【ドキュメンタリストの眼⑧】ラヴ・ディアス監督インタビュー text 金子遊


ホアキンの善良さ

——主人公のファビアンの如才なさに対して、身代わりとして投獄されるホアキンの人格は善良そのものです。ドストエフスキーでいえば、『白痴』のムイシュキン公爵のようですが、彼に託したかったものは何なのでしょう。

D ファビアンが持っている悪というものと、ホアキンが持っている善はとてもシンプルに対比させました。そこで描きたかったのは、絶対的な悪というものと、絶対的な善というものが、とても身近なところで普通にとなり合わせで存在しているという関係です。ホアキンは建設労働者なのですが、最初の方のシーンで工事中に足をケガしてしまいます。そして、ホアキンが入院しているときに、その費用を払うためにエリザがマグダへお金を借りに行く。そのことがきっかけとなって、ホアキンは段々とマグダといざこざになり、殺人事件の犯人にされてしまうところまで行くのです。

フィリピンの田舎に行ってみると、質屋に自分が持っているものすべてを入れてしまった人たちを見かけることがあります。そのようなことは、よくあるんですね。そのような身近な問題を映画のなかに入れたいと思いました。ホアキンが投獄される刑務所は、彼が使っているベッドに小物を置いたりはしましたが、撮影では実物を使っています。実際の囚人たちも数多く出演しています。刑務所の檻のなかで猿をペットとして飼っている人がいますが、あれもまた本物をそのまま使っています。それらを息の長いショットで撮っていくと、あのようなリアルな雰囲気が出るんですね。

一般的にフィリピンで人気のある映画は、カットの細かいハリウッド式が大半です。そのような商業映画では、すべてのものが物語的なプロットの展開に従属しています。その一方で、映画を見るときには、観客は物語の筋を追うだけではなく、映像によって空間を体験する面もあります。僕の映画では、ゆったりとしたカメラワークと長まわしによって、物語とは直接関係はない世界をできるだけ感じてもらおうとしています。

——ホアキンが刑務所のなかで何度か見る夢は、空撮で撮られた空を飛ぶ夢です。映画の最後の方では、眠っているホアキン自身の体が宙に浮くシーンもあります。何かタルコフスキーの映画やラテンアメリカ文学のマジック・リアリズムと地続きな感じもしました。

D 夢のシーンは、ヘリカムといって、ラジコンのヘリコプターにカメラをつけたものを飛ばして撮りました。身体が宙に浮くシーンは、聖人にしかできないことですから、ホアキンを完全なる善として描くために必要だったことです。僕自身、タルコフスキーの映画が大好きで、彼はヒーローのひとりです。実はホアキンを演じた俳優はフィリピンのコメディアンで、これが初めて深刻な役を演じる機会になったんですよ。

もちろん、ラテンアメリカとフィリピンは切っても切れない関係にあり、とても似たような歴史的背景を持っています。どちらもポルトガルやスペインによって征服され、植民地支配された地域です。カトリックが入ってきたところも同じですし、人々の名前もスペイン語風のものに改められました。スペインに植民地化される前のマレー文化を消し去ることによって、征服者たちの文化であるカトリックが定着したのです。ですから、僕にはスペインに植民地化される前のマレー文化を、映画の力によって召還したいという面もあるのです。

——アンソニー・チェン監督の『ILO ILO』(2013)に出演していたアンジェリ・バヤニが、ホアキンの妻エリザを演じています。ホアキンが投獄されたために、エリザは子供たちを背負って辛酸をなめるのですが、もう1人の主人公ともいえる存在感です。

D アンジェリ・バヤニには、僕が撮った『エンカントスの地の死』(2007)にも出演してもらいました。アンジェリは、もともとは映画ではなく演劇の女優なんです。

フィリピンにはもちろんマッチョな男性もいますが、ベースのところでは母系の社会であり、多くの物事が女性によって決められます。女性の力が強い。家族のなかでも母親とが重要な柱になっています。その背景には、マリア信仰が強いということがあるのかもしれません。そしてまた、フィリピン女性は勇敢です。日本にもフィリピン人の女性が、さまざまな形で出稼ぎに来ています。彼女たちはそうやって見知らぬ土地へ行き、仕事をして本国へ送金し、家族や親族を養うような芯の強さを持っているのです。

エリザが映画のなかで、「私か夫(ホアキン)が外国へ出稼ぎに出ていれば、夫が無実で投獄されるようなことは起きなかった」と漏らすシーンがあります。たしかにエリザが出稼ぎに出ていれば、家や自動車を買うことはできたでしょう。しかし、そうすれば彼女の家庭を壊すことになり、片親の家庭で育つ子供たちの何かが損なわれることが嫌だとエリザは考えたのでしょうね。そのように心が壊れた子供の典型が、ファビアンだとも言えます。ファビアンの両親は外国で暮らしていて、あのような不安定な青年になってしまった。壊れた家庭で育った若い人たちが抱く疎外感というものが、フィリピンの社会では大きな問題になっています。ところで、エリザたちはノルテに住んでいて、ホアキンの刑務所はそこから遠く離れたマニラにあります。貧しさのせいもあって、エリザは現実問題としてホアキンの面会に行くことができない。同時に、エリザはホアキンが無実だと知っているので、夫が無実なのに投獄されている事実を受け入れたくないということもあります。

——この映画のなかには、さまざまなフィリピン社会における問題が寓意的に示されていと思いました。

D 現代のフィリピン社会でもっとも大きな問題は、腐敗したシステムの問題だと言えます。僕はそれを根本的な問題として捉えて、この映画で描きたかったのです。弱者や敗者を容易に見捨てておきながら、社会制度を支える人たちや権力者たちは、保身的に現状を維持することに躍起になっている。そこには、とても封建的で古い体質が残存しています。そしてまた、フィリピンでは貧富の格差が激しく、深刻な事態に陥っています。貧しい家庭に生まれた人たちは、その社会制度のなかにいる限り、貧困から抜け出すことがほとんど不可能になっているのです。だから、多くの人たちが外国へ出稼ぎに出かけてしまう。そういう状況になっているのだと思います。

そうやって、アメリカ、ヨーロッパ、日本、中東、シンガポール、香港へ労働者やヘルパーとして出稼ぎに出かけたフィリピン人が本国へ送金してきます。そうした外貨は年間170億ドルにも及ぶそうです。ですから、表面的には経済的に潤っているようにも見え、政府はその傾向を歓迎しています。ところが、先ほども話したように、一度家庭へと目をむけてみると、親のいない子供たちは非常に不安定になっており、また歴史的な連続性のなかで自分を確立することができないので、フィリピンの若い人たちの精神は根本のところから崩壊しています。フィリピンの経済発展は、人工的で表面的なものに止まっています。たとえば、こんなことがありました。サウジアラビアで建設労働に従事していた1万7千人の雇用が急になくなって、その人たちがごっそり帰国した。しかし、帰国しても全然雇用はないのです。このように、フィリピンはいつバブルがはじけるか分からない、根っこのない不安的な経済発展にあると言えるでしょう。

——ラヴ・ディアス監督、川口隆夫さん、今日は長い間インタビューにご協力下さり、本当にありがとう御座いました。
(通訳:川口隆夫 写真提供:恵比寿映像祭)

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【作品情報】 

《北(ノルテ)―歴史の終わり》
2013年/250分/フィリピン/カラー/タガログ語

監督/脚本/編集:ラヴ・ディアス
脚本:ロディ・ヴェラ
プロデューサー:モイラ(レイモンド・リー)
撮影監督:ラリー・マンダ

キャスト:シド・ルセロ、アンジェリ・バヤニ、アーチー・アレマニア、アンジェリーナ・カナピ、ソリマン・クルス他


【ラヴ・ディアス(Lav DIAZ)プロフィール】

1958年フィリピン・ミンダナオ島生まれ。 フィリピンを代表するインディペンデント映画監督。主な監督作品に《Batang West Side》、《Evolution of a Filipino Family》、《Heremias》等。 《Death in the Land of Encantos》は2007年ヴェネチア映画祭オリゾンティ部門金獅子賞スペシャル・メンションを受賞。本作《北(ノルテ)ー歴史の終わり》はカンヌ映画祭ある視点部門で発表後、国内外の様々な映画祭(日本では山形国際ドキュメンタリー映画祭、東京国際映画祭)で上映され、、ニュルンベルク国際人権映画祭最高賞を受賞した。

【聞き手プロフィール】

金子遊 かねこ・ゆう

映像作家・批評家。劇場公開作に『ベオグラード1999』『ムネオイズム~愛と狂騒の13日間~』、編著に『フィルムメーカーズ 個人映画のつくり方』など。neoneo編集委員。