【Review】身体、環境、言語が生まれるところ――『森のムラブリ インドシナ最後の狩猟民』 text 長本かな海

「インドシナ最後の狩猟民」という崇高な副題とは裏腹に、このドキュメンタリーを見終わった後、いつまでたっても印象に残っているのは森の中でひたすらゴロゴロダラダラと過ごすムラブリの姿だ。筋骨隆々、果敢に弓矢で野生動物に挑む先住民、サステナブルな暮らし、権力を拒む自由の民、といったよくある形容とは反対に、ムラブリが現在狩るのはネズミなどの小型動物だけだし、住居の中には衣服やビニール袋が散らばり、米やタバコなどは村人の施しに頼っている。現代社会に生きる私はムラブリの姿を見て咄嗟に「こんなにダラダラ食べてばっかりで大丈夫なの?!」と思ってしまったが、森の中で過ごす彼らの力みの抜けた身体や立ち振る舞いを見ていると、人間とは本来こんなにも伸びやかなのかと驚いてしまう。

『森のムラブリ インドシナ最後の狩猟民』はタイのムラブリ族の村での調査中にたまたま出会ったという、映像作家でありフォークロア研究者の金子遊氏と、フィールドワークを重ねながらムラブリ語を研究する言語学者の伊藤雄馬氏がタイとラオスに住むムラブリを訪ね、彼らを引きあわせることを試みるドキュメンタリー作品だ。ムラブリ族はもともと森深いタイとラオスの国境地帯に住む遊動民で、100年ほど前に集団として分かれたとされており、現在ではタイで定住化している2つの集団とラオスで森の中に暮らす集団の総勢400人ほどが存在する。互いを人喰いと恐れている各集団の間に現在関わりはなく、伊藤氏は接触がない100年の間に変化したムラブリ語方言の研究を10年以上にわたり行っている。

映画は「彼らを引きあわせる」ことを大きな目的とした伊藤氏と金子氏の奮闘をそのまま追体験するようなかたちで構成されているのだが、その物語以上に『森のムラブリ』で注目に値するのは、異なる環境で暮らす現代のムラブリの姿をドラマチックに脚色することなく映像に収め、伝えている点だろう。タイで定住生活をする2つの集団と、ラオスの森の中で今でも遊動生活を営む集団、そして時折差し込まれる定住化以前のムラブリの姿を写した写真資料に写る人々は、同じムラブリ族ではあっても身体が放つ自信の有り様や佇まい、雰囲気が全く異なる。集団が分かれてから100年の間に生じたこれらの差異は、居住環境の違いが、言語をはじめいかに人の在り方に影響を及ぼすのかを物語っているようだ。

環境の違いが身体の佇まいに影響するという点で特に興味深かったのは、ムラブリがムラブリ語を話し出す時に生じる身振りや手振りの変化だ。普段タイ側のムラブリはタイ語と、ラオス側のムラブリはラオ語とムラブリ語を混ぜて会話しているようだが、映画の中ではその使用言語の違いを字幕フォントを変えることで表している。使用言語の違いに注目すると、彼らがムラブリ語を話しだした時、リズミカルなイントネーションや表現豊かな身体の抑揚が強調されることに気がつく。ムラブリ語は同じ音を抑揚をつけて伸ばすことが多いようで、東南アジア的な開いた感じの軽やかさや、オノマトペのような原初的な音の響きを感じる言語だ。

後半、金子氏と伊藤氏は常に移動しているため地元のラオス人も彼らがどこでどのような生活を送っているのか知らないという、ラオス側のムラブリの野営地を訪れることに成功する。このラオス側のムラブリこそが私が先に述べた森の中でゴロゴロダラダラと過ごしているムラブリの集団だ。映像に映っている彼らは木の幹や葉で作った簡易的な屋根の下にみんなで寝そべり、おしゃべりをしたり眠ったり、腹が減ったら村でもらってきた米や掘ってきた芋を炊き、川で獲った魚などを焼いたりしてみんなで分けあって食べる。暑い時は森で過ごし、飽きたら村に遊びに行き、気が向いたら野営地を移動する。お互い特に誰に相談することもなく、各々が体の赴くままに行動する悠々自適な暮らしぶりだ。

理由はわからないが、映像のなかではタイの定住したムラブリがムラブリ語を交えて会話することが多かったのに比べて、森の中で外界との接触があまりないように思われるラオス側のムラブリはほとんどラオ語で会話しており、若者はムラブリ語を話すこともできないようだ。そんな中でも一箇所だけ集団の中では年長のブンさんがムラブリ語で語るシーンがある。ある夜、ブンさんはクルオールという蛇の食べ方を説明するのだが、クルオールがどのような蛇なのか、それをどのように捌くのかを身振り手振りを交えて表現豊かに説明してくれる。ブンさんの口から出るムラブリ語の音は意味内容に収束する情報としての言語というよりも、身体経験から湧き出てくる、彼が知覚した世界と密接に関係する音のように私には聴こえた。

狩猟採集民、消滅危機言語、言語学、と言えば2008年に出版された言語学者ダニエル・L・エヴェレットによる『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』が思い出される。エヴェレット氏はキリスト教を布教する伝道師としてアマゾンの奥地に住むピダハン族の村に住み込むのだが、聖書をピダハン語に翻訳するために奮闘するなかで、言語を通して見えてくる彼らの存在の在り方、世界の捉え方に魅了され、ついには自らの信仰を捨て無神論者となってしまう。本のなかには数々の興味深く面白いピダハンのエピソードが出てくるのだが、ムラブリの話し方を見ていて思い出されたのがエヴェレット氏がピダハンから「右」と「左」という言葉を聞き出そうとする場面だ。彼は左手を指し示しそのピダハン語を尋ねると、ピダハンは「手は上流にある」と答える。左手を指すと今度は「手は下流にある」と答える。エヴェレット氏は全く意味がわからず、こんな簡単な言葉も聞き出せない言語学者としての自分に絶望するが、一週間後、ピダハンがどこに居ても村の横を流れる川を基準に右と左という方向性を把握していることに気がついた。

私たちは自分の身体の中での関係性のみに注目して右と左を判断するが、ピダハンは環境との関係性において方向や自分の身体を認知している。その「右」と「左」という方向は知識や情報として環境から切り離されたものではなく、世界との関わりの中でその固有の一時に経験されたことから生じるものだ。ムラブリのブンさんが語る言葉は、ピダハンの「右」「左」の方向性の示し方のように、世界との関わりによって生じた経験が、知識や情報として置き換えられることなくダイレクトに発話として表出したもののように見えた。ムラブリ語を話すムラブリの身体性を伴った豊かな語りは、まるである固有の環境に住む集団に言語というものが発生する瞬間を垣間見せてくれているような印象を与える。

それぞれに異なる環境との交流を通して様々に変化するムラブリたちの姿を見ていると、私が身を置く彼らとはまた違ったこの環境は私の身体や語りにどのような影響を与えているのかと考える。ゴロゴロダラダラとその時を生きるムラブリの姿は私からするととても羨ましいが、数々の狩猟採集民の辿った道を考えると彼らのその生活形態も長くは続かなそうだ。現代社会の波に呑まれたとき、先祖代々長い年月にわたり住んできた環境を身体経験として思い出させてくれるのが、環境との繋がりを失っていない文字化以前の言語なのかもしれない。

【映画情報】

『森のムラブリ インドシナ最後の狩猟民』
(2019年/ムラブリ語、タイ語、北タイ語、ラオス語、日本語/カラー/85分)

監督・撮影・編集:金子遊
出演:伊藤雄馬、パー、ロン、カムノイ、リー、ルン、ナンノイ、ミー、ブン、ドーイプライワン村の人びと、フアイヤク村の人びと
配給:オムロ、幻視社

公式サイト:https://muraburi.tumblr.com/

予告編:https://www.youtube.com/watch?v=5_pgz60dtqE

画像はすべて ©幻視社

2022年3月19日より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

【執筆者プロフィール】

長本かな海(ながもと かなみ)
多摩美術大学芸術学科修士課程在学中。身体を通して経験される世界と文化との関係性について、主にインドネシアジャワ島の憑依芸能を研究。様々な文化圏の武術や舞踊を稽古することを通して、身体から観える世界を探求中。