まさに今後の大阪市の運命が決まるというその夜に、平成最後の大阪の春を描いた映画が東京で上映された。
そして、上映終了後すぐ、その結果が報じられた。大阪市、存続、と。
コロナ禍により、他の映画祭が中止あるいはリモート開催となる中、フィジカル開催にこだわった東京国際映画祭。
コンペ部門は中止となり、海外ゲストによるQAはリモートで行う、というスタイルで開催されたが、『カム・アンド・ゴー』のリム・カーワイ監督は2週間の自主隔離を辞さず来日し、このワールドプレミアへの登壇となった。
同時に登壇した渡辺真起子、桂雀々氏などが口を揃えて「脚本もなくどういう映画だかわからない」「自分がどこに出ているのかもわからない」と述べ笑いを誘ったが、当の演者陣も初めて観るというこの作品は、大阪の街の底に確実に存在しながら「不可視」のものとなっている漂流者たちをテンポ良く映し出した群像劇であった。
平成から令和へとかわる直前。これまでになく浮かれた「元号の替わり目」の時期。
「スシー!オコノミヤキー!」とはしゃぐ韓国人女性たち。
「美味しい食事、いいホテル」に釣られ日本にやってきたが、実際はワンルームに雑魚寝、食事はコンビニ。全く話が違うというのに、ブローカーは「金を稼いだら寿司」「金を稼いだらいいホテル」とのらりくらり。彼女たちは日本で水商売か風俗で働くのだろうか。
工場で働くベトナム人が帰国したいと言う。日本人の上司は「3年契約」を振りかざして断る。この工場で「外国人労働者」をどのように扱われているかがはっきりとわかる。彼はその場で逃げ出す。
日本語学校に入学しながら学費が払えず、昼夜アルバイトに明け暮れた挙句バイト先の店長にセクハラされる女子学生。ええことしてくれたらなんぼか払ったる。
外国人労働者に対して日本人は決して優しくない。
日本人ですら安定した職を得ることが難しく、ここ20年ほとんど給与が上がっていないなど、斜陽の国としか思えない日本だが、それでも労働力が足りないとされ、ビザ等も緩和、アジアの一部の国からは「稼げる」と思われているようだ。また、「3年働かないと帰国を許可しない」などといった制度(しばしば故意に誤った運用をされる制度である)に見られるように、外国人労働者を搾取する仕組みが既に出来上がっている。彼らは実際に日本で働き始めて早々後悔したのではないだろうかと心配にもなるが、監督はあくまで彼らの「サバイブ」の様子を軽やかに描き出す。
日本人もしたたかである。
日本語学校の出席者の数が少ない、と思ったら、この学校は高い学費を取りながら不法労働を斡旋する施設であった。働いていたら学校には来ない。
徳島から大阪に出てきた女性。いわゆる「貧困女子」。怪しげなスカウトマンに引っかかり、流されるままにエロ映像の撮影に巻き込まれ、すんでのところで逃げ出すが、慌ても怒りもしない。出会い喫茶でキャバクラの仕事を紹介されるが、酒は飲めないし気の利いたことも言えず、一瞬でクビ。寝泊りはネットカフェ。彼女の定まらない視線はなにを見ているのだろうか。貧困によって思考力が低下するという説は本当なのかもしれない。
彼女を撮ろうとしたAV監督は沖縄出身である。彼もまた金に困っているが、韓国人ブローカーと中国人女衒から見事に金を巻き上げて逃げる。
日本人も金に対して貪欲なことにかけては外国人に負けてはいない。
彼らの目的は「金」と「エロ」。アジアにおいて日本の立ち位置がそれらの供給源ということである。
日本がエロに溢れた夢の国であるということは、大阪に頻繁に来てはアダルトショップを回り、女優のサイン会に並ぶ台湾人男性や、女性ばかりのツアーに退屈し、自由行動で美人マッサージ屋に入ったら施術者は大阪のオバハンでがっかりする中国人男性によって表現される。
そして、男たちをもてなす女性たちの多くがアジア各国からの労働者であることは「じゃぱゆきさん」という言葉がかつてあったように、昨日今日のことではない。
「旅行者」に対しては、日本は優しい。
「旅行者」として出会った台湾人と中国人。
誇り高い中国人が商店街で手に取るのは「文化大革命」についての古書である。
言葉がわからず不安な中国人は、同じ古本屋でエロ本を漁っていた台湾人にあれこれ頼ることになるが、日本も台湾も下に見る姿勢がだんだん露骨にあらわれてくる。
彼、曰わく。中国に比べて大阪はあまりにも遅れている。台湾人の彼は軽くいなすが、両国の関係を思うと可笑しくもキナ臭い。
その後共にのんびりと風呂に浸かることになるのだが、彼らはその後友人関係を築くことはないだろう。
一瞬交わり、離れていくだけの彼ら。
人権団体と思しき集団は声を上げる。
差別をなくせ、みんな仲良く。
なんと空々しい響きだろう。呑気な彼らの顔つき、ふわふわと挙げられる拳。
差別は確実にあるのだ。
一見、外国人労働者に寄り添っていると思える日本人であっても、金銭的トラブルが生じると真っ先に彼らに疑惑の目を向ける。お金のために働いているのだから彼らが万札を貯め込んでいたとしても当然だろう。しかしそれを「盗んだ」と決めつけるのは差別と偏見以外のなにものでもない。
叩き出されて連れ去られる彼はどこへ行くのだろうか。
ベトナム人、ミャンマー人、ネパール人、韓国人、そして地方から集まってきた日本人、彼らが必死で生きるさまが短いショットで次々切り替わり、まるでモザイクのように映し出される。
モザイク。小片を並べ図像を形作る。小片は彼らそれぞれの生活であり、互いに踏み込むことはない。それぞれの生活は分断されている。彼らの生活の分断が小片となって、「大阪」というモザイク模様を形作る。
マレーシア出身で学生時代を大阪で過ごし、今も大阪を拠点のひとつとして世界各地で映画を撮るリム・カーワイ監督はQAでこう語った。
「日本を訪れる外国人の数は、自分が大阪に留学していた時期に比べても格段に増えている。状況はここ数年で大幅に変わった。しかし、そこで大変な思いをしている外国人はたくさんいる。彼らは日本で生きることに必死で、自国コミュニティのこと以外興味がない。生きにくさから危ない仕事に手を出さざるを得ない状況に、誰も関心を向けない。そのことに対して批判をするわけではなく、状況そのものを描きたかった」
あらかじめ「分断」は織り込まれていたのだ。彼らはすれ違うことはあっても、決して交わり合うことはない。
そんな状況の中生き抜かなくてはいけない人々がいる、ただそれだけだ。
外国人だけではない。故郷を離れ大阪に流れ着いた日本人も同じである。ただ一人のサバイブ。彼ら一人ひとりが、モザイクの小片。
平成最後の桜。彼らは桜の時期が巡ってくるたびに、1年生き抜いた安堵感を得るのだろう。
かように重いテーマ、かつ2時間30分を超える長尺ながら、この作品は一気に見せ切るパワーがある。それはなぜか。
その見せ方に、物語が細かくバチバチと切り替わる「瞬間移動の楽しさ」と、即興演出により、重い役作りより「反射的なスピード感」が出ている、ということも理由だろう。ひょっとしたら東京とは全く違う「大阪」というパワフルでフランクな土地柄のためかもしれない。
また、台湾の巨匠ツァイ・ミンリャンの作品全てで主演を務め、常に無表情なキャラクターを演じているリー・カンションが、台湾のAVマニアとして、なんとも愛らしく魅力的な演技を見せていることも、見どころのひとつである。彼の存在もまた、映画の軽やかさに奏功しているのかもしれない。
【映画情報】
『カム・アンド・ゴー』
(2020年/日本・マレーシア/カラー/日本語、英語、北京語、韓国語、ネパール語、ベトナム語、ミャンマー語/158分)
監督:リム・カーワイ
出演:リー・カンション、兎丸愛美、千原せいじ、渡辺真起子
画像はすべて©cinemadrifters
2020年・第33回東京国際映画祭にて上映
【執筆者プロフィール】
井河澤 智子(いかざわ・ともこ)
求職中の映画好き。
超氷河期世代ど真ん中。
毎日がサバイバルでも笑って生きてます。
書店巡りにハマり中。