3連休の最終日。ヤマガタは快晴でした
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[初日:10/10 THU]
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[2日目:10/11 FRI]
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[3日目:10/12 SAT]
【Pickup】特集★山形国際ドキュメンタリー映画祭2013 ヤマガタもぎたてレポート[4日目:10/13 SUN]
災害と、民主主義と 岩崎孝正
「もぎたてレポート書きませんか」。萩野さんに声をかけられ書いたこのレポートも、どうやら5回目をむかえた。正直、毎日更新するのは骨の折れる作業である(neoneo編集室のみなさまお世話になります。とくに佐藤寛朗さん)。読みかえして、私は自分で語彙の少なさにげんなりしていた。だが、昨日、森宗厚子さんから励ましの言葉をいただいた。「みな目玉の『インターナショナル・コンペティション』や、『アジア千波万波』、『アラブの春』に関心が行きがち。だから、穴場のような『ともにある』や『ヤマガタ・ラフカット』をとりあげるのは正解」。いやはや。大変うれしい言葉をかけてもらった。ちなみにひとつひとつのプログラムにねらいがあるのは、neoneo webでもとりあげているとおり(インタビューが5つもある!)。私は、ほんの少し会場の雰囲気や、簡単な案内をすれば事足りると思う。そんな文章をつらつらと書いていきたい。
NHK制作の『つむぐ――閖上中学校 その言葉の記憶――』。上映中、会場ではすすり泣く声が絶えなかった。ディレクターである大野太輔さんは震災直後から1年間宮城県の名取市閖上中学校にはりついて撮影を慣行。亡くなった者と、生きのこった者の関係を追う、震災をあつかう映像ではスタンダードなつくりだ。すすり泣く声のたえない上映後の雰囲気は、作品の良さを表している。また、映像は311後の雰囲気を、良くも悪くもよく表していた。
大野太輔ディレクター
私自身、見終えて不思議な気持ちにつつまれた。もし、自分が取材する立場であったのなら、どうだろうと考えたのだ。じっさい、私は大野さんの映像が、まるで棘のように突き刺さったのだ。
震災取材を経験すると、どうしても取材者の立ち位置が気になる。大野さんは閖上地区の隣の中学校を卒業している。私は震災後、相馬市に入ったのだが、大野さんほど落ち着いた取材が出来なかった(滞在する費用が底をついたのである)。「地元であるから恥ずかしい取材は出来ない。いい番組を残したい」。大野さんの言葉は、自分に突きつけられた課題であると同時に、一種のうらやましさも感じた。
「ディスカッション 震災を撮り続ける」は、『つむぐ――閖上中学校 その言葉の記憶――』の大野太輔ディレクター、『朝日座』の藤井光監督、『相馬看花』の松林要樹監督が登壇した。
「『朝日座』を撮影中、気を抜くと震災の話題になってしまった。だから、インタビューのさいに気をつかった」と藤井光さん。「撮影は震災や原発事故からまだ間もないころだった。『朝日座』の話題になると、ふっと南相馬市の人々の表情がやわらいだのに驚いた。直接的に震災や原発事故をあつかってはいないが、震災とのかかわりのある映画になった」という。
私事になってしまい恐縮だが、南相馬市図書館を取材中、私もそんな話を図書館員から聞いた。「震災後、『図書館が開いて良かった。ほっとやすらぐの』と声をかけられたんです。何よりうれしかった」と聞いたのを覚えている。一種の不思議な感覚である。
「僕は、撮影は旅をしている感覚に近い。でも、ほんらい撮影して作品にするのは、作家のエゴではないか」と松林要樹は言う。「いや、エゴはなく、たとえば朝日座を語りたい人たちのメディアになれればいいのだ」と藤井監督。「ぼくはサラリーマンだから作家ということを意識しない」と大野ディレクター。ディスカッションではさまざまな意見が交わされて、有意義なものになった。
松林要樹監督
最後は、ヤマガタ・ラフカット『水と八丈島』の松林要樹監督。八丈島の水源の近くに一般廃棄物処分場の建設が計画されてしまったなかで、松林監督は島民たちにインタビューを試みる。豊かな自然を生きる住民たち。そして彼らの反対運動を、2008年から追っている。立ちはだかる「処分場問題」。彼らは、私たちに民主主義の問題をつきつける。
私は松林監督の「旅をしている感覚」が、よく表れている映画(ラフカット)であると感じた。取材を続けることに期待したい。
八丈島より参加『水と八丈島』出演者の村田さん
(ホントは2回目だけど)初体験ヤマガタつれづれ2 若木康輔
話題がコンペや〈アジア千波万波〉ばかりにならないよう散らしたい気持ちもあり、本日は無料上映の〈フィルムのなかのやまがた〉を途中から。
過去の山形市広報映画の短編集。他の会場と違うのは、近隣の方と見受けられるご婦人、おとうさんたちがブラリ散歩の途中、という風情で入っていくところ。へえ、昔の町がうつってる映画だってさ、ちょっと見ていこうか、みたいな。その穏やかな地元感にさそわれて入ると、目の慣れぬ暗闇から聞こえてきた最初のナレーションは、
「山形をいまだに陸の孤島と呼ぶ人達がいるのです」
ドキッとしたが、しかし隧道が出来て交通の便は大きく……という内容。
1959年頃の製作だという「のびゆく山形」シリーズは、言いたいこと・言うべき内容に絵を当てはめていく式の広報映画、僕が本業でちょくちょく手掛けるPRビデオの大先輩にあたる。
合併が進んで市は大きくなり、地域の名産品も生まれ、さらに山形は発展していくのです、と謳う。なのにBGMは花笠音頭(合いの手がヤッショマカショ、の山形県民謡)だったりするので、いったんズッコケそうになるが、当時は歌謡曲でもミッチーこと三橋美智也の新民謡が人気。決して当時はズレていないのだった。
これからいよいよ本格的右肩下がり、低成長の時代をいかに暮らしやすくするかがテーマになることがほぼ決定の僕たちにとって、当時の広報映画の内容は、率直に言って遠い。稲田に農薬を散布する姿をいいことのように見せられると、ウームとなる。
しかし、この先はさらに意味合いが反転して、こうした広報映画は貴重になっていくだろう。大きくなったり、産業が発達したりすると即、暮しの豊かさにつながり、多くの人の幸福につながる。そんな時代は確かにあった。豊かさに向けてまっすぐに率直だった〈高度経済成長期の人情〉の記録としての、滲み出る可憐さこそが今後の味わう際の価値となるだろう。多くの人の幸福、ではあったけれど、全ての人の幸福、ではなかったことをすでに僕等は学んでいるので。
『うたうひと』『ある精肉店のはなし』と、現地での話題作が多い〈日本プログラム〉で、『オトヲカル』絶賛の声をワーッと聞き(作り手、現場人ほど琴線に触れる度合いが強いようだ)つつ、この後もう1本、アジア映画を見た。
が、面白そうな滑り出しなのに、注射をうたれたようにずっと眠りに落ちてしまった。申し訳ないのでタイトルには触れない。
ヤマガタ会期中は粘るみなさんには、それぞれ1本は、こういうザンネン映画があるのではないか。僕の場合、前夜、香味庵で午前2時の閉店までいる組だったせいである。
09年に初めてヤマガタで映画を見た時も連れて行ってもらって面白かったけど、今回は完全にキャパオーバー。「おひさしぶりです」「わー、来てたの」「わー、来てたんですか」「誰かと思ったら」「試写じゃないとこで初めて会うねー」「数年ぶりだねー」「その節は」「初めてごあいさつさせてもらいます」等々、何人と話したのか数えきれないぐらい。そこで教訓。
〈香味庵は映画2本ぐらいのヴォリュームがある。滞在組は二兎を追わず無理せんとけ。でも一回は必ず行ってみなされ。一人で行っても誰か彼かが話の輪に入れてくれるから〉
明日朝イチの『YOUNG YAKUZA』が見たいから東京に戻るのを半日伸ばすんです、と言っていた某会社の代表も閉店までいた。僕のように落ちてなきゃいいけど。
それでもトイレで顔を洗って、昨日に引き続き、クリス・マルケル特集を。
高校生の頃からずっと見たかった(もちろん、「フランス人が撮った『乱』の撮影現場」という文脈で)『A.K.ドキュメント黒澤明』と、病床のアンドレイ・タルコフスキーに付いた『アンドレイ・アルセニエヴィッチの1日』の2本立てと、ソ連の決して有名ではない監督、アレクサンドル・メドヴェトキンの生涯を綴った『アレクサンドルの墓:最後のボルシェヴィキ』。計2プログラムを。
昨日の『空気の底は赤い』に続いて、すっかりクリス・マルケルにドキドキだ。まんまとヤマガタ事務局のみなさんの思惑通りである。
1本ずつについてここではいたずらに字数を費やす愚を避けたい……ってもったいつけても仕方ない。情報量がやはり物凄いし(その飽和の為に幾度も退屈にすらなりかける)、ビデオ作家としての側面は全く不安ないなので、とば口に立っただけだが、そのとば口がとても魅力的でねー、とお伝えするのみ。
フィルムでは弁証法的なモンタージュの思い切りが凄いのに、ビデオだとまた違う文法になるんだからね。neoneo3号の特集を、ぜひ僕もじっくり読もう!
クリス・マルケル特集前で『neoneo』03 を販売する筆者
ただ、〈監督もの〉3本には、「マルケルは動物、とりわけ馬が好きな作家が好き」な共通点があった。〈馬もの〉映画としてのマルケル。
あと、ちょっとだけ言うと、『A.K.』は、野上照代さんも会場にいらっしゃって、「現場でどこにいるのか気付かないほど」だったマルケルの撮影に、黒澤の信頼は大きかったなどのお話を。実際、クロサワばかりが映っているのではなく、周りのスタッフの動き全体が生々しく捉えられ、緊張と緩和を繰り返す場そのものの霊気によってクロサワとは何かを描いている。(穏やかそうに傍にいる本多猪四郎、濃霧の中で見学に来る姿が掌編の幻想譚のような武満徹など、映画ファンはこれだけでごはん茶碗二杯はいけるシーンばっかり)
リハーサルを繰り返し、本番を迎える前のエキストラの生あくびに感動。この生あくびは、僕がヤマガタで見たマルケル4本に共通するものだ。
それに『アレクサンドルの墓』の、革命プロパガンダ映画も視点と編集によって別の意味合いが生まれる、再構成によって作家、ひいては歴史の定義をし直す姿勢が、朝に〈フィルムのなかのやまがた〉を見た時にふと考えたことと被るようで。それこそ映画祭ならではのプログラムの相互反響、とやや強引にまとめておきます。
3号の手売りをしている間、山形市民館大ホール会場の受付をしている女性スタッフの方が、荷物を預かったりしてくれて親切だった。ありがとうございました!