゆる人間は、複雑で十全に理解することができない。文化人類学では、フィールドワーカーが自身の思考を観察対象に投影してしまう問題が指摘されている。社会が複雑化し、個々の人間が多層を内包せざるをえない。同時に、ドキュメンタリーの作り手自身も多層的になり、観客もまた複雑になっている。映画手法だけが進化・変化するのではない。編集作業がノンリニアになり、描かれる内容もノンリニアになっていく。一貫した解釈でシーケンシャルに表現すること自体が困難になっていることを見せた『禅と骨』は、現在ただいまのドキュメンタリーである。

もうひとつ、この作品が踏み越えたと思われる一線がある。死者のあつかいだ。ある人物を描くとは、生きて起居している人物を対象としている。表現の観点からは、亡骸はその人物の延長線上にあるとは約束されていない。しかし『禅と骨』は、主人公の死に顔を撮り、遺骨までを映した。『禅と骨』は、章ごとに異なったプリズムで世界を透過ようとする。死を、生の結果だとは考えなかった。生と死という異なる相から人物を多面的に描けないか。異なったプリズムが投げかける光の束を観客に目撃させようとする。

連続のための切断なのか、切断のための連続なのか。どちらが観客にとっておもしろいのか。シーケンシャルな型に鋳込むからこそ映画はおもしろいとする意見もあるだろう。『禅と骨』は、ドキュメンタリーづくりが変容しつつあるのを伝える。作り手にインタビューし、『キネマ旬報』に連載された中村のコラム「黄金町ブルース」を読みなおせばいくつもの疑問は解けるのだろうが、ドキュメンタリーづくりがどのように変化していくのか、その視点から、記憶のなかの『禅と骨』といましばらく対話をつづけたい。
【映画情報】

『禅と骨』
(2016年 / 127分 / HD 16:9 / 5.1ch )

監督・構成・プロデューサー: 中村高寛 / プロデューサー: 林海象
ドラマパート出演:ウエンツ瑛士 / 余 貴美子 / 利重剛 / 伊藤梨沙子 / チャド・マレーン / 飯島洋一 /山崎潤 / 松浦祐也 / けーすけ / 千大佑 / 小田島渚 / TAMAYO / 清水節子 / ロバート・ハリス / 緒川たまき / 永瀬正敏 / 佐野史郎
ナレーション: 仲村トオル

音楽:中村裕介×エディ藩・大西順子・今野登茂子・寺澤晋吾・武藤イーガル健城
挿入曲「赤い靴」岸野雄一×岡村みどり×タブレット純、「京都慕情」岸野雄一×重盛康平×野宮真貴

エンディング曲「骨まで愛して」コモエスタ八重樫×横山剣(CRAZY KEN BAND)
配給:トランスフォーマー
劇中写真は全て©大丈夫・人人FILMS

公式サイト:www.transformer.co.jp/m/zenandbones/

neoneo監督インタビュー
【Interview】自分の中の「殻」をいかに崩すか――『禅と骨』中村高寛監督インタビュー text 若林良

ポレポレ東中野 キネカ大森 横浜ニューテアトルにて公開中
ほか、全国順次公開

【執筆者プロフィール】

鈴木一誌(すずき・ひとし) 
ブックデザイナー。1950年東京都生まれ。杉浦康平氏のアシスタントを12年間つとめ、1985年に独立。映画や写真の批評も手がけつつ、デザイン批評誌『d/SIGN』を戸田ツトムとともに責任編集(2001~2011年)。神戸芸術工科大学客員教授。著書に『画面の誕生』(2002年)『ページと力』(2002年)『重力のデザイン』(2007年)『「三里塚の夏」を観る』(2012年)『ブックデザイナー鈴木一誌の生活と意見』(2017年)。共編著に『知恵蔵裁判全記録』(2001年)『映画の呼吸 澤井信一郎の監督作法』(2006年)『全貌フレデリック・ワイズマン』(2011年)、『1969 新宿西口地下広場』(2014年)『デザインの種』(2015年)『絶対平面都市』(2016年)など。