ふらふら うろうろ 佐藤寛朗
東京にいる伏屋編集長(食に関してひと言ある方でもある)から、「気分転換に、食べ歩き的なレポートも!」と司令が下ったのだが、さあ困った。せっかく山形に来ているのに、まだ「芋煮」や「玉こんにゃく」「冷やしラーメン」も堪能していないし、ましてや代表選手である「そば」にすら、ありついていないではないか!
言い訳がわりに、原因をひとつ。
山形映画祭は「中央公民館」「市民会館」「フォーラム」「山形美術館」「まなび館」の5つの会場で行われていて、隣接する「市民会館」「フォーラム」を除き、それぞれに歩いて10分ぐらいの距離がある。そこで観客は映画が終わると、次の会場目がけて“民族大移動”を開始するのだが、プログラムをジッと見て、次の予定を考えて動かないと、貴重な上映の機会を逃すことになる。移動時間は、なるべく最小限に留めたい。
夕暮れの『山形フォーラム』。三連休の最終日だが、上映前になると人であふれた。
ところが最短距離にあたるルートには、若干、裏通りを行くこともあって、気軽に食事がとれる店というものが無い。ラーメン屋が2件、喫茶店が1件あるかないか。スタッフを含め参加者は、結局、中央公民館の周りにある全国チェーンのファーストフード店などで、食事をとらざるを得なくなる。
もちろんおでんの「ふくろ」(ヤン・ヨンヒ監督のお気に入りと聞く)や、「三津屋」「羽前屋」「そば喰い亭」といったそばの名店も近所にあるにはあるのだが、前述の通り動線が映画祭会場のルートとは若干ズレる。ただ山形事務局のスタッフは地元の名店を熟知しており、今あげたお店はみな、歴代の事務局スタッフに紹介していただいたものだ。話のできそうな状況であれば、思い切って聞いてみたらいかがだろうか。
…と書いていたら、お勧めがひとつだけあった。山形美術館とフォーラムを結ぶ途上にある「金彦商店」は500円で刺身、フライ、焼き魚などの定食が食べられる。魚の問屋なので魚介類は新鮮で、うまい。15日の昼に立ち寄ったら、みごとに映画祭関係者で満席だった。これも、デイリーニュース編集部の鈴木英市さんに教えてもらった店だ。
ところが私にはもうひとつの誘惑があった。ついつい、すれ違う監督や関係者との立ち話が長引いてしまうのだ。ヤマガタには、作品がエントリーされていなくても、足を運ぶ映像作家が結構いる。14日にお会いした方だけでも『ヨコハマメリー』の中村高寛監督、『長居青春酔夢歌』佐藤零郎監督、『ほんがら』長岡野亜監督、『さなぎ』三浦淳子監督…例をあげればきりが無い。学生時代、デイリー・ニュースのボランティアで仕事を共にした仲間との再会も嬉しい。2年に一度「週末だけでも」と足を運ぶのだという。山形映画祭は、こうした磁場に確実に支えられている。
ついつい話が長引いて、この日わたしが鑑賞できたのは、結局「アジア千波万波」の2本と『ラフカット』だけになってしまった。日本未公開の『YOUNG YAKUZA』(2007、監督:ジャン・ピエール・リモザン)や『キャットフィッシュ』(2010、監督:アリエル・ジュルマン/ヘンリー・ジュースト)の「面白かった!」の声をいくつも聞き、悔しい。どなたかレビューを書いていただけませんか!?
【投稿】『オトヲカル』(村上賢司監督)について 森宗厚子
映画とは具象表現であってスペクタクルやナラティブやメッセージを見せてくれるものだという先入観、当たり前の常識と多くの人が思い込んでいるそんなウロコに覆われた目には、この作品の黒味がちな画面は訳が分からん退屈なものとしか見ることができないかもしれない。
前提をまずは疑ってみないか。
なんということだ、いまや活況とされるドキュメンタリー映画においても、ある種の作品群は単にスペクタクルやナラティブやキャラクターやメッセージの程度問題という小手先のレベルで消費されるものになっているのではないか。
さて、すでに終焉を迎えた8ミリで映画を撮ることは有効だろうか。
ノスタルジーではなく、現在進行形かつ前衛的な態度でそれに臨み、この期におよんで、8ミリフィルムで撮り倒した作品なのである。
『オトヲカル』は英語タイトルを『Sound Hunting』という。
すでに20年前に期限切れになった8mmフィルムには、もはや映像を写しとる機能はかすかだが、それでも音声帯に音を同時録音することはできるのだ。
そのコンディションを最大限に活かした村上監督は確信犯である。
まるで初めて8ミリカメラを手にした時のように、監督は「空を撮る、空を撮る」と呪文のように唱えながら、空にカメラを向ける。
モノローグというよりも、墜落機のボイスレコーダーのようなその音声は、管制塔にいる人たち、すなわち観客に向けて発せられているのだ……「空を撮る、空を撮る……映ってますか、映ってますか」、おぼろげな画面、ノイズがちな音。
そして、「風を撮る、風を撮る」と続き、確かにそこには、音声と映像によって風が撮られていることを目のあたりにすることができる。
さらに、「町を撮る」「海を撮る」「女を撮る」と、緻密な構成によって深層的な物語をはらみながら、フィルムはまわっていく。
自家現像による画面は、完全な黒味に至る前の闇のようで(あたかも人間が亡くなる寸前のどんどん暗くなっていく視界を想起させもする)、そこかしこに宇宙のモズクのような光の明滅や幽かな物影が像を結ぶ。
ほとんど“念写”レベルのおぼろげな画面は、残像のようにして、町や海や女を捉えていく。確かに、監督の撮ろうとしたそれらのものは抽象的な思念として写っているのだ。
これは反語的に、根源的な問いを投げかける。
撮ったものが写っている、とは限らないのだ。
あるいは、目に見えるかたちで撮ることを超えて、見えないかたちで写すこととは?
いまやデジタルカメラのご時世で現像過程が無くなり、撮影するカメラとモニター画面は直結していて、撮ることは安易になり、撮ったものが写ると思いがちなのではないか。
例えば、映画で大事なのは「“人間”を撮る」ことだというが、人間にカメラを向ければそれでその人が撮れる、ということではないし、被災地にカメラを向ければ震災が撮れる、わけではない。
そして、映画を見るということもまた、いかに情報や情緒に作品が奉仕しているかということでなくて、まずは、目を凝らして耳を澄まして映像と音声を享受することでもある。
あたかも、人類が滅んだ後、生まれて初めてふと“映画”というものに触れたエイプのようにして、無心のまなざしを向けることからはじまるのだ。