1986年、北海道屈斜路湖を臨む美幌峠で、大正時代から75年ぶりに「キタキツネのイオマンテ」が行われた。わが子と同じように育てたキタキツネを、神の国へ送り返す儀礼だ。祭祀を司るのは、明治44年生まれの日川善次郎エカシ(当時75歳)。祈りの言葉を間違えれば神の怒りをかうという大役である。神の国へ戻ったチロンヌプカムイは、人間の国で歓待されたようすをみんなに聞かせ、うらやましがられる。そして、カムイの仲間たちは、肉と毛皮をみやげにして、人間の国を訪ねたいと願うのだ。
本作の製作にあたり、アイヌ語研究者の中川裕は、日川エカシの祈りのすべてをアイヌ語に書き起こし、現代日本語訳で甦らせた。1986年に撮影したものをレストア(補修)し、35年ぶりに作品に仕上げたのは、映像民俗学・映像人類学の分野で作品を発表しつづける北村皆雄監督。今回の劇場公開に際して、「民俗の記録は古いほど原型が残っている。時間の奥に眠っていたアイヌの世界観を現在に引き出した」と語る北村監督にインタビューを試みた。
企画のはじまり
――この作品は1986年に撮影したということですが、どのようにキタキツネの霊送りの儀礼を知り、撮影に至ったのか、その経緯を教えてください。
北村 この映画『チロンヌプカムイ イオマンテ』の企画をしたのは、堤大司郎さんというカメラマンです。彼はスチルも担当し、この映画のなかにも登場人物として出てきます。堤さんは和人でありながら、屈斜路湖畔のアイヌの古老であった日川善次郎さんから信頼されていて、アイヌ名もつけてもらっていた。それまでの僕は沖縄の民俗を中心に、映画やテレビ番組を作っていたので、アイヌの儀礼の撮影に挑戦してみたいと思った。それで屈斜路湖へ行き、堤さんの紹介で日川善次郎さんに会いました。「ぜひ撮らせて頂きたい」とお願いしましたが、アイヌの人たちを撮影するのは初めてで、日川さんには気難しい面もあったので、うまくいくかどうかわかりませんでした。
もうひとり、弟子豊治さんという、屈斜路湖のアイヌコタンの首長の系統の人だと思いますが、イオマンテの行事自体は弟子さんが中心になって進めていたようです。前回のキタキツネのイオマンテが行われたのは大正年間ですから、撮影よりもさらに約75年前で、それ以来行われていなかったわけです。ですから、チロンヌプカムイ・イオマンテの行事を見たことがある人は数人しか残っていなかった。当時を知っているお年寄りたちから話を聞いて、イオマンテを行おうということになったそうです。アイヌの人たちが地域でまとまって何かをするという感じが、かろうじて残っている時代だったので、さまざまなところから人が集まってきて、全部で70人くらいがイオマンテに参加しました。
――日川さんたちから撮影の許可がおりたのは、やはりアイヌの人たちにきちんと映像として記録しておきたいという意志があったからでしょうか。
北村 日川さんや弟子さんに、そのような意図があったのでしょう。最初は製作費用を捻出する必要があったので、TBS系列の30分ほどのテレビ番組にまとめて、それを日川さんたちに観てもらった。ですが、ツネ吉を解体する場面は使えなかったし、「なんだ、これっぽっちか」というがっかりした反応でしたね。それで「やはりイオマンテの全体像がわかる、ちゃんとした映画として完成しなくてならない」という義務感を背負うようになりました。その翌年から僕はヒマラヤの山岳地帯で映像作品をつくることで忙しくなり、日川善次郎さんは、しばらくした後に亡くなってしまいました。企画の堤さんと「ちゃんと編集しよう」と話していましたが、あっという間に10年、15年がすぎて、堤さんも亡くなってしまい、僕もいい歳になったので、一念発起して35年ぶりに完成したんですね。
イオマンテの撮影
――映画ではイオマンテの行事がはじまる前に、日川善次郎さんと妻のキヨさんがツネ吉を飼ってかわいがっている光景も映っています。どれくらいの期間で撮影したのでしょうか。
北村 大きくわけて、3回ロケに入っていますね。イオマンテがはじまる前の日々を、屈斜路湖畔へ日川さんとツネ吉を撮りにいったら、ちょうど二風谷のほうで萱野茂さんたちがチセをつくるというので、そちらにも取材に行きました。その次は5月にイオマンテの行事を撮りに行きました。それが終わったあとで、動物撮影では定評のあるカメラマンの明石太郎さんが残って、野生の親子のキツネやタンチョウヅルなどの野生動物の映像を撮りました。イオマンテ自体は、柳瀬裕史、森照通、明石さんの3人で撮ってもらいました。1982年くらいまではテレビ撮影でもまだ16ミリフィルムで撮っていましたが、1986年というとちょうどベータカムへの移行期で、僕の監督作としては『チロンヌプカムイ イオマンテ』が初めてのベータカム作品となりました。
――イオマンテの撮影についてお話ください。
北村 儀礼の流れとしては、カムイノミに使うためにイナウを削り、濁り酒(トノト)や団子(シト)をつくるための前祝いの1日をふくめて、3日間で行われました。それから、チセのなかでカムイノミを中心とした前夜祭を行い、外に出てキタキツネがいる檻を囲む行事がありました。翌日は本祭ということで、キタキツネを檻から出してきて花矢を射つという「遊ばせる」儀礼があり、盛大に歌(ウポポ)や踊り(リムセ)をやってから、キタキツネを殺めて送るという儀礼があった。文献によれば、翌朝、祭壇(ヌササン)にキタキツネの遺骸を置いて、イナウや酒を捧げてお祈りし、頭骨を掲げる儀礼があるはずですが、3日目で終わりだといわれて、撮影させてもらえませんでした。実際に儀礼をやらなかったのか、それともカメラの前では見せてくれなかったのか、いまでもわかりません。
――たしかに姫田忠義の『イヨマンテ 熊送り』(1977年)では、本祭の翌朝に雪のなかで、祭壇に熊の頭骨を立てて、集落とは反対の方向にむけて祈りを捧げる儀式がありますよね。それにしても、『チロンヌプカムイ イオマンテ』の本祭における歌や踊りには、やはり迫力があります。
北村 キタキツネを神の世界に送るためにカムイノミ(神に祈る儀礼)を行うわけですが、そのときの歌や踊りが、観光的に他人に見せるために踊るときとはまったく違って、本当に儀礼のために踊っていることが伝わってきて感動しました。ツネ吉というキタキツネを神の世界に送るために歌って踊るということが、アイヌの人たちの神事と芸能の原点にあることがよくわかった。イオマンテは、アイヌ(人間)と動物と自然の関係がどのような世界観で考えられているかということが、本当によく反映されている神事だと思います。草木虫魚だけでなく、身の回りにある道具まで、使い終わったあとは神の国に送るわけですね。
たしかに現代の動物愛護的な観点からすれば、キタキツネを殺すことは残酷に見えるかもしれません。ですが、肉体を失ってもあらゆるものの霊魂は残っており、この世界と神の世界のあいだを行き来するという死生観になっている。アイヌの人たちが輪になっているところへ、ツネ吉が連れてこられて花矢で射たれるシーンがあります。花矢にも2種類あることがわかりました。つまり、カムイの世界へのみやげ物としてキタキツネに花矢を射っているときと、動物を瀕死の状態にして命を奪うために射つ場合とはちがうんですね。祭主の弟子豊治さんはこのときは、頭などをさけて致命傷を負わせないように矢を射っていた。ツネ吉は最後に絞め木で首を絞めることによって、命を奪われるという方法でしたね。
構成と編集
――『チロンヌプカムイ イオマンテ』では編集するときに、日川善次郎さんの祈りの言葉を徹底的に中川裕先生に翻訳してもらっていますよね。
北村 僕が『修験 羽黒山秋の峰』(2005年)を製作したとき、画面に映った人々のアクションを中心に映画を組み立てようとしたのですが、やはり修験道の修行はお経の言葉を中心に展開していることに気づき、その意味を把握して映画に入れることにしました。そこで、今回の『チロンヌプカムイ イオマンテ』を編集するときも、日川善次郎さんの唱える祝詞がこの儀礼の命なのではないかと思っていました。それで祝詞はすべて翻訳すると決めていました。ところが、アイヌの長老たちに聞いても、研究者たちに聞いても、「もうわからない」と首を横に振られてしまった。それで初対面ではありましたけれど、中川裕先生(アイヌ語研究者、千葉大学名誉教授)にお願いすることになりました。
30数年を経て編集をしていると、イオマンテの行事は日川善次郎さんがカムイノミで詠む祝詞の言葉で展開していたのだなと実感しました。撮影していたときはアイヌ語なので何が言われているのかはわからず、ヴィデオテープもまだまだ高かった時代なんですが、日川さんの祝詞はすべて録画しなくてはならないと現場で直感しました。イオマンテではさまざまな場面があるのですが、そこに日川さんの祝詞の言葉を対照させていくと、行事のなかの本質が見えてくるようになった。ですから『チロンヌプカムイ イオマンテ』は、日川さんの言葉がリードするような構成と編集になっています。当時、ほかにも祝詞を記憶していて、アイヌ語できっちりと詠むことができる人がいるだろうと思っていたんですが、結局それができる能力を持っていたのは日川さんだけだったんだとわかりました。
そうやって日川さんの祝詞を中心に編集していて気づいたのは、日川さんがカムイに対して、相当にへりくだって祈りの言葉を述べていることでした。なぜなら、もし言葉を間違えたりして、キタキツネの魂がカムイの国へ行くことができなかったら、自分自身の一族やイオマンテに参加した人びとにも反転して危害がおよぶかもしれない。みんなが不幸になってしまうかもしれないわけです。ですから、この時代はアイヌの人たちにおいて信仰の力が本当に生きていて、火の神に「力を貸してください」と心からお願いしているんですね。それが中川先生にすべてを翻訳してもらって、やっと理解できるようになりました。
――北村さんの最初期の映画『カベールの馬』(1969年)も、おばあさんの声による独白体になっていて印象的でした。本作でもカムイの国に送られるキタキツネの「ツネ吉」が人間の言葉でモノローグを語るという体裁をとっています。そのような構成にしたのは、どうしてですか。
北村 僕の映画のつくり方として、フィールドで徹底的に記録することと、題材に関する文献をできる限り読むというプロセスがあります。そうした上で、ナレーションを書くときに、儀礼をおこなう人たちの集団的な意識を表現したいところがあって、どうしても長老やおばあさんという人物に集約したくなるのです。ところが、今回はアイヌの神謡(ユカラ)を読んでいったら、動物の一人称で語られることが非常に多いと感じました。動物が一人称で語っていると思えば、あるところで客観的な三人称に変化したり、語りは神謡の登場人物のなかを出たり入ったりするわけです。これがアイヌにおける伝統的な語りのスタイルなのではないかと思いました。そしてまた、その「語り」を豊川容子さんにお願いしたのは、かつてはアイヌの神謡も女性のシャーマンが語ったことが多かったと知ったからです。それで編集しているときに、『チロンヌプカムイ イオマンテ』では、ナレーションをツネ吉の視点からにしないとダメだと思ったのです。
何人かの人から指摘されましたが、実際には祭場に引きだされたキタキツネのツネ吉は、人間がいっぱいいて花矢を射たれて、大変おびえていますよね。それは映像を見ればわかることです。しかし、ナレーションにおけるツネ吉は、カムイの国に送られることを喜んでいるように表現しています。ここではアイヌの人たちによる現実的な思考ではなく、神話的な思考が働いていて、そこにはアイヌの祈りや願いが込められているわけです。それを僕の言葉でいえば、狩猟採集民としてのアイヌが、常に生き物の生死とむきあっており、そのなかで持つ贖罪意識のようなものを救済しようとする思考回路があり、それがイオマンテという儀礼の背景にあるのではないかと思いました。いずれにしても、いろいろなことを考えながら編集をしていて、前のバージョンとがらりと編集を組み替えて、ツネ吉の一人称による語りで構成するところに落ち着いたわけです。大変貴重な記録になっているので、ひとりでも多くの人に観てもらいたいと思っています。
【映画情報】
『チロンヌプカムイ イオマンテ』
(2021年/日本/カラー/105分)
監督:北村皆雄
企画・スチル:堤大司郎
監修・カムイノミ対語訳:中川裕
語り:豊川容子
音楽:豊川容子+nin cup
司祭者:日川善次郎エカシ
制作:三浦庸子
製作・配給:ヴィジュアルフォークロア
公式サイト:https://www.iomantefilm.com/
ポレポレ東中野ほか全国順次公開中
画像は©Visual Folklore Inc.©堤大司郎
【プロフィール】
北村 皆雄(きたむら・みなお)
1942年長野県生まれ。ドキュメンタリー映画監督。早稲田大学第一文学部演劇専修卒業。1960年代以来、アジアや沖縄・日本各地をフィールドに、映像人類学・民俗学を掲げ百を超える映画・テレビ番組を撮り続けてきた。1986年に撮影した『チロンヌプカムイ・イオマンテ』を、後世に伝えるため2021年に完成させた。
金子遊(かねこ・ゆう)
批評家・映像作家。ドキュメンタリーマガジンneoneo編集委員。東京ドキュメンタリー映画祭プログラム・ディレクター。監督したドキュメンタリー映画『森のムラブリ インドシナ最後の狩猟民』が全国公開中。