ウディ・アレンと運命論
転換点としての『マッチポイント』
ウディ・アレンのフィルモグラフィーの分水嶺となる作品とは何か。商業的な成功と、作家としての批評的な評価という点において、第一に名前が上がるのは『アニー・ホール』(1977)だろう。では、その後のキャリアにおいて転換点をどこに見出すか。これには、さまざまな見解が想定されうる。だが、2005年に公開された『マッチポイント』をアレンのキャリアにおける重要な転機と考えることは、おおよそ不自然なことではないだろう。
『マッチポイント』でアレンは、初めてニューヨークを離れてロンドンで撮影を行った。物語の舞台もロンドンに設定されており、その後の『タロットカード殺人事件』(2006)と『ウディ・アレンの夢と犯罪』(2007)に続く、いわゆる「ロンドン3部作」の始まりとなった。ほかにも、全編を彩る音楽にアレンの愛好するジャズではなくオペラが採用されていること、舞台がイギリスということで階級の問題を盛り込んでいること、そして殺人を絡めた本格的なサスペンスとなっていることも、それ以前の作品には見られなかった、アレン作品にとっては新機軸となるものだった。
『マッチポイント』の主人公は、ジョナサン・リース=マイヤーズ扮するアイルランド出身のクリス・ウィルトン。プロテニスプレイヤーとしてのキャリアを諦めてロンドンで再起を図るクリスは、講師を務めるテニスクラブで上流階級出のトム・ヒューイット(マシュー・グッド)と出会い、親交を深めることになる。クリスは自然な成り行きでトムの家族とも親しくなり、トムの妹であるクロエ(エミリー・モーティマー)と交際を始める。同時にクリスは、トムの婚約者であるアメリカ出身の女優ノラ・ライス(スカーレット・ヨハンソン)と知り合い、その逃れ難い魅力に惹かれていく。
その後、クロエと結婚したクリスは養父の会社に就職し、テムズ川を見渡せる高級住宅で暮らし始める。そしてノラがトムと別れたことを知る。クロエが不妊治療を受ける一方で、クリスはノラと偶然に再会を果たし、クロエに隠れて彼女との逢瀬を重ねることになる。クリスの子どもを妊娠したノラは、クリスにクロエと別れるように迫り、次第に言動にも激しさを増していく。そしてクリスは窮地を打開すべく、危険な一計を案じることになる。
以上のような『マッチポイント』のストーリーが、ジョージ・スティーヴンスの『陽のあたる場所』(1951)を参照していることは明白であろう。セオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』の映画化である『陽のあたる場所』で問題とされるのは「階級」であった。貧困家庭に生まれ育ち、上流階級の生活に憧憬を抱く青年ジョージは、令嬢アンジェラと農家出身の女工アリスという、対極の世界に属する二人の女性との間で引き裂かれる。『マッチポイント』のクリスもジョージと同様に、ありあまる上昇願望を満たしていくなかで殺人という禁忌に接近していくことになる。こうした物語の構造とともに、両作の主人公がともに信仰心の厚い一人親家庭で育ったことがほのめかされるなど、随所に共通点を見出すことができる。
では、共通点に目を向けるいっぽうで、アレンが施した異同にも注目してみよう。それは第一に、物語の核となる殺人のモチーフに用いられるサブテクストである。『陽のあたる場所』は劇中でミレーの絵画「オフィーリア」を明示的に映し出すことで、その後に起きる殺人が水と関連した場所で行われることを予告する。対して『マッチポイント』では、ドストエフスキーの小説『罪と罰』を物語の重要なアイテムとして印象的に登場する。そして、主人公が老婆を殺害するという行為が予告され、犯行の現場も安アパートへと変更されることになる。
そうしたストーリーの大枠とともに、アレンが作品世界全体を覆う主題として盛り込んだものがある。それがほかならぬ運命論である。
アレン的運命論とは何か?
『マッチポイント』の主題は「運」である。このことは冒頭から明快に示される。テニスボールがコート中央のネットに当たり、真上に高く跳ね上がる様子がスローモーションで捉えられる。そこにナレーションが重ねられる。そこでは、ボールがどちら側のコートに落ちるかを決めるのは運のみであり、そのことが運命を大きく変えるのだということが、寓意的に語られる。ここにあるのは、世界とは人知ではいかようにもならない運命論的なビジョンによって満たされているという意識である。
ほかにも、クリスが知り合ったばかりのトム、クロエ、ノラと食事をする際に、人生を規定するものは運であるという会話が交わされる。ここでは上流階級へと仲間入りを果たしたクリスの「階級」への冷めた視線もうかがうことができる(現在の流行語でいえば「親ガチャ」とも親和性があるものだろう)とともに、上流階級への仲間入りをすることへの打算的な思惑も匂わせる。
そうした運命論のモチーフが極点に達するのが、ほかならぬクリスの殺害計画の行く末である。クリスの計画とは、別荘から持ち出した義父のショットガンでノラのアパートに住む隣人を銃殺し、薬物売人の物盗り事件を偽装したうえで、帰宅したノラも銃殺するというもの。計画は中盤、ほとんど安易にも見えるような形で実行され、老婆とノラは殺害される。そして、クリスの思惑通りに事は進んでいく。もちろん彼も参考人として聴取され、家族たちの間でも事件は話題になるが、クリスはあくまで平静を装う。やがて殺害された薬物売人のポケットからノラの隣人の指輪が見つかったことで、その男が真犯人として片付けられる。物語の最後にはクロエが無事に出産したことがわかり、家族たちが喜びを分かち合う姿が映し出されて映画は幕を閉じる。
アレンは運命論的なビジョンに満たされた世界を描くことで、現実の出来事も同様に、いくつもの偶然の要素が交錯しているにすぎないという、シニカルな態度を表明している。クリスの罪が露呈しないのは、その犯罪計画が完璧だったからではもちろんない。むしろクリスの計画は杜撰そのもので、彼が入獄を免れたのは、あくまで彼が「幸運」だったからにすぎない。クリスの幸運を象徴するアイテムは、先述のように彼が老女の家から盗み出した指輪である。クリスが警察のもとに向かう直前にテムズ川に向かって投げ捨てた指輪は、橋の欄干に当たって跳ね返り、地上に留まってしまう。本来ならクリスの「敗着」ともなりえる偶然の采配だが、偶然はさらに重なる。指輪は、たまたまそこに通りかかった薬物売人の手に渡り、彼がすべての罪を被るスケープゴートとなるのだ。ここでは、冒頭のマッチポイントにおけるテニスボールの寓意が現実のものとして生起する。
ラストシーンでは、絵に描いたような幸福を享受する家族の傍ら、浮かぬ顔をしたクリスが窓越しにテムズ川を眺める姿が捉えられる。罪を自分の胸に抱え込んだままでいるクリスの憂いは、その罪が赦免されたわけではなく、あくまでも真相が宙づりにされているに過ぎないという境遇から生じるものだ。決定的な罰の宣告も留保され、赦しの瞬間は永遠に先延ばしにされているという感覚。もはやクリスには、この運命論的な世界のなかでは自らの人生における「選択」の余地すら残されていない。より正確に言えば、彼自身は選択を下したつもりでも、彼の選択と、最終的な結果との因果関係は本作では徹底して排除されている。ひるがえって、『マッチポイント』は私たちが生きる世界の寓話ともなりうる。私たちが「運命」を強く意識するときとは、目の前で生起した偶然・運が自分自身の存在を脅かすような、恐るべき姿をもって現れるときである。言い換えれば、私たちは偶然を単なる偶然と思えないと確信するとき、図らずも運命論者となってしまう。
こうした運命論のモチーフは、アレン作品において馴染み深いものでもある。実質的なデビュー作である『泥棒野郎』(1969)では、アレンが演じる軽犯罪を繰り返すバジールという男の半生がモキュメンタリー形式で描かれたが、そのラストでバジールが逮捕される決め手となったのは、単なる偶然の重なりでしかない。バジールが路上で恐喝するために声をかけた男が学生時代の友人であることがわかり、さらに現在は刑事となっていることが発覚するからだ。それ以後もアレンは、浮気という「軽罪」が殺人という「重罪」へと展開していく『ウディ・アレンの重罪と軽罪』(1989)や、同じ出来事でも語り口によって喜劇と悲劇のいずれにもなりうることを枠物語の構造で語る『メリンダとメリンダ』(2004)など、いくつもの作品で運命論的な要素を変奏させていく。
『カメレオンマン』(1983)では、カメレオンのごとく周囲の環境に順応し、容姿や能力を変化させてしまうレナード・ゼリグという男の生態がモキュメンタリーとして描かれた。このゼリグは精神分析医と会話しているうちに、自分が精神分析医になったかのように変身し、お互いに分析を行うようになる様子がコミカルに描かれる。そうした変身を繰り返すなかで、ゼリグはユダヤ人であるにもかかわらず、ナチスの党員となってアドルフ・ヒトラーの側近となっていく。しかし、ゼリグがヒトラーに接近していくのは、たまたま近くにナチ党員がいたからにすぎない。
これはチャールズ・チャップリンの『独裁者』(1940)で、トメニア国の独裁者ヒンケルにユダヤ人の床屋が瓜二つであるという設定とは対照的だ。『独裁者』でヒンケルと床屋が入れ替わるのは彼らが「そっくり」であるという絶対的な条件が前提にあり、そこには偶然性の要素は希薄である。そして、まさにそのことによって、戦争を回避するための一世一代の演説が劇中ではすべからくなされる。分類するならば、アレンの『カメレオンマン』が偶然性に満ちた「運命論」の寓話だとすれば、チャップリンの『独裁者』は偶然性を排除した「決定論」の物語であるということができるだろう。
アレンが描く物語が運命論のモチーフを持つとき、そこでは偶然性は排除されない。そもそも運命論とは、過去の行為によって因果法則が規定される決定論とは性格を異にするものであり、『マッチポイント』で罪から逃れたクリスの物語が悲劇的な色合いを帯びるのは、彼の運命を決めるのが彼自身の努力によるものでなく、偶然性の積み重ねであることを突きつけるからである(彼がノラの魅力に囚われてしまったのは、彼女が「運命の女=ファム・ファタル」としての引力だったのだろうか)。ここで描かれるのは、彼の罪が偶然に露呈しなかったように、彼が成功して手に入れたはずの人生も偶然に訪れたものでしかないのだという悲劇である。