【ドキュメンタリストの眼⑧】ラヴ・ディアス監督インタビュー text 金子遊

ラブ

国際的にその作品が高い評価を得ているものの、なかなか国内で長編作品を見ることができなかったフィリピンの映画作家ラヴ・ディアスの作品。ドストエフスキーの『罪と罰』に材を得たという、その250分の長尺の映画『北(ノルテ)歴史の終わり』が2014年2月の恵比寿映像祭で上映された。

金貸しの老婆を殺した犯人の法学生ファビアンは、贖罪を背負いながら逃亡をつづける。犯人に間違えられた善良な男であるホアキンは代わりに刑務所へ送られ、困窮していた妻と子供たちはどん底の生活を強いられる。ところが、罪の意識にさいなまれるファビアンは、何度か改心を試みるものの、ついには暴力と狂気に取り憑かれることになる。それとは対照的に、獄中生活を送るホアキンは精神的な自由をかちとっていく。

上映後には、ラヴ・ディアス監督、田坂博子さん(恵比寿映像祭キュレーター)、通訳役の川口隆夫さん(ダムタイプ)でトークが行われた。その後、ラヴ・ディアス監督に単独でインタビューを行うことができたので、ここに収録することにした。

ドストエフスキー文学を翻案に

——まず『北(ノルテ)歴史の終わり』がどのように製作されたのか教えて下さい。

ラヴ・ディアス(以下D) 本作のプロデューサーのモイラさん(レイモンド・リー)が、ドストエフスキーの『罪と罰』をモティーフにして映画を作らないかと言いだしたのです。最初は『罪と罰』のラスコーリニコフが金貸しの女性を殺し、その後で罪の意識にさいなまれるという設定から始めました。毎日少しずつシナリオを書いて、その分の撮影を進めるという方法をとりました。そうするうちに、ラスコーリニコフ役を仮託された主人公のファビアンが、ファシストとして誕生していくという物語展開を思いついたのです。

——おそらく『北(ノルテ)歴史の終わり』の内容と関係があると思うので、ラヴ・ディアス監督が20代の頃にどんな青年だったのか簡単に教えてもらえないでしょうか。

D 私はロックバンドをやっている頭の混乱した青年でした。20歳のときに結婚して子供ができたので、父親もしていましたね。ミンダナオ島の地方に住んでいて、養うべき家族がいたので、音楽で食べていくことを諦めました。それで大学を出た後、1年間法律の勉強をしたんです。だから、法律の学生がどのようなものか分かっており、映画のなかでもファビアンやその仲間を法学生という設定にしたんです。

——最初のシーンで、ファビアンと仲間たちがカフェで、マルクス主義、歴史修正主義、ポストモダニズムなどについて議論している場面が息の長いシークエンス・ショットで続きます。ディアス監督たちも、あのような時代を過ごしたのでしょうか。

D その通りです。僕たちの姿は、あの映画のまんまだったと言っていいでしょう。常に仲間と集まって酒を飲みながら、哲学や政治、映画や音楽、ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズ、ジョン・レノンなんかについて議論をしていました。そのような仲間たちがいたことは幸運でしたね。この映画には、僕の青年時代がさまざまなところで反映されています。登場人物たちにも自分自身の一部が託されており、それは、このような映画を作るときには不可避なプロセスなのだと思います。

 

ラスコーリニコフからの逸脱

——主人公のファビアンは法学生であり、ドストエフスキーの原作『罪と罰』でいえばラスコーリニコフですね。確かに金貸しの老女(とその娘)を殺し、罪に苛まれるところは原作の設定と同じですが、キャラクター設計は何か別の要素も入っています。

D 最初は『罪と罰』のストーリーをなぞるところから始めて、ファビアンは金貸しの老女を殺すところまでは原作に添っています。ラスコーリニコフの場合は改心していきますが、ファビアンはホアキンの妻にお金を寄付したり、ホアキンの再審を行おうとしたり罪を償おうとしますが、最後には凶悪なファシストへと変貌していく。ラスコーリニコフは自分の魂を救済しようとするが、ファビアンは贖罪の意識の結果、世界の方を変革しようと考えるようになる。後半はラスコーリニコフとは、まったく違う人物になっています。

実は映画の後半では、フィリピンで長年独裁政権を続けたマルコス元大統領のような人物がどのように生まれたのか、それをファビアンの姿に重ねて描いています。タイトルにあるように、フィリピンの北(ノルテ)の地域はマルコスが生まれ育った土地であり、フェルディナンド・マルコスも若いときはファビアンのように法学生で、フィリピン大学法学部に通っていました。

——主人公のファビアンも人殺しという「暴力」を振るいますが、金貸しのマグダと囚人たちのボスであるワクワクもまた別種の「暴力」を行使します。

金貸しのマグダはラ・パス地区で、物品と引き替えに現金を貸す、いわゆる質屋のような商売を営んでいます。ホアキンの妻であるエリザやその他の住民は、経済的に自分たちで何とかできるときはいいのですが、そうでない場合はマグダに借金するしかない。マグダはそのことから発生する権力によって、地域の住民たちを虐げています。ワクワクは監獄のなかで腕力によって、あからさまに力の構図で権力を使っています。

マグダの場合には富者と貧者の格差があって、刑務所のワクワクの場合は強者と弱者、力によって他人をねじ伏せるという権力構造があります。そこには金銭や力によって、ねじ伏せる人とねじ伏せられる人がいるという普遍的な対立があるのだと思います。そのような中にあって、ホアキンという善人が力には力で対抗しようとせず、善意によって対処していくところは、とても象徴的な行為になっていると思います。

——そのように考えてくると、ファビアンが実の姉をレイプする場面がありますが、あそこが何か強い寓意を持ったものに見えてきますね。

D ファビアンは自分の考えに取り憑かれた無神論者です。ノルテと呼ばれる北部地方の実家で農場主をやっている姉は、とても敬虔なカトリックです。フィリピンはとても宗教的な社会で、8割の人がカトリック、1割がイスラム教徒、あとの1割はプロテスタントや少数民族となっています。

さて、姉を強姦するシーンですが、あれはファビアンが持っている思想から見ると、矛盾に見える古い家族制度や宗教を破壊するという意味合いがあるんだと思いますね。それから、ファビアンが子供の頃から仲の良かった犬に再会しますが、あの犬を殺してしまうのは、彼自身の心を治癒させてくれる可能性すらも拒否してしまったということです。たとえば、ファシズムというものがいろいろな因習的な家族制度や社会制度を壊してしまうと、その後には人間的なところが何もない廃墟だけが残されるでしょう。そこには愛の概念のようなものはまったく見当たりません。

——ただ、ファビアンにも彼なりに贖罪の意識があるようですね。

ファビアンは自分が犯した殺人によって、貧しい家庭の人たちが不幸になっていくことに耐えられなかったのでしょう。だから、情けをかけるためにエリザにお金を渡したり、自分の法学生時代の仲間に呼びかけて、無実で投獄されているホアキンを再審請求によって助けようとします。そのような意味では、ファビアンにもかすかな人間性が残されていたのだと思います。しかし、映画では彼が腐敗にまみれた政治家になっていくだろう、という余韻を残しながら終わるようにしました。

ファビアンの実家が農場主という設定も、実はマルコス元大統領の実際の境遇から借りています。マルコスの父親はイロコス・ノルテ州の国会議員になり、その後、大きな農場を持つようになりました。もともと裕福な家庭だったわけではありません。息子のフェルディナンド・マルコスは法学生のときに、父親の政敵であった下院議員を暗殺した容疑で有罪判決を受けています。彼はその罪によって刑務所に入ったんですが、法律の学生で非常に頭脳明晰だったので、自分自身を弁護して最高裁で無罪になりました。

lav_diaz『北(ノルテ)歴史の終わり』より (c)Raymond Lee & Lav Diaz