【はじめての小川紳介 特集②】存在し得ない義人たちの連帯(完全版)―山形での小川紳介― text 阿部・マーク・ノーネス

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『三里塚・第二砦の人々』©特定非営利活動法人 映画美学校

以下の原稿は日本のドキュメンタリー映画史・特に小川プロを研究している阿部・マーク・ノーネス氏(ミシガン大学教授)が『neoneo 02』用に寄稿してくださった原稿です。雑誌(p70に掲載)では文字数の都合で一部割愛せざるを得ませんでしたが。ここに完全版を掲載します。特集上映前にぜひご一読いただけると幸いです(neoneo編集室)

義人は分裂に分裂を重ねて、千万言を費やしてさらにしゃべったことが仇になって決して統一を生み出さない。それが義人の法則だね。その点、悪人は早いんだ。悪人は連合し、義人は分裂するという社会科学的法則だね。それでも義人は言葉によって連帯できると思っている・・・(鶴見俊輔、安田武『忠臣蔵と四谷怪談 : 日本人のコミュニケーション』)

1970年代始め、日本のドキュメンタリーは絶頂の時にあった。東京国立近代美術館フィルムセンターは1973年と1974年に大規模な戦前・戦後のドキュメンタリーの回顧上映を行い、1973年小川プロは『三里塚・辺田部落』を、同年に土本典昭は『水俣一揆-一生を問う人々-』を公開したこところだった。1975年の『不知火海』は土本の最も優れた映画であったかもしれない。この時代には驚くべき数の素晴らしいドキュメンタリーがつくられた。だが、中心となった人々はのちに劇映画へ転向するか、まったく映画づくりをやめてしまうことになった。1970年代始めは鈴木志郎康や原一男といった芸術家が注目を集め始めた時期でもあった。こうした出来事は皆、小川紳介が三里塚を後にし、山形へと向かう宿命的な決断をする直前に起きていた。

『三里塚・辺田部落』の制作中に小川プロは変容し始めていた。1972年に東北支部が解散し、北海道と関西支部が矢継ぎ早にそれに続いた。九州支部は1975年まで続いたが、その頃にはすでに小川プロは三里塚を後にし、とりわけ成功した『辺田部落』の上映行程で出会った農民詩人の木村迪夫の誘いに応じるかたちで牧野へと向かっていた。木村は小川に、『辺田部落』は三里塚での経験の要約のように感じた。どこにも行くところがないのなら牧野へ来たらどうかと冗談半分で伝えた。小川がすでにスタッフに、新天地を探し、九州の食糧協同組合や他の大阪、北海道などへ移ることを検討させていることなど木村はほとんど知らなかったのだ。木村迪夫は大いに驚いたが、1975年に小川プロは木村の申し出を受け入れて、米と映画をつくるため、山形へと向かった。

すでに根を下ろし、政治的なホットスポットでもあった三里塚から離れて、静寂な村、牧野へ移住するという小川紳介の決断は多くの人々を長年に渡り混乱させてきた。多くは当時、小川プロは〝転向〟 (戦前の社会主義者の政治的背信行為)のように運動に背を向けたと考え、今も考えていることだろう。〝日和見〟であると弾劾する者もいた 。小川プロ内部でも最終的な決断を下す前に活発な議論が行われた。そして移住することが決定された時点でかなりのスタッフが去っていった。

振り返ってみて、小川紳介は、1970年代の政治の季節が終わろうとしているという他の人々がまだ理解していなかったことに気づき、いち早く前へ進もうとしていたと考える人がいる。他の人は、小川と政治との関係は他の者とは異なり、小川は始めから政治よりも映画に興味があったので三里塚での闘争を離れることはそう難しくなく、そもそも心の底では非政治的だったのだと主張する。このことは小川映画の批評的評価と呼応している(つまり『辺田部落』と三里塚シリーズを好む者と、『1000年刻みの日時計 牧野村物語』を評価する者との対立)。小川が残した映画や、言葉をみれば後者の説明を認めることは難しい。小川の助監督だった飯塚俊男はこう証言している。

「政治的な理由があったのです。ただ米について考えているだけじゃいけない、語るためには実際に米づくりをやってみなければいけないという考えがありました。共同生活をしていると、そうした価値観が収入や個人的な損得に勝ってしまうのです。文化大革命の時期でしたから、都市に住む人々は当時毛沢東をそうやって読んでいました。当時得意の毛沢東思想は「調査なくして、発言権なし」というものでした。私たちの世代は高度経済成長の時期に育ちましたが、親の世代ほど幸せでなく、希望がなかったのです。私たちは口ばかりで実際に手を動かさなかった。小川プロへ参加することは生きるということだったのです。山形の農村へ行くということはこうした気持ちを現わしていました。おじいさんおばあさんの世代には食べ物や着る物も自分たちでつくっていたのだから、私たちもやってみよう!となったわけです。」

木村迪夫は最も興味深い説明をしている。木村が山形へ移住することを勧めたのは、基本的には木村自身が退屈であったからという自分本意な理由からだった。牧野は信じられないほど静かで、単調な土地だったからだ。木村は牧野を、作物がすでにただ腐敗の過程にあるような沼に例えた。三里塚シリーズの映画の作り手を牧野へ連れてくることは沼を干拓して、生産力のある土壌に変えるようなものだったのだ。生活が興味深いものになることは確かだった。小川が牧野へ来ることを決めたのはそこがまさに沼地じみていたからだ。三里塚で「政治の限界」を知り、今度は農民の「生命力」 を体験しようとしていたのだ。『辺田部落』での闘争で吹き出した生命力は、農民の日常へと飛び込んでいった。牧野は実に静かなところだ。東京に住んでいる人々からすれば、新幹線開通以前の山形は、街々や電車の駅の数々を通り山村へたどり着くことで初めて強く実感するような、僻地の感があったことだろう。まさにこうした沼地を小川は望んでいたのだ。次第に瑣末で邪魔なもののように感じられてきた政治闘争と距離を置き、ニッポンの農村について考えることのできるような場所を。

もちろん、1970年代の日本の農村が政治や変革からの影響を受けないということはなかった。農民は高価な機械化する農業に遅れないようにと冬場は出稼ぎに出た。こうした機械化が、工場で働きながら耕地の手入れをする兼業農家を生み出し、また減反政策(米の生産調整)など東京からはトップダウンの圧力がかかっていた。同様に〝新全国総合開発計画〟は、工場、高速道路、新幹線、空港の建設(成田はこの一環としてみられるべきだろう)によって風景を一変しようとしていた。村の経済と文化をずたずたにする恐怖から、これらの政策に対する草の根の抵抗運動があり、木村迪夫は運動を支持する小説2をも書いた。

このような変容の真っ只中 にありながら、小川紳介は村の生活のこうした現実に背を向けるという興味深い決断を下した。飯塚によれば、骨格となる構造の方から崩れてしまうのを三里塚で目のあたりにして、〝精神骨格崩壊〟というテーマを彼らは追求するようになったのだ。

確かに、移住には同時に他の理由もあった。彼らは三里塚を去る様々な実際的で論理的な理由を小川プロニュースに挙げている。その頃には、小川プロは増大したかなりの額の借金を抱えていた。『どっこい! 人間節 寿・自由労働者の街』と『クリーン・センター訪問記』(1975)に始まって、これから儲かる予算を見越して映画を撮ろうとしていたのだ。スポンサー、チケット代、フィルムのレンタルなどで最終的には採算が取れるというわけだ。しかし、この時点では同時にスタッフの生活費が予算に含まれていなければならなかった。給料といったものはなく、集団で食事をしないときの食べ物代、衣服と交通費のための小額の手当、住居として数カ所のアパート代が支払われるだけだった。山形への移住は予算の枠を生活と映画づくりとに分ける試みだったのだ。保管されていた私が見つけたミーティングの協議事項の予算明細が明らかにするところでは、彼らは実際、生活より上映活動により多くの金を費やしていたのだ! 山形へ移住すれば、映画の収入と歳出は彼ら自身で管理することができた。一方、皆共同で住むので家賃の心配はなく、農業や副業で皆が生活費を支えることができた。

その他にも山形へ集結する要因があった。つまり最も重要な要因として、小川プロの映画制作者が年をとったということがあった。30 代を迎えてこのような低予算生活を続けていくのが難しくなったのだ。若い頃に倹約して暮らすことと、結婚して子供を持つということはまったく別のことなのだ。少なくとも中心メンバーの二人はすでに結婚していて、他のスタッフも結婚を考えていた。三里塚シリーズの制作中はこれらのカップルは離れて暮らさなければならなかったが、山形では、集団生活ではあったが、彼らは一緒に暮らすことができた。お金がなかったとしても、少なくとも山形では食べ物に困ることはなかった。戦後の社会的状況を鑑みれば、彼らの決断はより広い現象としての環境運動や、運動家の山岳奥地のコミューンへの撤退といった性質を明らかに帯びていた。こうした〝地域パルチザン〟はしばしば有機農業を行った。だが、小川プロにとって重要だったのは、ただコミューンを形成することではなく、共同生活をすることで映画を有機的につくることだったのだ――土の近くに暮らし、土と親密な関係になって撮影できるように。

結局のところ、移住することになったのは政治運動に縛られず映画づくりをつづけたいという欲求の現れであると、映画制作者たち自身考えていたことは明らかだ。三里塚を離れるべきか否かを話し合った1974 年のミーティングの題目は特質すべきだ――「三里塚の小川プロからドキュメンタリー映画の小川プロへ」3

稲作に関する最初の映画撮影が1978年の5月に始まったとき、「飯塚、お前の態度はまだ学生から映画屋になれてないな」と小川紳介と田村正毅に言われたことを飯塚は覚えている。つまり、小川プロの精神性は「学生」から「プロ」へ、「運動」から「映画づくり」へと変化していたのだ。三里塚では演出部がつくられたが、日本のスタジオ・システムのヒエラルキーをなくす努力がなされ、廃止された。彼らは意識的に権威主義構造を模造することを避けたのだ。目下の挑むべき課題はまさに、新しい人間像を生み出すことにほかならなかった。

しかし、山形での彼らは制作会社の形態をとっていた――つまり、共同生活することになった制作会社だ。牧野に到着したとき、彼らが発見したものは、完全なプライバシーの欠如に加えて、役割(自由ではない)と、貧困(政治ではない)だった。皮肉なことに、いくつもの実際的な側面で彼らは古い映画づくりの方法に戻ってしまった。小川プロに学生運動家として参加し、そうしたアイデンティティを完全には捨て切れなかった多くのスタッフは、こうした展開に精神的打撃を受けた。

スタッフが抜けた後、残った主要なスタッフは山形に関する6本の映画を撮った――そのうちの2本はどんな基準をもってしても優れた功績だ。まさに同じ頃、スタッフの数は次第に減少していった。新しいスタッフは政治運動からよりもむしろ次第にビデオや映画制作を教え始めていた美術学校や映画・映像系の学校から来ることになった。重要なことに、こうした時期はまさに小川紳介がアジアへと目を向け、山形国際ドキュメンタリー映画祭を共同で創設する決定的な転換期であった。

『1000年刻みの日時計』関連資料

『1000年刻みの日時計』関連資料

ベルリンやハワイの主要な映画祭で小川紳介はアジアの映画制作者と出会っていた。最初の山形映画祭でのシンポジウムでは議長を努め、なぜアジアの映画がコンペティションに入っていないのかと尋ねて、アジア・ドキュメンタリーの新しい時代を要請するマニフェストがつくられることになった。テクノロジーが変容し、政治的には国交の回復が行われていた決定的な時期に小川は、アジア全域にわたる新しい映画仲間のネットワークづくりに精力を投入した。小川はこうした友好関係が成熟する前に亡くなったが、ドキュメンタリー映画の各国のリーダーたち――特に、フィリピン、中国、韓国、台湾――に与えた影響は疑いの余地がない。

どうしてアジアだったのだろうか。そしてどうしてこの時期だったのだろうか。小川紳介の個人的な執念が、再びその後の大きな動きを変えてしまうきっかけになったようだ。小川のアジア観は純化されたもので、彼自身の興味と芸術家的な強迫観念に端を発していた。複雑な公と私といったアジアのドキュメンタリーが頭角を表してきた論争に小川は幸福にも無頓着であった。振り返ってみれば、小川紳介がアジアを発見したとき、時期を同じくして、まさに小川プロは少しずつではあるが確実に消え去ろうとしていたのだ。

1988年に名古屋で行われたワークショップの書き起こしを読むに、『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(86)の完成後に小川紳介は、彼の集団と方向感覚をどちらも失ってしまったという抗い難い印象を受ける。ワークショップの前半は集団生活とその映画制作の方法についての貴重な議論にあてられている。だが、しまいには小川の話は物語りへと移っていってしまう。小川は愉快なエピソードを一つ一つ語っていくのだが、そこでは集団の話が視界から消えてしまっているのだ。そこには体系的な不在の感がある。そうした小話を現実から採ってきて語ることは限られた才能ある人間にしかできない。だが、結局それは小川の独壇芝居で、多くのアイディアがあるにも関わらず、一体どうやって話を――少なくとも自分自身の力で――終わらせたらよいのか彼にはわからないようだった。

名古屋のワークショップでは複数回にわたって小川紳介は彼のスタッフが今や40歳代になっている事実に言及している。同時に、通底するワークショップの動機は、参加している若者を扇動して何人かを小川プロに加入させようというものであるようだ。そのようにして、小川のアジアへの熱意は新しい集団の創設へと向かう。国際的で、若い活気に満ち、多文化の新しい集団へと。

台湾の監督、呉乙峰(ウー・イフォン)との小川のおそらく最後のインタビューからは、小川の他のアジア地域に対する溢れんばかりの熱意が伝わってくる。「僕は次の仕事に入る時にね、台湾にもし若いスタッフがいたら、僕の所へ送ってほしいのね。それでね、僕はその人と二年か三年、一緒に仕事して、みっちり仕込みますよ。それが一番分かるんだよね。韓国などからも、これはもう具体的に助手が来ることになってるの。僕の次の仕事にはね、そういうアジアの若い人たちを集めたいの。いまは体がちょっとあれなんで、来年、体が治ってからですけど。」4悲しき事実だが、小川紳介の高名な芸術家としての力をもってしても、小川プロダクションはすでに本来の意味での集団足り得てはいなかった。刷新の展望(ヴィジョン)〝汎アジア小川プロダクション〟実現の機会を待たずして、監督はインタビューの50日後に55歳の若さでこの世を去った。

 翻訳:慶野優太郎


註1小川紳介、蓮実重彦『小川紳介』(名古屋シネマテーク叢書、シネアストは語る5)名古屋シネマテーク、1993年

註2木村迪夫『減反騒動記 : むらに生きる』樹心社、1985年

註3「三里塚の小川プロから記録映画の小川プロへ」(会議のレジメ)、箱番号一六、歴史伝承委員会(〒282-0011千葉県成田市三里塚御料牧場1-2 臨空開発第一センタービル411)、1975年7月20日

註4「小川紳介監督 最後のインタビュー」『映画新聞』86号、11頁、1992年4月1日

【執筆者紹介】

阿部・マーク・ノーネス
ドキュメンタリー映画研究者。アメリカ・ミシガン大学教授。山形国際ドキュメンタリー映画祭にて、「日米映画戦」(1991)、「世界先住民映像祭」(1993)「電影七変化」(1995)のコーディネートを務める。英文での著書に『日本ドキュメンタリー映画:明治時代から広島へ』(米国ミネソタ大学出版)。小川プロについての研究文献多数。

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