――あまり関係ないかもしれないですが、万田さんは犬はお好きですか。
万田 僕は猫ですね(笑)。
――そうなんですか(笑)
万田 (脚本の)伊藤さんは犬好きなんだよね。
――犬を観察したりされたんでしょうか。
万田 なんだっけ、あのー、ええと。兵藤ゆき!兵藤ゆきの『ワンダフル、ニャンダフル』!あの人、犬猫と下着の人になっちゃったね(笑)。それを録画して、見たりしました。しましたがまぁ、人間にはこれは無理だ、この動きは無理だわって思いましたね(笑)。
――確かに(笑)。月刊シナリオの縣談では伊藤さんが(脚本を書くときに)四つん這いになってみたとありましたが、万田さんもやられたんでしょうか。
万田 それはしました。僕も演出する立場として、一回自分でやるんですね。ホン読んで、なんとなくこういうことやってもらいたいな、こういう風に動けるのかなというのをやってみる。動けない事はやっぱりお願いできないんで。自分で動くんですよ。でね、僕ね、けっこう上手く動けるんですよ。
――そうなんですか。
万田 僕が動けるから、役者さんにこれやってっていうと、大概出来ないんですよ(笑)。いやいや、それ出来るから、僕出来るからやってって。出来ないんですよね。なぜ出来ないかっていうの、大概僕は見ててわかるんですよ。基本は重心の置き方と移動の仕方なんですね。で、重心の置き方っていうのは例えば、体をこう動かすときに、ここに手をつく(とやってみせる)。いやいや、そこにつくからできないんでこっちに置いてやってごらんってやると出来たりする。まずは一回自分でやってみる。そうすると、気付いていくんですね。自分でどこに力をかければいいのかがわかる。そういう風にやらないとわからない事もあるし、あきらかにこりゃ無理だろうっていう動きもある。だから、四つん這いもやりましたよ。でも、四つん這いはほんとに難しいですよ。難しいと思った。
それと、四つん這いやる前に、脚本読んだ段階で「人が四つん這いになる」っていうのが画面になるの?
っていうのがありましたね。「映画になるの、これ?芝居になるのか?」っていうのが。一瞬ならばともかく、それをずっと、ある程度長く四つん這いになってるのって、面白いのかなぁっていう。しかも、二十歳前ぐらいの可愛い、AKBかなんか知らないけど(笑)、そんな女の子がちょっと耳でも、あ、それ猫か、尻尾でも付けてぴょんぴょんやってれば、まぁまぁそりゃ可愛いかもしんないけど、30近い女性が四つん這いなって「ワン!」とか言って、可愛くもないし、それってなんだぁっていう、「どうすんだこれ?」っていうのはありました。
――画にならないというのは、写真的な画ではなくて、お芝居でやった時に・・・
万田 そうそう。四つん這いになっている人にしか見えないってことですよね。今言った若い可愛い子がやっていれば、「可愛い可愛い、よしよし。」にもなるんですけど。30近い女の人がやっても、「何やってんの?可愛くないけど?」っていう(笑)。そういうことにしかならないな、っていうことですよね。
――それを映画として成立させるためにはどのようなことをされたんでしょうか。
万田 最初わかんなかったんですけど。ここに写真がありますね。(『イヌミチ』チラシ下部の影絵を指して)これなんか、うまくお座りしてますよね。これは膝をついているからできるんですけど、足を立たせて四つん這いっていうのはなかなか人間にはね。足を立てちゃうと四つん這いに見えなくて、異様な、ゴリラとかサルとかいう感じになりますよね。だから四つん這いっていうと膝を折って、それは本当は四つん這いじゃないんですけれども、そういう形になっちゃうわけでしょ。
主演の永山さんがものすごく頑張ってくれたわけですけれども、僕の中では多分動きをつけていった、動かしたっていうことで、その四つん這いの状態を画面にしていく、っていうことをしていったんです。なるべく動く。つまり、目的があって動く以外に無目的に動くっていうこと。動物って基本、まぁ動物なりの目的があるんでしょうけど、いろいろ動くじゃないですか。なかなかじっとしてないですよね。だから、そういうなんか動く、うろうろする、ここに何かがあった時に(水筒を取り出して)、まっすぐこう行くんじゃなくて(手をまっすぐ水筒に向かって動かす)、こういうふうに行ってみる(手で弧を描くように水筒に向かって動かす)。なんでこう行くのかわかんないんですけどね。そういうことで動きをいろいろ付けてったというのはありますね。
――今の動きは犬としての動きですが、それ以外に矢野さんが演じられた西森との関係というか、つまり、犬と飼い主という関係が、ある種ゲームみたいな感じだけどもあって、その中で犬ではない人間として側面が出てくる所が芝居としてあると思うんですが。
万田 多分犬やってるときは犬のつもりであまり人間と思ってなかったですかね。演出してる時は。もちろん、演じてる永山さんがどういうふうに思ってたかはちょっとよくわかんないんですけど。そのへん僕も曖昧だったかも知んないですね。難しいですね。なかなか犬にならないですもんね、人間は。ハリウッドみたいに特殊メイクでね、猿の惑星みたいにね、これは猿だわってなると猿なんですけどね。素のままだと、犬の真似してる人間にしか見えない。
――その感じがこの映画を支えてるところなのかなと思って観ていたんですが。
万田 撮ってるときにはそのことに気づいていなかったのかなぁ。たしかにその点はとても大事なポイントですよね。
――万田さんは溝口健二の『近松物語』について講演をされていて、溝口健二が人物の関係の変化のことを“芝居”と呼んでいたことに着目をして論を展開されていたと思うのですが、この“芝居”というのは、一般的な芝居という言葉とは違ってると思うんですよ。そのことについてお聞きしたいのですが。
万田 あのときのね、溝口が脚本を読んで、「これでは芝居になりません」と言って書き直しを命じたっていう時の芝居の使い方といわゆる芝居、人を動かす時の芝居の言葉の使い方、ニュアンスが違うっていう話ですよね。おそらく前者の「これじゃ芝居にならない」っていうのは多分、ドラマにならない、劇にならないっていう意味合いがきっと強いのかなっていう風に僕は勝手に解釈したんですよね。ただ、これは僕自身も人の脚本を読みながら、その溝口の言葉を知ってからなのか、これじゃ芝居にならないな、と思うことがあるんです。・・・・・・そうか、それは溝口の芝居とは違う芝居か。いわゆる人を動かす意味での芝居のことか。
今はね、そこがちょっとごっちゃに、一緒になっててね、それはきっと溝口も一緒だったのかなと思うんですよ。劇としての芝居と実際に人物が動いていく芝居とが、ほぼ同じ意味合いとして芝居って言ってたのかなって今では思うんですけど。それは僕自身もシナリオ読んでて、これちょっと芝居つけようないよねって言って考えてる時のその芝居は、人を動かす芝居なんですけど、同時にドラマとして、ドラマの芝居として成立しないよねこれじゃあ、っていうイメージがあるんですよ。なかなかね、人には伝えづらいんですけど。
――映画の最後の方で公園で西森の同僚が来ますよね、「お前何やってんだよ」と。で、滑り台に昇るじゃないですか。なんで滑り台なんだと思って。役自体は大きい役ではないんですけど、その滑り台の動きがあることによって、同僚のキャラクターの幅と作品の奥行きが出てる感じがしたんですが、そうしたことと関係はありますか。
万田 そこはね、いわゆるドラマとしての芝居ということではないですよね。元々脚本では公園ではなくて、携帯ショップのバックヤードだったんです。ところが撮影にお借りしたお店にはバックヤードはなくて、たまたまお店のすぐ裏に公園があって、そこでやりましょうと。で、公園というとベンチがあって、滑り台もあるし、ブランコもあるしっていう。ロケハンで見に行った時に、ベンチに主演の二人が座ったとして、あといろんなものあるので、せっかくだから使おうかなって。同僚が来た時に「お前何やってんだよ、しょうがねぇな」っていう気持ちで滑り台ぐらいすーっと降りるかなっていう、今言われたキャラクターに近い様なことから発想したことですね。
――そういうのは現場で発想するのでしょうか。
万田 それは現場だね。現場で思いついた。シナリオではかなり深刻な、切羽詰まって彼が来るっていう状況だったんですよ。それは映画美学校でリハーサルした時もそういう風になったんですよね。西森を会社の上司が怒ってるから、お前来いよ、早く来い、なにやってんだお前っていう。それはね、やっぱり見ててねつまんないなって思った。幅がないっていうか奥行きがないっていうか。思ってはいたんですよ。なので、あ、怒らせなくてもいいんだ。すっかりあきれてやってきて、まぁあの上司しょうがないけど、お互いわかってるよなっていう。まぁその感じで来ればいいのかなって。公園見て思いついたのかな。だったらまぁ滑り台ぐらいっていうのはあって。
さっき言ってた芝居っていうことに関して言うと、例えば、これが説明になるかちょっとよく分かんないですけど、携帯のショップがありますよね。店内が(チラシを取り出して、上と下とに区切って)こっちで、こちらが外だとしましょうか(チラシの下側を囲んで)。こっち側に入口があって(チラシの真ん中右側を指して)、これガラス、ウインドウですよね(チラシの上下を区切る線を指して)。で、響子が携帯を選びにやってくると(チラシ下側から上側に指を動かして)、店の中で西森と客のクレーマーがいざこざをおこしてる(チラシの上側、入口側とは逆を指して)。
最初ロケハンに行った時には外のスタンドはなかったんですよ。まず、お店の中を見たんですね。そうすると響子が中で携帯を選んでいるとすると、クレーマーと西森がやり合ってる距離と近すぎるわけですよ。これは芝居として成立しないなっていうことですね。それは台本読んでる時にすでにある程度広さが必要だよねっていうのがありました。
それで、決まったロケ場所があまりに狭かったんで、そうするとその距離をどうやって作ろうかってことになる。これもロケハンの時に考えていたわけですけども、じゃあ店の外にスタンドを出して(チラシの左下側を指して)、響子は外にいる。それで中で西森とクレーマーが言い合ってるのをガラス越しに見るっていう。それは芝居になるな、ドラマになるなっていう。ガラス一枚隔てることにより、むこうとこっちという関係ができる。それは西森と響子の関係で、西森が外に出て、この(ガラスの)境界を超えて響子の側に来た時に二人が話し合える。「こんにちは」「おねがいします」になる。それで芝居になるなって、ドラマができるなっていう、なんかそういうことなんですけどね。
――響子が初めて西森の家に行ってお酒を飲むシーンがありますが、その時最初二人は別々の部屋に居ますよね。それも今言われたようなことなんでしょうか。
万田 それもそうですね。最初まだそんなに接近してなくて、最終的には催眠術のごっこ遊びがあるわけですけれども、そこに持ってくまでに二人をどういう風に近づけて、離して、っていうのを作ろうかなっていう。それは実際に役者が動く芝居でもあるし、その距離を作っていく関係のドラマをどうやって作っていくかっていうことの芝居でもある、そういう考え方ですかね。
――催眠術のシーンについてお聞きします。催眠術をかけるシーンは二回ありますが、最初の方では非常にカットを細かく割られていますね。これはどういう風に考えてカット割りをされたのでしょうか。
万田 最近僕は現場に入るまでカット割りのことは全く考えずに撮影現場に入って、芝居を作っていく中でだんだん割りが思いついてきて、こういう風に行こうってなるんです。だからその分同じ芝居を何回かやってもらう、アングルを変えながら、ということも多くなっているんですけど。
あのシーンも最終的に今ある形は撮影のときには全く思いついてないですね。あれはもう編集で作っていっているわけです。ただ編集の時に、多分この画は欲しくなるよねっていうのはあって、おそらく最初の1カット目を決めてるんだと思いますが、1カット目が決まって、そうすると次はこっちに入って、この芝居ではこっちに来て、それで、パンっとここで決めて、っていうなんとなくそのイメージはあるんですけど、それが最終的に編集でそのままにはならないんですけど、ただ必要な画はこことここと、ここだよね、必要な部分もおそらくここからここまでだよね、っていうそれは見えるんで。それを撮っていくっていうことなんですけど。ただ、そこであんまり決めちゃうと編集の時にここじゃなかったっていうことがあるんで、それはちょっとダブらせながら、芝居を撮っていくっていう。今はそういうやり方してます。
――再度、“芝居“ということに関してなんですけど、なぜ今”芝居“ということなのでしょうか。今の映画作りの現状に対してのお考えからなのか、それとももっと別のことからなのか、そのあたりについてお伺いしたいのですが。
万田 僕自身もよくわからないですけど、おそらく芝居のこと考えなきゃいけないんだって思ったのは、映画美学校の同僚の西山洋市がある日「芝居」って言いだしたんですね。その影響が強いんですよ。映画は芝居だと(笑)。なるほどね、という。それから西山君の映画が日に日に面白くなっていって。
もう5,6年前ですかね、彼が芝居って言い出したのは。さっき言ったみたいにどうやってその、距離を作って、いつ縮めて、いつ広げるかっていう演出は昔からやってたんですけど、そのことを芝居だ、それが芝居なんだ、映画の芝居を考えるってことなんだっていうのは、で、もう一つさっきの溝口のことで言えば、それが劇なんだ、ドラマなんだ、というようなこととあまり結びつけて考えてなかったかもしれないですね。
でまぁ、いずれにしろ、西山君が僕ら映画を見るけども、何見てるかっていうと、それは役者の芝居を見てるんだ、90%は動いてる人間を見てるんだっていう風に言って、なるほどねと。確かにそうだよねっていう(笑)。そうか、芝居大事だよねっていう。そっからなんか考えだしたような気がするんですね。
実際考えてみたら、それは凄く面白いことだし、やってみたら面白いしっていう、人の体ってホント面白いなっていうこともありましたね。だから、『UNLOVED』なんかはどちらかというと、あまり人を動かさないで撮ろうっていうのがあったんですけど。なるべく最小限の動きで。そこからかなり変わって、人っていろいろ動くのが面白いってことに、今はなっていってるんですね。
――これは世代のせいかもしれないですけど、滑り台のシーンでの芝居っていうのは、リアルじゃないよねって思ってしまう(人たちがいる)かもしれないなと。そのあたり、わりとフラットな、自然な芝居の方がリアルだって思うことに対して、どうお考えですか?
万田 僕はいわゆるフラットな、リアルっぽい芝居っていうのは嫌いですね、昔っから。よほど上手い人がやるといいんですけど、出来る人ってごく限られていて、大概の人は、いわゆる本当っぽくやってる嘘っていうのが丸出しになっちゃうっていうか。本当っぽくやることに意味があるという風に作り手が思ってるんだね、ぐらい止まりで、本当に本当っぽい感じで、これ本当か!?というとこまでなかなか迫って出来ないっていうのも一つあるんですけど。
もう一つはやっぱり、現実なぞってもね、それをわざわざ映画で見せられてもな、っていう気持ちがあるのかもしれないですね。僕はフィクションが好きで、ある種フィクションの度合いを高めていくとどっかで逆にリアルに反転するって僕は思ってるんですけども。フィクションじゃなきゃ描けないリアルってのがあって、いわゆるリアルっぽいものをやって行くだけだとつかめないリアルっていうのがフィクションの中にはあると思ってて。ぼくはそれをやりたいって思ってるんでね。リアルっぽい芝居、僕はあんまり好きじゃない。
――最後に一言お願いします。
万田 やっぱり『イヌミチ』は役者がいいですよ。主演に限らず、さっきも話が出ましたけれども、アクターズのね、映画美学校のアクターズ・コースの子達がみんないい、スクリーンをしっかり支えてる。
最初はやっぱり永山さんも矢野くんも大丈夫? (笑) っていうところからスタートしましたからね。そっから思えば、ものすごくいい。ポスターの永山さんにしてもね、ピタッと画面にハマってますもんね。
そのへん、ものすごく安心して見られる映画なので、自主映画に近い形の映画ですから、とかく敬遠されがちなんですれども、映画の中身の面白さをやっぱり見てもらいたい。余計な心配をしないでも見られる映画ですので是非見てほしいなって思います。
――ありがとうございました。
(2014年3月9日 映画美学校にて)
【映画情報】
『イヌミチ』
(2013年/日本/HD/72分)
映画美学校2012年度高等科コラボレーション作品
監督・編集:万田邦敏
脚本:伊藤理絵
出演:永山由里恵、矢野昌幸、小田篤、小田原直也、古屋利雄、茶円茜、古内啓子、中川ゆかり、古川博巳、柏原隆介、兵藤公美
撮影:山田達也/照明:玉川直人/録音・整音・効果:臼井勝/音楽:斎藤浩太、下社敦郎/音楽監修:長嶌寛幸/美術:萩原周平、赤松直明、鈴木知史/衣装:松岡智子/助監督:菊地健雄/制作:大野敦子/カラリスト:田巻源太/Bカメラ撮影:星野洋行/撮影助手:高嶋正人、中村太紀、木村玄、光田力哉/照明助手:茂木俊幸、迫田遼亮、若栗有吾/録音助手:下社敦郎、栗山道太/演出助手:松本大志、三野航、花山奈津/制作進行:鈴木英生、阿部瑶子、太田英介、清原悠矢、今野友裕、立花麻衣
/製作・配給・宣伝:映画美学校
公式サイト http://inu-michi.com/
◎3月22日(土)より、ユーロスペース他全国順次ロードショー
【監督プロフィール】
万田 邦敏(まんだ・くにとし)
1956年生まれ。雑誌での映画批評やPRビデオの演出、関西テレビの深夜ドラマ(「極楽ゾンビ」「胎児教育」)の演出を経て、『宇宙貨物船レムナント6』で監督デビューを果たす。主な監督作品に『UNLOVED』(01)『The Tunnel』(04)『ありがとう』(06)、『接吻』(07)など。
【聞き手プロフィール】
小岩 貴寛(こいわ・たかひろ)
1982年生まれ。映画美学校フィクションコース・批評家養成ギブス修了。